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創立記念パーティから概ねひと月ほどが過ぎていた。
その日々はあまりにも穏やかに進んでいった。
ルカと揃って朝食を食べ、ルカが渡してくれた本を読み日々を過ごし、そして帰宅したルカや両親と夕食を共にする。父は宰相、母は領地経営を担っており忙しくしていたので、ほとんど両親が同席することは無かったけれど、時々は家族みんなで食卓を囲み、そういった穏やかな日々は心を癒していった。
ルカはそれまでの冷たい態度が嘘のように優しく、クロエを気遣った。時には二人で庭に出て草花を愛でたり、小説の感想を語り合ったりして、まるで仲の良い姉弟に戻れたみたいでうれしくなる。ずっとこんな日々が続けばいいのに、と願うほど。
その日々が終わることは、父がクロエを書斎に呼び出したことで悟った。ずんと気分が重たくなるのを押さえ込み、父に向き合う。父は書斎の革張りの椅子に腰掛けており、クロエの姿を見やるとペンを動かす手を止めた。
「クロエ、今まで不自由をさせたな。学院にも来週からは通うように」
「はい、お父様」
「クロエが嫌がらせをした事実はなくでっち上げだと王家には理解していただいてる。けれどそうなると今度は王家の立場が悪くなるからだろうな。婚約解消には中々承諾を貰えなかった」
「どういう事ですか、お義父様」
よく通る低い声だった。父のものでも、クロエのものでもない。
声のした方向を振り返ると、そこには形の良い眉を盛大にひそめているルカの姿があった。
「クリストフ殿下はミリア・ハズバンド男爵令嬢を側妃として召し上げる。正妃はこれまで通り、クロエをと、望まれている」
それを聞いたとき、愕然とした気持ちだった。
他国では認められているが、一夫多妻が認められていないこの国では側妃の存在は過去に例はない。
きっと、ミリアに今から正妃になるための教育を施したとしても、クリストフの立太子には間に合わない。立太子後は正式に公務もこなさなければならない。クロエは来るクリストフの立太子に向け、彼を支えるために日々教育を受けていた。あと一年足らずでは、もともとは平民だったというミリアを王太子妃に据えるのは難しいのだろう。
だからこそ、正式に王太子妃として教育を受けたクロエが必要なのだ。
ルカが長い脚を利用して大股で歩を進め、父の眼前にある執務机に力強く手を振り下ろす。ドンと大きな音がして、思わず肩を竦め身をこわばらせた。
「そんなこと許されるわけがない!クロエも、あの女もだなんて……!」
「冷静になれ、ルカ。クロエ、お前はどう思う?」
突然話を振られて、クロエは視線を左右に彷徨わせた。腿の上で組んだ掌の内側に、そっと汗が湿る。
婚約破棄一択、だと思っていた。
王家と婚約破棄をすれば、どんな理由であれ傷物公爵令嬢には次の縁談は望めない。クラランス家としてもそれは不本意であろう。側妃の存在さえ認めれば、今まで通りでいられる。クラランス家をいずれ継ぐであろうルカに余計なお荷物を背負わせたり、迷惑をかけることはない。でも――……、
「……申し訳ございません。少し、考えさせてください」
それを聞いたルカは薄い唇を小さく噛み、切なげに顔を歪めた。けれど、ほんの一瞬で持ち直し、軽く息を吐くと父の執務机から離れる。すれ違う間際、クロエの肩越しにこういいながら。
「慕っている相手と添い遂げられれば、満足ですか?」
どういうことか聞く隙も与えず、ルカは足早に父の書斎を立ち去った。
「まったく……ルカにも困ったものだ」
父が頭を振るのをどこか他人事のように見ていた。
父の書斎から自室へ戻る道すがら、紫色のリボンのかかったルカの部屋が目に入る。殿下との一連の婚約破棄騒動の中で、ずっとルカは優しく接してくれた。それが元の関係に戻るのはさみしい。意を決してルカの部屋の扉をノックした。
「……どうしたんですか?殿下との関係を続けると、僕に言いに来たんですか?」
ルカが黒い前髪をかき上げて、口元を歪ませる。緋色の瞳は冷たく、殿下と婚約をしていた頃のルカに戻ったようだった。
「ルカと話がしたいの」
「聞きたくない」
取り付く島もない。けれど、クロエは諦めず、閉じようとするドアに慌てて声をかける。
「ルカと仲良くしたいの。たった二人の姉弟じゃない」
「……姉弟、」
ルカが言葉を繰り返す。顔にさざ波のような影が走り、きゅっと口を引き結ぶのが見えた。
なんだかそれがクラランス家に来たばかりの不安そうな幼いルカに重なってしまう。そっとルカの掌をすくい取ると、やがてルカが顔を上げた。その紅い瞳は不安げに揺れているように見えたけれど、やがて意志がきまったかのように、クロエの手をぎゅっと握り返してくる。
話を聞いてくれるのだ、と、ほっと安心しかけた瞬間、強い力で手首をつかまれ、ルカの部屋にひきずりこまれる。よろけて倒れそうになるクロエを、ルカの大きな掌が腰を支え、その勢いのまま壁に押しやられた。
驚いて小さく声が出たクロエの口を塞ぐようにルカの唇が重なる。まるで噛みつかれているようだった。
「…んむっ!?」
初めての感触に驚いて抵抗をしようとしたけれど、壁とルカに挟まれて逃れることができない。気が付けばルカはクロエよりも頭一つ分背が高くなっており、まるで彼自身が堅牢な檻のようだ。ルカの長い睫毛が、眦に触れるほど近くに顔がある。声をあげてもくぐもった音にしかならず、ルカの咥内に消えていく。開いた唇の隙を狙って熱い舌が差し込まれ、初めての感触にクロエは小鹿のように足を震わせるしかできなかった。ルカの骨張って乾いた指先や、筋肉が美しくついた腕や、力強さに、痛烈に"男"だということを意識させられる。
「……、血の繋がりはなくても、姉弟?」
やがて、クロエの下唇を一度甘噛みしてから開放したルカが、そうつぶやいた。
艶やかな黒髪から覗く赤い瞳は、翳って昏い。
「僕はずっと……、小さな頃から義姉さんが……、クロエが、好きだった」
乱れて鼻梁に掛かったクロエの一筋の髪束を掬い取り、毛先にそっと唇を落とした。その手つきが優しくも艶があり、クロエはまた身を震わせる。ただ何もできず瞠目していると、ルカの心臓をつかむような切ない声が耳孔をくすぐった。いつの間にか声変りをして低く、落ち着いた声になっていた。
「けれどクロエは殿下の婚約者。あきらめようとしたけど、アイツはクロエを選ばなかった。なら、俺が……クロエを貰ってもいいよね?」
目の前にいる、小さな頃から知っているはずのルカが今は別人のように思えた。