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立ち止まること


 三日が経過した。食料が底をついた。


 萌子は虚ろな瞳で壁を見つめる。


 誰もいない。ずっと一人。いつもは誰かがいた。どんな状況でも誰かがいた。


 集団の中の孤独は経験がある。完全な孤独は初めてのことだった。現代社会に

生きる人間にとっては当然のこと過ぎて、理解していなかった。


 自分で行動しなければ、事態は好転しないということ。


 努力を積み重ね、地味だった容姿を、今風に変えた。言動も行動もすべて、変えた。


 中学とは遠く離れた県外の高校を受けた。一人暮らしすることになったが、腐った母親は厄介払いできたと考えたらしく、反対されなかった。それはそうだろう。養育費も慰謝料も貰っているのだ。自分も浮気をしていたくせに、父の浮気を糾弾し、せしめた。


 しかし萌子にはどうでもよかった。父も母も同じように最低だったからだ。 


 そうやって今の萌子に至った。


 しかし最近は努力をしておらず、環境に胡坐を掻いていたように思う。驕っていた。環境が自分をダメにした。


 高校デビューを迎え、最初は拙く。徐々に慣れた。もっと有意義な高校生活だったはずだ。それがいつからか腐り始めた。思い返すと、本当に自分が望んだような環境だったかは疑問だった。


 全員を見返してやる、そう思って努力した。


 自分は奴らとは違う、そう思って反省した。


 今の自分はどうだ。麦をいじめ、友人を見下し、男を翻弄して良い女を気取っている。


 これが、なりたかった自分なのだろうか。


 そしてその結末が、孤独な死なのだろうか。


 今、自分は一人。誰もいない。誰も助けてくれない。


 意固地になり、積み重ねてもいない誇りを持っていた。素直ではなく、頑固で、意地を張る。独善的で利己的だった。


 これではまるで自分の思い通りにしなければ気が済まない父と、様々な男を作り遊んでいた母と変わらないのではないか。将来的にあんな姿になるのか。



 怖気が走った。



 イヤだ。イヤだ。そんなのイヤだ。


 それがイヤで努力したのに、むしろ似る方向に進んでいたのだ。


 一人でどうにかできなかったのだ。なんとかしたが、それはその場を切り抜けただけで、逃げた先には別の問題が生まれていただけだ。


 腹が鳴った。空腹の知らせだ。


 部屋から出たくない。



 怖い。もうイヤだ。



 萌子は涙を流していることに気づいた。


 もう泣かないと決めたのに。泣いてたまるかと決意したのに。


 遮蔽物を退かし、扉を開けようと正面に立った。足取りは重く、ふらついている。


 誰も助けてくれない。人間はそんなに綺麗な生き物ではない。そう思っていた。


 けれど、本当にそうなのか。


 過去に誰かに助けを求めたことはあった。しかし、その相手はどうだった。元々、自分に関心がなく、あるいは無関心を維持することしかできない矮小な人間ばかりではなかったか。


 こんなところにいたくない。一人で死にたくない。


 このまま生きて両親のようになりたくない。


 もしも、本当に何の下心なく、純粋に助けてくれる人がいるなら。


「……助けて」


 絞り出すように喉を通った声音。誰に言うでもなく、呟くと目頭が熱くなる。鼻の奥がつんと痛み、渋面を浮かべた。


「助けてよ、誰か……もう、イヤだよ、こんなのっ」


 誰もいない。誰も助けてはくれない。


 自分でどうにかするしかないのだろうか。


 自分の腕を見下ろした。こんな華奢な腕でどうしろというのだろう。狩猟採取のような原始的な生活をしろというのか。しかも一人で。どうやって? そんな知識も気力も勇気もないのに。


 消極的になりながらも、萌子は外に出た。通路はいつも通り、黒に埋められた空間だけが広がっている。


「だ、誰か、誰かいないの!?」


 返事はない。


「竜胆っっ!」


 いない。


「悠李ちゃん!」


 いるはずがない。


 姿は見えず、物音もしない。


 本当の孤独だ。


 心の底ではこう思っていた。多分、これは竜胆が自分の態度を見て、集団の和を乱す自分を排除した。そして改心させるために一人にさせたのだ、と。タイミングを見ても、そうとしか思えなかった。


 けれど、そう自惚れて三日が経過した。そして、萌子の中の確信は揺らいでいる。本当は、何らかの事故が起こっているのではないか。でなければ、ここまで放置するだろうか。するかもしれない。けれど、そうじゃないかもしれない。


 思い込み、甘え、そのどちらも他力本願が根底にある。誰かに頼ることを良しとせず、誰かを利用することを考えていた。それなのに、今は情けなくも縋っている。


 女王様を気取って、有頂天になっていた。実際、一人でいれば何もできない。無力な人間なのに。芯はこんな状態で生き抜き、逞しく成長したというのに。


 無理だ。自分には、とてもできそうにない。


 萌子は扉の前で崩れ落ちた。地面の小石が足に痛みを走らせる。それでも、無視して無気力な視線を正面に向ける。


 それから数分、自分が何を考えているのかわからずに無為な時間を過ごしていた中で、小さな違和感が浮かんだ。


 部屋の中から溢れる、水晶石の光が、僅かに通路を照らしている。その中で揺らぎが見えた。


 目を凝らす。すると、それは次第に輪郭を露わにした。人の形であると認識した時、萌子は小さく口を開いた。声は出ない。漫然と動向を見守ることしかできない。


 それは人か魔物か。


 しかし、この場所には敵愾心を持つ存在は侵入できないはずだ。しかし、それは絶対ではない。今の萌子には、あらゆる事象が不安定に感じ、疑っていた。


 その不明瞭な何かが徐々に姿を現す。


 それは腕を組み、壁に体重を預けていた竜胆芯だった。


「あ、あんた……え、あ、なんで」


 意味が通らない言葉がこぼれる。自分でも何を言っているのかわからなかった。


 萌子はわなわなと肩を震わせて、無意識の内に芯に向けて手を伸ばした。芯に届くはずもない腕が、空中で何かに掴まれた。


 突如として出現したそれは、見知った姿をしている。間宮悠李だった。そして隣にはエミルが複雑そうな表情で立ち尽くしていた。


 誰もいなかったはずだ。虚空から姿を現した三人を前に、萌子は激しく狼狽した。


「な、なんで、どうして、なにが、お、起こって」


「ごめんなさい、薮崎さん……」


 泣きそうな顔をしている悠李を見ても、状況が把握できない。しかし、一つだけ理解できたことがある。それはここにいる三人は自分のことを観察していたということ。


 嘲笑っていたのか。いつも威張っていた癖に、一人になれば何もできない自分を見下していたのか。三日も放置し、馬鹿にしていたのだ。


 理由は色々浮かぶ。集団の中で自分のような存在は邪魔になるだろう。だが、それがなんだというのか。こんな目に合わされて、はいそうですか、と言えるはずもない。


 萌子の中に浮かんだ感情は、当然ながら憤りだった。


「知ってたんだ。あんたも、あんたも、あんたも! ウチが苦しんでる姿を見て、楽しんでたんだ?」


「ち、違いますっ!」


 悠李は必死で否定したが、萌子の耳には入らない。


「違う? どう違うんだよっ! どうやってるか知らないけどさ、姿隠してずっと見てたってわけ? 最悪っ! 楽しかった? 人が、苦しんでる姿見て、楽しかった? はっ! 馬鹿みたい。事故とかでいなくなったんじゃないかって考えたウチが馬鹿みたいじゃん! やっぱり、わざとこんなことしたんだ? どうせ、竜胆が考えたんでしょ?」


 どんな言い訳をして来ても論破してやると、萌子は意気込んだが、結果は違った。


「ああ、そうだ」


 即座に首肯を返す芯を見て、萌子の怒りは更に増大する。


「はあっ!? ふっざけんな! どうせ、ウチが邪魔だからこんなことしたんでしょ? これで改心させるつもりだったんでしょ? 麦をいじめるなって? 文句言うなって? 残念だったね、あんたの思い通りにならないから。こんなことされて、言うこと聞くわけないじゃん! 馬鹿にするのもいい加減にしろっ!」


 感情のままに芯を睨み付けた。悠李やエミルも手伝ったのは間違いない。だが、首謀者は間違いなく芯だ。非難する相手は自ずと固定される。


 反骨の考えをぶつければ、芯の作戦は失敗したと思い知らせることができる、そう思った。もちろん、改心するつもりはない。


 むしろ余計に意固地になっていた。独りになった時は色々考えて、このままでいいのか、と反省したりもしたが、その記憶も消散した。


 こうなったらとことん、悪役に徹してやる。知ったことではない。むしろ、迎合する人間も悪いのだ。忌避したいならすればいい。淘汰したいならすればいい。


 他人なんて信用できない。結局、偉そうにして中立を気取っていた芯も、純粋を装って偽善の面の皮を被っていた悠李も蓋を開けてみれば、独善的な人間なのだ。自分と変わらない。そこにあるのは利己的な考えだけだ。だったら、自分も考えを変えない。変えてやるものか。


 萌子は鋭い視線で芯を射抜く。しかし、芯はどこ吹く風とばかりに涼しい顔のままだ。


 少しは動揺するかと思った。けれど、また平静を装っている。その自分は他者とは違う、という態度が余計に腹が立った。


 ここから帰るには芯の庇護が必要だ。ここで意地を張れば、本当に見捨てられるかもしれない。怖い。けれど、それ以上に許せないし、受け入れなたくなかった。有り体に言えば、萌子は拗ねていた。恥ずかしい目に合わされて、情けない自分を受け入れたくなくて、誰かに頼りたくないという結論に至ってしまった。



 もうどうでもいい。元々、そういう風に生きてきた。だから周りが見えて、自分の欠点がわかっていても向き合うことをしなかったのだから。


 萌子は自暴自棄になり、芯の反応を待った。


 芯はゆっくりと壁から離れ、萌子に近づく。


 辛辣な言葉を吐くか? 


 それとももう知らないと見捨てるか?


 あるいは暴力に訴えるか?


 おまえの気持ちはわかると諭すか?


 異性として見ている、なんて馬鹿なことを言い出すかもしれない。


 何を言っても、自分の心は変わらない。


 萌子は頑なに心を閉ざし、芯を見上げた。威圧感を覚えながらも一歩も引かない。それは、ただの無知であり、意味のなさない駆け引きだった。


逢坂立おうさかりつ小中学校」


「え?」


 思わぬ言葉に萌子の毒気は抜かれた。


 今、なんと言った? 


 それは、まさか、自分が通っていた学校の名前では?


 萌子は狼狽えた。何も言えず、ただ芯を見上げる。その瞳には先ほどまでの頑なな感情はなく、ただ虚を突かれて混乱している意思があるだけだった。


「な、なんで」


「俺も通ってたからな。中学三年の時、東桜花大学付属高等学校の近くに引っ越した」


 ここでなんで小中学校の名前が出るのか。そう思った瞬間、萌子はある考えに至った。


 まさか、芯は知っているのではないか。自分がいじめられていた過去を。その仮定は、芯の表情を見て確定に変わった。


「だ、だから、何なの」


「おまえは、自分が邪魔だからこんな目に合わせてのか、って言ってたな」


「実際、そ、そうじゃん!」


「ちょっと違うな。俺がおまえをここに連れて来たのは『おまえを守るため』だ」


 想像もしていなかった言葉に、萌子は一瞬、呆気にとられたが、すぐに言い返した。


「ああ、説教して、おまえのために言ってやってるんだ、って奴と一緒? 自分が言いたいだけだったり、自分のためだったりするのに、耳触りのいい言葉並べてるってことでしょ? そういうのいいから」


「もっと頭がいいと思ってたんだけどな」


 芯は後頭部を掻いて、落胆したように肩を落とした。そして、眉根を寄せて、萌子を見下ろす。その態度に、萌子の怒りの炎は火力を増す。


「何が言いたいのかわかんねぇっての!」


「ここは学校でも日本でもない。法律はない。じゃあ、規範はどうやってできる?」


 そんなことは当たり前だ。何を言ってるんだ、こいつは、と萌子は芯を睥睨する。


「多数決、に見せかけて、結局リーダーシップとった奴の言う通りになるんじゃん?」


「ご名答。今後は、俺は探索でほとんど拠点にいなくなる。となると後続組の中で役割が決まる。俺は、おまえ等のことを大して知らねぇけど、一応の立ち位置は知ってるつもりだ。んで、多数決でもリーダーでもいい。だれが統括役に立つ? そして今後どうなる?」


「どうなるって……」


 転移直後の教室であった話し合いと一緒だ。霧山迅か時崎めぐみが音頭をとるだろう。若林は教員だが役に立たないから、傍観に徹するはず。


 当然、他の仲のいい連中、中渕彰、築山岩次を筆頭に、中条巴、御身屋瑠璃、間宮花凛、そして妹の間宮悠李も二人を支持するだろう。反対意見は萌子、望月夢衣、舞白麦。そして夢衣と麦は本心から萌子に従っているわけではない。


 人数で負けており、しかも狩猟採取のような運動能力、知識、行動力、生存能力といった本能的な能力が必要になる場所では、萌子のようにただ存在を誇示して生きてきたタイプは力を発揮しない。


 法律があり、学校という独特の空気感が漂う閉鎖空間だからこそ萌子の立場は形成できた。あるいは、頭の悪い男子でもいれば自陣にとり込めただろうが、不幸にも他の連中は多少、自意識がある。周りに流されにくいタイプばかりだ。精々が間宮花凛と若林くらいだろうが、彼女達は能力がない。無能の域に入る。つまり力関係がすでに決定づけられている。


 そんな中、萌子がわがまま放題、役割も担わず、自由気ままに振る舞っていればどうなる? やがて夢衣と麦は迅達に従うだろう。なんせ萌子には恫喝程度しかできない。数が多く、やるべきことを行っている陣営に入るのは当然だ。夢衣は間違いなくそうする。長いものに巻かれるタイプだからだ。


 麦は従うかもしれない。しかし彼女だけいても大して意味はない。


 最終的に萌子は孤立する。淘汰される。結局言うことを聞くしかなくなる。だが、これはまだいい方で、引くことができなくなった萌子が、迎合せず、自分勝手にしていれば、下手をすれば村八分に合う。それならまだいい。麦や夢衣、あるいは他の萌子に不満を抱いた連中から報復に合うかもしれない。


 ここに規範はない。法律がなくなれば、必然的にリーダーが法となる。絶対的に自分を守るものはなくなる。


 ここは社会ではない。大人はいない。狭い社会では、世間という見えない衆目は存在しない。そんな枷がなくなれば、正義感の元、誰かを殺すこともあるかもしれない。


 ここは学校ではない。集団社会の中で築く、独特のヒエラルキーは存在しない。人が少なくなったら社会構造は一変する。


 現在、この迷宮にあるヒエラルキーは『生きるために働ける人間』という条件の元、優先順位で決まっている。つまり萌子は下から数えた方が早い位置だ。


「少しは理解したみたいだな」


「だ、だからって、それが何?」


「だからお前を守るためだ。俺はこの迷宮の恐ろしさを知っている。生き抜く難しさも知っている。その中でどういう精神状況になるのかも知っている。そんな中で、今まで通り自己中心的に生きてちゃ、おまえが危ない。だからここに連れて来た。気づいて欲しかったからだ」


「……何を」


 どうせ、間違っている、正しいことをしろとか、説教が始まるんだろう。偉そうに、大人のつもり? 舐めないで欲しい。上っ面の言葉なんていらない。


 萌子は自分が小刻みに震えていることに気づいた。肩を抱きしめて誤魔化したが、近くの悠李には気づかれたかもしれない。そう思い、気まずそうに視線を落とした。


「おまえなら変われるってこと」


 思いもよらない言葉に、萌子は、はっとした。


「根拠がなかったらここに連れて来てない。俺は知らない奴ならどうでもいいと思ってた。けど、俺は小中学校の頃のおまえのことを知っている。どれほどの努力をしてきたのか、その想像はできる。だが、おまえは頑張り過ぎて道を誤ったんじゃないか? それが今の自分なんじゃないか? あの時、決意したのは、望んでいたのは今のおまえか?」


 それは萌子が思っていたことそのものだった。


 誰も知らないはず。けれど、芯は知っていた。昔の萌子、いじめられて、根暗で、底辺の頃の萌子を。その上で、今の萌子に至るまでの道程を理解している。


 芯は言っている。萌子がいかに努力したのかわかる、と。それはこの数年で変わった彼だからこそわかることなのかもしれない。どれほどの苦労を重ねて今に至ったのか、それは萌子も芯も同じこと。


 過程は違う。重みも違う。種類も違う。けれど、変わったという結果は同じだ。


 芯の言葉一つ一つが、過去の自分へと届く。


 あんたに何がわかる、そう言いたかったが、言えない。


 芯にしかわからないのだ。小中学校の萌子を知っていて、自身も辛い日々を積み重ね、変わった。そんな人間は竜胆芯しかいない。だから萌子は閉口した。


 意地になっている反面、氷解する思いがあったからだ。


 誰もわかってくれない。それでいいと思っていたのに。わかっていてくれた人がいたことがこんなにも嬉しい。けれどそれを認めたくはなかった。でも否定もできない。


「俺は、おまえの努力を知ってる。いや、知ってたんだけど、日本にいた頃の俺は他人に興味がなかったから、気にしてなかった。けど、今はわかる気がする。おまえがどれだけ努力して苦労して今のおまえになったのか。だから、何となく、放っておきたくなかったんだろうな」


 何となく芯を見たくなくて、項垂れたままで話した。


「…………それで、わざわざこんなお膳立てしたってわけ?」


「話すだけじゃ伝わらないと思ったからな。こういう状況で一人になって、考える時間も必要だと思った。ユウちゃんは一応、俺の意見に賛同してくれたんだけどよ、まあ、気乗りしてなかったし、今もしてない。エミルも半ば俺が無理やり手伝ってもらった感じだ。だから、俺が全部仕組んだことってわけだな」


「馬鹿じゃん。そんなことのために、四日近くも見てたわけ?」


「安心しろ、ずっと見てたわけじゃない。プライバシーは守ってるぞ。それはユウちゃんとエミルに聞けばわかる」


 芯の言葉を鵜呑みにするなら、彼等はじっと萌子を見守っていたということになる。考えてみれば、四日こんな場所で待つだけでも結構大変だ。しかも萌子にバレないように注意を払わなければならない。それだけ萌子のために労力を割いてくれたとも考えられる。


 それも萌子なら変われると信じ、萌子を守るために行動を起こしてくれたのだ。


 和を乱されては困る、そう思ったのかと考えた。しかし、三年も迷宮で生きている芯には、萌子達の助力は必要ないのだ。彼は一人で生きられる。むしろ足手まといにしかならないだろう。だったら萌子の世話をしようとしたのはなぜだ。


 簡単な答えだった。だから、認めたくもなかった。


「ば、馬鹿みたい」


「馬鹿じゃないとやってられないんだよ」


「……い、意味わかんない、あ、あんた。なんでここまですんの」


 頬の筋肉が命令に背く。意思に反して震え、唇を尖らせても意味をなさない。頑なに守り続けていた何かが半壊している。抑えは効かない。長年、固めたプライドにヒビが入った。


「こんな状況だとさ、日本にいた時のことをよく思い出すんだ。ここだと努力しようが労力を割こうが全く無駄に終わることばかりなんだよな。

 けどよ、日本だと、努力自体が認められることも多いだろ? そんな中でさ、すげぇ努力して、性格とか容姿とか変えて、勉強してそれなりに成績上げてさ、他にも色んなことあっただろうに立ち向かって解決して、それでも褒められなくて、実際、どんだけすごいことなのかわかってくれる人がいなくても、自力でどうにかやり遂げて――」


 だから、だからなんだと言うのだ。


 他人のあんたに何がわかるの。そう、萌子は芯を拒絶した。しかし、感情は思い通りにならない。肩を抱く腕の力は増すばかりだった。


「努力も成果も誰も知らない、結果だけ見て、それが当たり前だって思われてる人間を見るとさ、思うだろ? こんなにやってるのに、どれだけ努力したのかも知られずに、褒められも評価もされない。そんな奴におまえはすごいんだって、大変だったんだなって、言ってやりたいって思ったんだよ」


 おこがましいにも程がある。赤の他人に、何も知らない人間に手放しで褒めれても嬉しくない。そう思うのに、こみ上げてくる感情に翻弄された。こんなに、どうしようもなく、心が揺れたことは初めてだった。


「俺は努力とかしなかった人間だったけど、今は理不尽でも努力が結実しなくても、しなきゃならない状況に陥って初めて、頑張っていた奴を応援したいって気持ちが生まれた。知っちまったからさ、もったいないって思った。せめて手助けしたいって思った。おまえなら、変われるって思ったから。一度やり遂げたんだ、もう一度やり直せるって思った」


 知らない。知らない。こんな言葉を言ってくれる人がいるなんて知らなかった。


 だから、萌子は必死に否定する。けれど、それももう無理だった。


「自分じゃ気づけなくても、誰かに言われて気づくこともあるだろ。それが今なんじゃないかって思ったんだ。おまえはちょっと道を見誤ったんだと思う。けどやり直せるとも思う。だっておまえは――」


 それ以上はやめて。そう思うのに口は動かない。それを理性も本能も許さなかった。 


「おまえは頑張り屋だからな」


 萌子は、芯の言葉の一つ一つが胸に染みこんで行くことに気づいた。心地よくて、求めていた言葉が次々に浮かんで、浸潤する。


 萌子はただ芯を見つめた。呆然と見つめ、言葉が終わっても見つめ、芯が小さく柔らかく笑った時、我慢が限界を迎えた。


 頬を伝う涙が、顎に流れ、地面に滴る。熱を伴い、負の感情をも一緒に流していく感覚の中、萌子はどうしていいかわからず、ぎゅっと唇を引き絞る。


「あ、あんた、ほ、ほんっと、馬鹿みたい。ウチとほとんど、は、話したこともないのに、ぐすっ、うっ……大して知らないくせに……学校にいた時は、な、何も言わなかったくせに……今になって、こ、こんな…………な、なんなの、マジ、うっざ、ウ、ウザすぎっ!」


「言えなかったから、今言った。こんな機会がなけりゃ言わなかっただろうけどな。俺は常に傍観者だったから」


 彼も変わった。それは見た目だけでなく、内面も大きく変わったのだ。その事実をイヤというほど知り、萌子はどうしようもなく親近感を抱いてしまう。


 もう抗えない。萌子は、竜胆芯という人間を信頼してしまった。それを認めることは難しいけれど、少なくともいままでと同じような意地を見せることはないだろう。


 涙がとめどなく溢れる。それが心地よくて、止められない。


 いじめられた時も、両親からおまえなんていらないと言われた時も、両親が離婚した時も、一人暮らしをし始めた時も、男に暴言を吐かれた時も泣いたことはなかった。


 涙が様々な感情を流していく。


「頑張ったな」


「ううううっ! な、なによ、ぐすっ、うああああっ!」


 盛大に泣きじゃくる。独りよがりな涙だった。関係ない。誰にも関係ないのだ。


 環境はしょうがない。両親がクズだったのもしょうがない。いじめられたのも運が悪かった。それでも抗った。その結果、自分が虐げる側に回ってしまった。そんな自分を認めつつ、内心では嫌悪していた。それが看破され、どうしようもなくなった。


 結局、引き返せなくなっていただけだ。努力を無駄だと思いたくなかった。積み上げたものを壊して、新たな自分になるのが怖かった。またいじめられた自分に戻るのではないかと思ったのだ。誰かを見下すことで、自分を慰めた。最低な人間だった。


 努力した。努力して、努力してすり減った。誰も助けてくれないと理解してからは余計に人の言葉を無視した。


 今は、こんなにも芯の言葉で心が震えていた。


 泣き叫ぶ中、悠李が萌子を優しく抱きしめた。その体温が余計に、凍りついた心を溶かしていった。

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