◇8.翻訳できてないっぽい
あらゆる角度で耳を疑った。
魔王は先刻と変わらず、冷たい無表情である。声も同じく、まるで感情の籠っていない冷えたものである。
だが、やっぴー。そして、だよん。
顔と声に対する挨拶と語尾の乖離が激しすぎて脳の処理が追いつかな――いや違う、そこも気になるけれど、一番の問題はそこじゃない。
今の言葉は、魔族語だった。
もちろん魔族が魔族語を話すのは当然なのだけれど、本来なら私には人間の言葉で聞こえていないと、おかしいのだ。
咄嗟に魔王の装飾品に目を走らせれば、彼の腕には最新機種らしき翻訳魔道具がちゃんと装着されている。であれば人間の言葉で聞こえるはずなのに、聞こえてきたのは純然たる魔族語だった。
なお、魔道具で翻訳されなければ理解できないはずの魔族語を、なぜ私が理解できたかというと、魔界に来る前の二週間で猛勉強をしてきたからである。
翻訳魔道具があれば会話に支障はないとは分かっていた。
だが、魔界の妃を目指すのであれば、魔界の言葉を話せた方が魔王にも魔族たちにも心証が良かろうと企んだのだ。
たどたどしい魔族語で挨拶をする異国の姫。うん、健気で可愛いぞ!
と意欲を燃やして、死ぬ気で語学を学んだ。全ては可愛いアピールのために。
魔族語に関する文献は非常に少ないが、そこは大国であるエスタルの王宮図書館、数冊の本は見つかった。
どの本も痛みが激しく読めない箇所も多かったけれど、濫読派にしてあらゆる書を読み伏せる司書のお姉さんに穴抜け箇所を読み進めるコツを教えてもらったり、趣味で魔界文化の研究をしていたという魔法士のお爺さんが助言をくれたりしたおかげで、多少の魔族語の心得は身についた自信がある。
というわけで、私には魔王が発した魔族語も、どうにか理解できたのだけれど。
「めちゃんこ遠いとこから余の家までお疲れちゃーん」
発言のノリが綿のように軽い。
重々しい雰囲気に反した気さくにも程がある内容、および、なぜか言葉が翻訳されていない現状。
その二つの予想外のせいで、完全に思考が停止してしまった。固まる私の前で、魔王がやはり冷徹な無表情のまま、やはり無感動な低い声で言葉を続ける。
「おいでませ魔界。ウェル&カム」
頼むから今以上に現場を混乱させないでくれるだろうか。
こちらは冷静になりたいというのに、魔王の発言に思考を乱されて仕方がない。
不幸中の幸いと言えるのは、目が合った瞬間に感じた逃げ出したいほどの恐怖が、動揺しすぎたせいで吹き飛んだことだろうか。否、恐怖の代わりに混沌に叩き込まれた感じなので、別に幸いでもない。災害かもしれない。
色々と処理が追い付かないために立ち尽くす私には、もはや表情を取り繕う余裕もなく、やっぴー発言を受けた際の「んっ?」という表情で時が止まっていた。
魔王は私が怪訝な顔で直立不動であることに気が付いたようで、その凍ったような無表情が、やや不思議そうなものに変わる。
「……トレイシア?」
魔王は遠慮がちに私の名を呼んだ。挨拶もせずに棒立ちの私を叱責するでもなく、じっとこちらを見つめている。
動揺で恐怖を押し出されていなければ、きっと気づけなかった。
それくらいに微かなものだけれど、魔王の眼差しには、確かにこちらへの気遣いが宿っていた。
……この魔王、割と親切……?
あまりに表情が冷たいし声が低いし目が合った途端に生存本能が警告を発したし、絶対に歓迎されていないと思ったけれど、そうではないのかもしれない。
魔王が自ら玄関先まで出てきているこの状況も、よくよく考えれば最上級の歓待の姿勢と言える。
それに、周囲の雰囲気と合ってなさ過ぎて違和感にばかり目が行ったこの城門だって、素直に評価すれば、ただ可愛いだけだ。
まるで、私くらいの年齢の女性を喜ばせることを意識して、張り切って飾り付けたみたいに。
もしかして普通に、いや、むしろかなり心を込めて、歓迎されているのでは……?
相変わらず魔王から発せられる「ひれ伏せ愚かな人間」みたいな威圧感は凄まじいけれど、状況証拠の方を信じることにし、覚悟を決めて口を開いた。
「はじめ、まして……?」
私の言葉の方はきちんと翻訳されるのだろうかと不安に思いながら、恐る恐る、まずはありのままの人間の言葉で挨拶を試みる。
魔王はその美術品めいた美しいご尊顔を、「んっ?」という風に傾げた。
あっ駄目だわ。本格的に翻訳されてないわ。
翻訳魔道具はこの場にあるのに、なぜ……?
お互いに「んっ?」という顔で首を傾げ合っていたら、魔王の背後からもこっ、もこっ、もこっと、無駄に柔らかそうな足音が迫ってきた。




