精霊という存在の始まり
生まれた瞬間、あったのは仄かな光。光と闇、その明暗が、目を開けるということを教えてくれた。
遠くから木霊する水音によって音の存在を知り、聞くということを知った。水を飲み、味を知り、手足を動かし触れることを学んだ。
それは瞬き。
ほんの僅かな時間で記憶が刻まれた明滅だ。
走馬灯とは違う、不可逆の記憶の流れ。
その中で自身の成り立ち、この世の概念、因果律、物理規範、あらゆる生きるために必要な最低限の知識を得た。
しかし、それは具体的な史実や民俗学やあらゆる知識、世界の構成要素を知る、ということではない。
彼女は自身の形を知り、声を知った。そしてようやく自我を認識し、存在を確立した。
エミル・フォルシウヌ・イスラという精霊が誕生した瞬間だった。
「……ここが、妾の家か」
泉の中に立っている。膝まで水に浸かっているが不快感はない。むしろ快適で、自分が『泉の精霊』だ、と再認識できた。生まれながらに自分が何者なのかは知っている。
寂れた場所だとエミルは思った。石造りの噴水、中には水が満ち満ちており、水音が反響しているのが余計に静寂と寂寞を色濃くする。
青く照らされているが、視界は悪い。青い蝋燭がゆらゆらと揺らぎ、石畳を照らしているが、幻想的ではなく牢獄を連想させた。
身体を見下ろす。
胸には無駄についた脂肪があり、邪魔でしょうがなかった。
女性である、ということは理解できた。
なるほど、知識的な理解はあっても実感は薄い。
女性だろうが男性だろうが同じような心境だっただろうなと思い、エミルは気にした風もなく、再び周辺を観察した。
これからここで長い時間を過ごす。焦る必要はないが、先延ばしにする必要もない。
エミルは水辺から上がり、噴水から出た。
石の感触は冷たい。水に比べて少し不快だった。どうやら何の精霊なのかによって、接する物や生物に対しての評価や感覚が変わるらしい。何とも不便ではあるが、そのようにできているのだから、仕方がない。
彼女は裸だった。衣服を造り出さなければなるまい。
「その前に」
大して興味はないが自分の姿くらいは確認しておきたい。
今のところ自己評価は胸がでかい、というだけだ。
それも人間や精霊の中で平均的なのかどうかわからないので、あくまで個人的な感想でしかない。
これから、知的生命体と出会う機会は早々ないだろうし、感想は変わらないかもしれないが。
エミルは水面の波紋を止めた。泉の精霊である彼女であれば、それくらいの芸当は息をするように可能だ。
水が反射する風景の中に、一人の少女が現れる。
「ふむ、なるほどの。これが妾か。これは顔が整っておるのだろうか。それとも普通? 仮にそうならば、人間にとって妖精にとって? そこまではわからんの」
何となくだが幼く見える。まあ、比較対象がいないので別段気にする必要もないだろうと、エミルは考えた。
「服は……誰もおらんし裸でもよさそうなものだが、ズボラでいたくはないの。最低限の衣服でよかろう」
エミルは内包する魔力を形として発現し、糸を生み出した。虚空に舞うそれを指先で操り、思うままの形にしていくと、身に纏った。
知識として知っている恥部を覆い隠し、腕や足回りの邪魔にならないような設計にする。
人間の女性の一般的な衣服の形を参考に、最終的に出来上がったのは、薄地のワンピース。フリルのような装飾もあるが、簡素だ。
露出が多いが、生まれたばかりのエミルに羞恥心は薄く、何より他者の目がない分、必要性を感じなかった。
靴はサンダルのような形で、素足よりはマシ程度。ただ、自身の魔力で編まれているので、自然に吸着し、適度に離れるようになっている。
エミルはこの場所の構造を知っている。だが、それはあくまでこの場所にはこういうものがある、程度の認識で、実際に見たという記憶ではない。だから一度は目にする必要がある。
階段エリアにある泉、上階には大きな扉があり、彼女には通れない。泉前の扉は押せば開いた。重量もないのでエミルでも開閉は可能だ。
エミルがいるのは迷宮メシュテリアの三階層だ。地形も頭に入っている。魔物の存在も知っているが、彼女しかいない場合は、迷宮内の魔物は出現しない。そういう風にできている。
彼女の行動範囲はこの階層だけだ。階下には行けない。
エミルは魔力で水球を幾つも生み出す。水球は魔力の光を発し、ぷかぷかとエミルの周りを漂った。
複数の光源が照らす通路を進み、地理を正確に把握したエミルは『庭園』に出た。そこには植物と戯れている小動物達が見えた。ただし彼女は、庭園には入れないので、外から眺めるだけだ。
「これが自然か」
感慨はなかった。精霊に感情がないわけではないが、人間に比べると希薄だ。人間のように脆弱で精神の弱い生物とは違い、精霊は強い精神力を持っている。寿命も長く、時間の概念も人とは違う。
彼等は常に主観ではなく鳥瞰で物事を推し量る。
だが、それはある程度、広い視野を持つ、自然の中で生きる精霊に該当する部分であって、生まれてから消滅までを理解してしまっている上に、閉鎖された場所でただ漫然と生きることが決定づけられているエミルには当てはまらない。
しかしだからといって、自分の運命を呪ったり、動揺したり、泣き叫んだりはしない。心は平穏のまま。これからどうするかな、というちょっとした悩みが浮かんだ程度のことだ。
彼女は生まれながらの赤子のように純粋で無垢で無知ではない。
それはこの世に生まれ落ちた瞬間からそのように定められていた。なぜ、そうなのかは人間にも精霊にもわからない。そうなっている、としか説明のしようがないのだ。
精霊は生まれながらに記憶を持つ。生まれながらにある程度の成長を終えた姿で顕現する。人間のように幼き頃は存在せず、常に適度な肉体と記憶、精神を伴う。
寿命は数百、果ては数千。
彼女達に絶対はなく、生物学に類するのは愚かな行為と言える。
精霊という種族は概念的なもので、生物としての分類は酷く曖昧なものだ。個体差が激しいという言葉が最も適している。
性別は生殖のためにあるのではなく、ただそうなっているだけで、彼女達はそれらの行為を必要とせず、また繁殖をする必要もない。なぜなら、精霊にとって死と生は同義であり輪廻の輪は個々で成り立つからである。
年齢、生まれる理由、寿命、性格、容姿、記憶、知識、精霊を構成するすべての要素はなぜそうなるのか、誰も知らない。それは精霊本人にも言えることだ。
精霊は自然現象的に生まれ、多くの自然物と共に生きる。海、風、森のように大規模なものから、一部の宝石、物、肖像、本などの限定的なものまで様々で、その姿は可視化されていない場合がほとんどだ。
彼女達は人間よりも高位の存在、神に最も近い生命体であるという見解が流布されている。超常的な力を持ち、使役する。何事においても精霊は人間の手が届かない領域に存在している。
神秘性の塊である精霊と関わることは非常に稀有である。
人間が精霊の姿を見たという体験談は、現代地球におけるオカルトに近いほどの希少性を誇る。
相違点は、精霊は確かに存在しているという認識が一般的であるということだろう。そんな精霊は、それぞれ使命を持って生まれる。
例えばどこぞの森の精霊なら、植物や小動物のような子等のために尽力し、森を侵す人間を撃退したり、あるいは共存の道を探したり奔走するだろう。
エミルと同系統の、迷宮外の湖の精霊だったら水質を保持し、自然と調和を促し、静かに暮らすだろう。
しかし、彼女に使命はない。
噴水は地下水を湧き挙げる構造をしているが、使用者はいない。
動物でさえ泉を必要としていないのだ。
彼女は、この迷宮の装飾であり、一応は別の泉との移動という機能はあるが、それだけの存在でそれも半ば不必要な機能だ。
何のために存在しているのか、なぜそんな機能があるのか、そんなことは知らない。ただそういう風に創られただけだ。多分、この迷宮を攻略する誰かのためだろう。なぜそんなことをするのかも見当はつかない。
エミルは泉に戻ると、再び水に浸かった。
ぼーっと天井を眺め、暇を持て余す。苦痛はない。不満もない。ただ、こんなものかという諦観は少しあったかもしれない。
そうしてエミルは、数百年に及ぶ膨大な時間をどう過ごすか、それだけを考え毎日を過ごした。




