◇5.出発当日
二週間後。
魔王の婚約者として、魔界へ発つ日がやってきた。
エスタル王国から魔界に行く場合、かなり果てしない旅路(それこそ勇者がパーティを組んで大冒険するレベル)になる。
普通なら二週間程度では準備などできない。だが、今回は魔王がわざわざ、転送魔法用の魔法陣を用意してくれたのだという。
転送魔法は非常に高度な技術なので、多くの魔法士を抱えるエスタル王国にさえ、扱える者は一握りしかいない。それも無機物や音声の転送が精いっぱいである(それでも魔界との通話や書簡のやり取りが可能になるだけ大変助かる、と外交官は言っていた)。
だが魔王は、私の送迎のためにポンと気軽に転送魔法陣を、それも見たことがないほど緻密に編まれたとんでもない品質のものを、こちらに寄こしてきたのだという。
魔界の魔法技術力の高さに、宮廷魔法士たちは蒼褪めたらしい。これは魔王からの牽制に違いない、魔法で太刀打ちできる相手ではないと見せつけてきたのだ、と。
私としては牽制だろうが力の誇示だろうが何だろうが、苦労して長旅せずとも一瞬で目的地に着けるのなら大変ありがたい、という感想以外はなかった。
ありがとう、まだ顔も知らない魔王。
おかげで持っていく荷物が大幅に減ります。
とか思っていたら、手荷物が減ったどころか、手ぶらで魔界に行くことになった。
いや、手ぶらで魔界入りて。
「じょ、女王陛下。私は本当に、手ぶ……何も持参せずに、魔界へ向かってよろしいのでしょうか?」
出発直前、私は再び女王陛下に呼び出されていた。
謁見の間で魔王との政略結婚の話を受けた時には、大臣や他の王女やらも揃っていて仰々しい雰囲気だったが、今回呼ばれた場所は女王陛下の執務室だった。室内は人払いされており、私と女王陛下のふたりだけである。
で、何を言われるのかなと身構えていたら、まさかの「何も持たずに発て」という指示がきたのだ。
護衛も侍女も付けることはできないとは事前に聞いていたから、ひとりで行く心構えはできていた(むしろ気を遣う相手がいなくて気楽でいいなとさえ思っていた)。
だからそれはそれとして、着替えとか歯ブラシとかお気に入りのティーカップとか詩集に見えるよう表紙を偽装した冒険小説上下巻とか、そういう身の回りの必需品は当然のように持ち込むつもりで、しっかり荷造りしていたのに。
「何の用意せずに向かうというのは、あまりにも、その……まだ婚約段階とはいえ、ほとんど嫁入りですし……ど、どうですかねー……?」
私が誰かに意見することなど極めて稀なのだが、仮にも一国の姫がご近所よろしく着の身着のままで婚約先に参上というのはさすがに異常事態なので、引きつった半笑いでどうにかこうにか具申してみる。
「構わぬ」
女王陛下は私の質問に気分を害した風もなく、端的に答え。
「……これは、あちらの要望なのだ」
と、苦々しく付け足した。
その表情で、これは女王陛下にとっても不本意なことなのだと悟る。
「昨日、魔王は転送魔法陣を送ってきたと同時に、『全てこちら側で用意する』と言ってきた。間者や危険物を警戒してのことだろう。魔王の機嫌を損ねるのは得策ではないゆえ、そなたに供は付けることはできぬし、嫁入り道具を持たせることもできぬ」
「な、なるほど……? ではあの、翻訳魔道具はどうしましょう? 魔族の方と話すには必須ですが……」
「翻訳魔道具も置いて行け。あちらが最も警戒するのは、魔道具を使っての暗殺や間諜だろうからな。不興を買う芽は摘んでおくに限る」
「なる、ほど……」
「それにどうせ翻訳魔道具は、我との会談の時と同様、魔王自身が身に着けていよう。その場のひとりが起動させておけば事足りるものゆえ、そなたが持参せずとも会話に支障はあるまい」
「なる……ほど……」
暗殺を警戒されているのであれば、装飾品の類も外さなければいけないんじゃないかな、と思ったのだけれど、その点については女王陛下は言及しなかった。
あくまでも相手の要望に沿って何も持たずに来ましたよ、というポーズが重要ということだろう。
おかげで時間をかけて煌びやかな身支度をしたこの身はそのままで良さそうである。
だがしかし、女王陛下の魔王に対する警戒の強さには驚いた。
重々しく事情を説明してくれたところ申し訳ないのだけれど、魔王が言った「全てこちらで用意する」というのは、魔界側の気遣いというか、婚約者を迎える立場の常套句であって、「何も用意してくるな」という脅迫と捉えるのは、さすがに考え過ぎではと思ってしまう。
「人を疑うことを知らぬ無垢なそなたにすれば、それは考え過ぎだと不思議に思うのも無理はあるまいよ」
しまった、うっかり疑問が顔に出てしまったらしい。
幸いにも純真さゆえに理解できていないといういい感じの解釈をされたみたいなので、大人しく黙って続きを促す。
「そなたは対面したことがないゆえ、知りようもないか。……魔王、奴は恐ろしき男よ」




