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邂逅と決意

 コンでもカチでもカラでもポタでもない。ペタだ。


 前者なら石や砂、土、あるいは水音を疑っただろう。しかし、後者は明らかに異質な音だ。一瞬にして浮かんだのは足音。裸足で石畳を踏んだ音だ。


 確信はなかったが、一度考えてしまったことで頭から執拗に離れない。


 規則的にペタペタと聞こえた。間違いない。これは何かがいる証拠だ。


 人? いや、その割に音が近づいているのに明かりは見えない。つまり、暗闇の中歩いているということになる。


 仮にこの場所に慣れているとして、夜目がきかない土地でここまで軽快に歩けるものだろうか。もしそういう人間だったとしても不気味であることは変わりはない。


 俺は息を飲み、浅い呼吸を繰り返した。


 警鐘がけたたましく脳内で響く。


 何か、武器はないか。


 あるのは手に持っている水晶石とスマホ。あとはポケットに入れてある小石くらいだ。小石は四センチ程度の大きさしかないため武器には使えない。最有力なのは水晶石だ。


 恐怖心から手足が少しだけ震えた。同時に筋肉が委縮し、思うように動かない。


 痙攣する手を強引に動かし、ポケットに入れてあったスマホを取り出し、ライトを点ける。水晶石と相まって周囲を照らす光の量が増える。

 だが、照射範囲は共に五メートルくらいで遠方までは届かない。相手の姿が見えないもどかしさが苛立ちに変わる。


 足音は更に近づいている。


 逃げ道はない。もっと早く移動をしていれば、分岐まで戻れたかもしれないが、時すでに遅しだった。


 相手は分岐の右の道から来ているのだろうか。



 足音が反響する。



 すぐそこだ。



 不安が胸中に生まれ、内から広がり肉体を支配する。

 生唾を飲み込み、相手の動向を見守った。


 ぎゅっと握った水晶石の硬さが、僅かに俺に勇気を与えてくれる。これが唯一の武器だが、これならば少しは対抗できるはずだ。コントロールなら自信が多少ある。


 相手の姿が見え、俺に敵意を向けてきたら水晶石を投げて即座に逃げる。もし人間なら会話を試みる。だが気は許さない。



 よし、大丈夫だ。



 大した中身のない戦略を寄る辺に、俺は半身になり姿勢を低くした。



 音が止まった。



 数秒後動いた。



 近づいてきた。



 見えた、その姿が。



「ひぃっ!」


 俺は情けない悲鳴を上げながらも、即座に水晶石を投げてしまった。これがいけなかった。


 平静さを失った状態で投石してしまったおかげで、水晶石は明後日の方向に飛んで行った。壁に当たり、幾度か跳ねて正面、数メートルの位置に落ちた。水晶石は淡い光で、俺と対峙しているそれを下部から照らしてしまった。


 しどけない体躯で関節は不気味なほどに骨ばっている。腹はぼってりと膨らみ、恥部を覆っているのは薄布一枚。

 

 背丈は小学生程度の子供を連想させるが、顔の造形は醜悪そのもので、無数の皺と手入れなど一度もしていなさそうな不潔な肌でできている。


 耳はとがり、目は四白眼。白目部分は黄色に濁り、頬まで裂けた口腔からは針のような牙が上下に伸びている。口端から漏れる粘着質な緑色の液体が地面に滴っていた。距離があるのに、鼻をつく腐臭がした。


 ホビット、餓鬼、子鬼の類、俺の記憶の中で最も印象に近いのはゴブリンだった。


 しかし、特徴的な容姿よりも、別のところに俺の視線は奪われていた。


 ゴブリンの手、そこには刃渡り六十センチほどの鉈が握られていた。研磨はされていないらしく、錆びており、部分的に欠けている。しかしだからこそ危険だとも思えた。軽く斬りつけられるだけで破傷風になりそうな程に不浄だ。


 ギギギッと獣と人間の中間のような声を漏らし、俺を見つめるその目は、獰猛で俺への敵愾心を内包していた。


 俺はあまりに現実から逸脱した存在に、一瞬だけ正気を失った。


「ば、化け物、ま、魔物、モンスター、ひっ!」


 腰が抜けそうになるが、寸前で堪えた。後ずさりし、壁にもたれかかりながらもライトでゴブリンを照らし続けた。光が小刻みに揺れている。自分の手の震えが明確にわかった。


 ゴブリンは俺にゆっくりと近づいてくる。


 人間さながらに感情を窺わせる表情をしていた。ギャギャッと嘲笑している。奴は俺を獲物と定めたのだ。俺は狩られるもの、ゴブリンは狩るものの図ができてしまったのは、俺があまりに臆病だったからだろう。


 しかし、現実に化け物を目の前にし、しかも手には凶器を持っていたとしたら、冷静でいられるはずがない。仮に現実でも、凶器を持っている人間に遭遇したら、大概の人間は恐慌状態に陥るはずだ。しかも、俺の背面には逃げ場がない。


 迂闊だった。自ら退路を塞いでしまうとは。慎重に進むはずが考えが足りなかった。


 どうする。一か八か素手で戦うか。いや、そんな覚悟はできてない。体格的には俺の方が有利だが、兵力、心理的には間違いなく俺の劣勢だ。



 一歩、ゴブリンが俺に近づく。



 落ち着け。ここで半狂乱になったら、殺されてしまう。落ち着けば光明は見える。


 俺は大きく、一度呼吸した。そうすると少しだけ心音が遅くなった気がする。

 僅かな時間だが、貴重な時間を割いてしまう。だが、それでいい。重要なのは、頭の熱を冷ますことだ。


 幸いにも奴は俺を舐めきっている。じわじわと追い詰めようとしているのが目に見えてわかった。


 俺は怯えた表情を浮かべたまま、心中はできるだけ落ち着かせようと努めた。そして再度、敵の鉈の形を確認した。


 先端は尖っていない。斬ることに特化した形状だ。つまり振りかぶることが必要不可欠である。右手に持っていることから、右利きであるとわかる。

 奴から見て右上に振り上げて、左下斜めか真下に振り下ろす軌道を通る可能性が一番高いだろう。


 だが左後ろに構えての振り払いの可能性もある。


 しかしこの場合は構える時間が多少必要だ。奴にその考えがあるかどうか。感情はあるようだが、俺を見て即座に馬鹿にするような反応を見せたところを見ると知能が高いとは思えない。


 ゴブリンが更に一歩こちらに来た。余りの悪臭に鼻が曲がりそうだ。


 俺との距離は三メートルを切った。もう一、二歩近づけば、奴の攻撃範囲内に入る。その瞬間に左側を通り抜ける方法を選択することにした。つまり、敵から見て右側からだ。


 迷っている時間はない。俺はそれ以上深く考えずに、呼吸を止め、ゆっくりとスリッパを脱いだ。裸足の状態でないと走れない。


 ゴブリンが足を上げる。そして足裏が地面についた瞬間。俺は地を蹴った。

 俺の行動を予測していなかったのか、ゴブリンは驚愕の表情を浮かべ、咄嗟に鉈を振り上げた。


 俺は、恐怖から委縮しそうになる身体を無理やりに動かし、跳躍のままに通路の端を転がった。僅かに風音が耳朶に届く。同時にひやりとした感触が首筋を走った。


 前回り受け身をし、起き上がった時にはゴブリンの姿は見えなかった。


 体育の選択を柔道にしていてよかった。もっと言えば、体育教師が生活指導で生徒から恐れられていた先生だったおかげで、まじめに授業を受けていたことが幸運だった。


 振り返らず、もう一歩先へ大股で進むと、俺は速度を維持して走った。体勢を目まぐるしく変えているため視界は悪い。スマホのライトはまともに通路を照らせていない。だが道は覚えている。



 俺は道を戻り、疾走した。



「はっ、はっ!」


 息が弾んでいる。初動から今まで呼吸を止めていたことを思い出した。


 分岐を右、つまり部屋に戻る方向を通った。幸い、正面の道からは他のゴブリンは来ていない。赤い線まで到着すると勢いのままに超えた。


 ふと考えた。このまま部屋に戻っても、あの薄い扉で大丈夫だろうか。

 鉈で簡単に破壊されてしまうのではないか。

 現状、安全地帯は自室しかない。


 しかし、入口の補強もしていない状況ではゴブリンに侵入を許してしまう。一旦、庭まで行き、石なり硬い枝なりを使って戦うしかないか。奴を生かしておくのは危険だ。



 だけど、俺にできるのか?



 思考の迷路に入り込んだ中で、いつの間にか速度が緩まっていた。

 まずいと思った時には遅かった。背後に感じる気配に、反射的に振り返ると、ゴブリンの姿が見えた。ぞくっと鳥肌が全身を襲う。


 だが、それも一瞬だった。なぜなら、ゴブリンは足を止め、こちらを睥睨しているだけだったからだ。

 奴との距離は光の届く距離限界まで離れている。近づこうと思えばすぐに距離は縮まるはずだ。ところがゴブリンにはその気はないらしい。


 俺は恐る恐る少しだけ近づいた。ゴブリンの足元には赤い線があった。互いを介在する線は、お互いの世界を分かつように厳然と存在している。




 ――まさか、あの線を越えられないのか?




 応えは、ゴブリンが奥へと消えたことで得られた。やはりそうなのだ。

 この赤い線は俺の身を守ってくれる、正に最終防衛ラインのようだ。


 俺は安堵し、その場に座り込んだ。


 助かった。死ぬかと思ったが、なんとか命を繋ぎ止めた。だが、俺はこの世界の一端を垣間見てしまった。あんな化け物が跋扈しているという事実が、不安と共に寂寥感を生み出した。


 だからこそだ。俺の胸中に漂う思いは一つの決意として形になる。


 俺は大した人間ではない。

 普通に過ごし、普通に生き、普通に死ぬだけの人間だったはずだ。

 むしろ多少影が薄かったと思う。

 物語に出るような主人公とは違う。本当に平凡な人間だ。

 特殊な能力もないし、人に自慢できるような長所もない。



 それでも生存欲求は人一倍強かったらしい。



 一先ずの、生きていくための足掛かりを見つけたことで、俺は安堵すると同時に強い思いを抱いた。



「絶対に帰ってやる!」



 ここがどこだか知らないが、来られたのなら帰れるはずだ。


 俺は決意を胸に、再び部屋まで戻ることにした。

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