■1.魔王、人間と婚約する
長きにわたる魔族と人間の争いは、長きにわたる冷戦を挟んだ末に、ついに疲れ果てた両者の合意により和平が成立した。
友好の証として、人間界で最も大きな国の、最も尊く高貴な身分の姫が、魔王の妃として輿入れすることになった。
婚約期間は一年。姫には魔王の婚約者として一年間を魔界で暮らしてもらい、問題がなければそのまま婚姻、という手筈である。
魔界にやってきた人間の姫の名は、トレイシア・エスタル。
淡い金色のふわふわとした髪に、澄んだ青色の瞳をした、十八歳の人間の娘。
魔王たる余は、今日から彼女の婚約者である。
「お初にお目にかかる、トレイシア。余がこの魔界の王、魔王である」
魔王城の城門にて、余は自ら婚約者を出迎えた。
なお、これが余とトレイシアの初めての対面である。
ここにいるのは余と、魔界にやってきたばかりのトレイシアのみ。
魔族に慣れていないだろう彼女を、あまり大勢で囲むのも緊張させてしまうだろうと思い、敢えて余だけで出迎えた形だ。
無論、「魔王本人以外に出迎えがいないなんて、私あまり歓迎されていないのかしら」と彼女が落ち込まないよう、城門付近は色とりどりの花、折り紙で作った輪っか、きらきら素材の吹き流し、ハート型の風船などで力の限りに飾り付けておいた。我ながら歓迎的な雰囲気は醸せていると思う。
「遠路はるばる、よくぞ余のもとに来てくれた。ようこそ魔界へ。歓迎するぞ」
「……」
余の呼びかけに対し、トレイシアは立ったまま何も言わない。
魔族、それもその長たる魔王の余を前にして、怯えてしまっているのだろうか。
それとも、余の顔が怖いのだろうか。うっかり笑顔を作るのを忘れていた。
余は無表情だとよく言われる。意識しないと表情筋が動かないのだ。
初対面の婚約者が無表情では、彼女が怖がってしまうのも無理はない。
しかし、今から急に笑顔になっても不自然だろう。いやでも怖がられたままよりは……。
悶々と悩んでいたら、どうにも彼女の表情が、恐怖のそれではないことに気が付いた。「んっ?」みたいな顔である。
何だろう。こちらが用意した転送魔法陣を使って、一瞬で魔界に来たトレイシアに対し、「遠路はるばる」と言ったのが変だっただろうか。
転送酔いしないように最高品質の魔法陣を編んで渡したので、彼女にとっては遠路はるばるな実感はないのかもしれない。でもエスタル王国から魔界が遠いのは本当だしな。
いやそれとも、初対面でいきなり下の名前を呼んだのがまずかっただろうか。
「いきなり名前呼びなんて馴れ馴れしい男」と思われてしまったのだろうか。
でも婚約者なのだし、家名で呼ぶ方がよそよそしくないだろうか。
ああ、駄目だ、正解が分からない。
「……えーっと、トレイシア?」
ちゃん、を付けるべきか……いやでも却って馴れ馴れしさが出て軽薄な男と思われたら悲しいし……と再び悩みつつ、もう一度呼びかけると。
「……。ナイスチュ、ミーチュ……?」
恐る恐る、といった具合で、トレイシアが口を開いた。
だが、発言内容がよく分からない。ナイスチュ……なんたらとは一体なんだろうか。
お互いに「んっ?」という顔で首を傾げ合っていたら、余の背後から慌ただしい足音が迫ってきた。
宰相のモリスである。
「大変ですぞ、魔王様!」
羊魔の一族であるモリスは、純白もこもこの二頭身でせわしなくこちらに駆け寄ってきた。
「大事件ですぞ、魔王様!」
「なんだモリス、もこもこしいぞ。ただいま余は迎えたての婚約者と、記念すべき初会話をだな……」
「翻訳魔道具が機能していません!」
「なんだと……!?」
モリスが食い気味に告げた言葉に衝撃が走った。
思わず、身に付けていた腕輪型の道具――翻訳魔道具に目を遣る。
翻訳魔道具とは読んで字の如く、翻訳をする魔法の道具である。
魔族と人間では母語が異なる。魔族の言語はそのまま「魔族語」、人間の言語は古代英雄語、略して「英語」だ。
魔族語と英語は、なんかもう文法の時点で色々と掛け離れているので、お互いに理解するのが難しい。言葉が通じないと争うのも一苦労なので、魔族と人間はお互いに通訳魔法士を介することで意思疎通を行ってきた。
並行して魔道具による翻訳の研究も進められ、五十年くらい前に大手商会が安価な翻訳魔道具を大量生産したことで大流行、今や魔道具による翻訳が世界のデファクトスタンダードとなった。
デファクトスタンダード。お察しの通り、これは魔族の言葉ではない。英語である。
長きにわたる人間との争いで、英語は魔族の文化にもしばしば取り入れられるようになったのだ。
たとえば「ニュアンス」。
これは魔族語では「機微」に相当するらしいが、ニュアンスを機微と言ってしまうとニュアンスが違うというか、ともかく英語には英語にしか出せないニュアンスがあるので、そういう英語は魔界にも浸透しているのだ。
が、所詮は単語レベルでの浸透であり、会話を成立させるには翻訳魔道具が不可欠である。
翻訳魔道具が流通した昨今、わざわざ難解な通訳魔法を習得する者も、魔族語を好んで学ぶ一部の通な人間も、敢えて英会話を勉強してみせる一部の粋な魔族も激減し、誰もかれもが翻訳に頼る世界というのが現状である。
そういうわけで、翻訳魔道具が機能しない今の状況は、非常に危機的だった。
婚約者同士の記念すべき初会話の危機である。
世界平和のための婚約なので、世界の危機と言い換えてもいい。
「モリスよ、なぜ翻訳魔道具が起動しないのだ? 最近買ったやつだぞ……? 発売の前日から徹夜で並んで買った最新の腕時計型だぞ……?」
「メーカーに問い合わせたところ、『翻訳魔道具に対し大型アップデートを実施したが、配布プログラムに不備があり、緊急対応中』とのことです。公式の見解では、復旧までに最短で半月掛かると」
「つまり?」
「しばらく翻訳魔道具は使えません」
「なんだと……!?」




