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サバイバル初級編 第二章

 リュウには外で休んでいるように言っておいた。ついでに食事も与えて、軒下に毛布も敷いておいた。


 まずは不要なものを外に運び出すことにする。廃棄物は燃やせるものは燃やして、割れた陶器類、食器は埋めた。屋内の汚れは床だけではなく、天井にもこびりついている。


 裏庭には小さな物置小屋があった。そこには掃除用具、修繕用具と荷車があった。箒とチリトリを持ち室内へ。タオルをマスク代わりに口元を覆うように結んだ。


 すべての窓を開けて、二階の部屋、廊下の天井付近を箒で払う。ぶわっと埃が舞うと俺は顔を顰めた。どれくらい人の手が入ってないんだろうか。


 大雑把に床に落ちた埃や土を一階に落とす。

 一階も同様に壁、天井、床を箒で払う。

 ドアから外に汚れを掃き出した。


 物置小屋にあった脚立を使って同じ流れで、今度は比較的細かく汚れを落とす。次いでバケツに水をくみ、雑巾で全体を拭いた。これだけでかなりの時間を要してしまい、結局、終わったのは夜九時。掃除開始から七時間が経過していた。


 おおまかな清掃だけを終えたが、最初に比べるとかなり綺麗になったと思う。床は部分的に老朽化しており、木材で修復する必要があるだろう。


 俺は小休止し、燻製食料と水で胃袋を満たすと作業を再開した。


 問題は暖炉だ。

 灰と煤の掃除は容易ではない。

 一旦溜まった燃えカスをチリトリで集めて外に運び出した。


 レンガで出来ており風情はあるが、かなり使い込んでいるらしく、表面はボロボロに見えた。いきなり崩れたりはしないだろうが、ちょっと不安になる状態だ。


 物置小屋に連結式のブラシがあったので使うことにする。紐で二本の棒を繋げているだけのブラシだが、煙突内の掃除にはもってこいだ。


 外に出ると屋根に上がるための梯子がかかっている。屋根は斜面で上がりにくいが、仕方がない。玄関先にバケツを置いておく。ブラシを伸ばせば屋根の上からでも水で湿らせるだろう。


 屋根に上り、煙突の鉄蓋を開けてブラシで内部を擦り、水をつけ、擦るという一連の流れを繰り返す。しばらくするとブラシの先端に汚れがあまり付着しなくなったので、玄関に戻り、掃除用具を撤去した。


 これで一先ずの掃除は終了だ。細かい部分は明日また掃除することにして、今日の作業を終えることにした。


 軒下にいるリュウは寝入っていた。すでに深更になっているので当然か。


 疲労が蓄積し、腕を怪我した状態でほとんど休まず動きづくめだったので、限界が来たらしい。眠くてしょうがない。


 俺はリュウを毛布で包み、家の中へ運ぶと、リビングで横になった。ベッドのシーツも毛布もまだ洗濯していないし、床で寝ればいいだろう。


 ドアを閉めると、久しぶりの部屋ではなく、家という空間ができた。そこは一日かけて俺の『自宅』と変わった。俺は妙な安心感を抱きつつ、リュウの横に寝る。すると即座に意識は遠のき始めた。

 

   ●●


 翌日は家具や小物の掃除、寝具の洗濯、床の修理に勤しんだ。薪は湿気ていたので、斧で手頃な木を切って作って置いた。慣れない作業に手間取ったが、ある程度練習をするとそれなりには可能になる。


「よし、これで、いいか!」

「キュ!」


 ピカピカとまではいかないが十分人が住める程度には体裁を保てているのではないか。


 屋内全域にあった埃や土は汚れの類は全て落とした。

 老朽化していた床や壁は薪を作るついでに加工した木材で修繕済み。


 散乱していた小物、衣服、食器などはすべて捨てるか、使えそうな物は洗った。毛布やシーツと着られそうな衣服は水洗いして、中庭で干している。

 女性ものばかりだから俺は着られないけど、布自体は貴重なので保存しておく。


 『錬金術室』も書斎も掃除した。錬金術室に限っては不快臭がしたので窓を全開したままだ。書籍は外に出して一冊ずつ埃を払った。

 掃除がしにくかったのと、書斎よりは外の方が、風通りが多少はいいと思ったからだ。


 お日様の下じゃないからあんまり意味はないかもしれないが。虫食いされているものはしょうがない。しかし、捨てるのも気が引けるのでそのまま書斎に戻すつもりだ。


 一日かけ、疲労困憊になりながらもようやく掃除の大部分を終えた。一番疲れたのは薪割りだ。もう、肩と背中と腕が痛い。筋肉痛だ。


 俺は居間の暖炉に薪を入れて火を点ける。パチパチと風流な音が響き始めると、何とも穏やかな時間が流れた。


 食料はまだ余っている。燻製物ばかりで味気ないが、一応腹は膨れる。量はなく、節制して二週間持つだろうという程度だった。


 今後はここの庭園に生息する兎を狩ることになるだろう。数は少ないだろうし主食にするのは難しいだろうが。



 そして、掃除の中、最も大きな収穫があった。



 塩結晶の塊が、台所にあったのだ。



 塩は消費期限がない。保存状態が悪いと、臭いが付着したりするらしいけど、運よく容器に入っており、状態は良好だった。大きさは手のひら程度。多分二キロ近くある。これだけあれば無計画に使わない限り、困りはしないだろう。


 リュウと共に毛布に包まりながら暖炉の火に当たり、まどろんだ。


 塔に来て、二週間も経っていない。しかし激動の日々だったように思う。心休まらず、必死で生きる道を模索し、楽観視せず進み続けた。


 平穏な日々から一転して、生と死を天秤にかける日々の中、俺は生を強く感じ、生き抜いて来た。今後どうなるのかはわからない。だが一つ、俺は確実な自信を持ちつつあった。



 俺は生き抜く力を持っている。



 不安はある。だが、うろんな不安ではない。俺にとっての可能不可能を少しずつ把握し、一つずつ乗り越えている。


 揺らぐ炎の影を俺はじっと見つめた。焚火をまじまじと見る機会は日常にはない。たったその程度の原始的なことにさえ、俺は近づくことがなかったのだ。


 現代に生きる人間は豊かすぎる。

 満ち足り、不便もない。だからこそ更なる幸福を望んでしまい、幸せの定義が歪み、単純な出来事での多幸感を得ることもない。


 記号化した擬似的な現実を受け入れ、それがすべて真実であるかのように勘違いしたまま生きている。肉は動物を殺すことで得る。当然のことなのに、それを本当の意味で理解している人間は多くないのではないか。


 食事にありつけた、暖かい毛布がある、相棒がいる、外敵が存在しない、生きている。今ではそんなことだけで幸せだと思えるのに。


 娯楽はない、暇もない、心休まる時も少ない、毎日が必死だ、死と隣り合わせだ。


 けれど日本にいた頃と今を比べてどちらが幸せなのか、どちらが生をまっとうしているのか、それは今の俺にはわからなかった。


   ●●


 一夜を超え、早朝。


 井戸の水で顔を洗うと、俺は身支度をした。と言っても鞄の類は持っていない。ナイフだけという簡素な装備だ。


 今日こそ兎を狩る。見た目は愛らしく、愛玩動物らしき風貌だ。


 俺はふと脳裏によぎった光景に傾倒した。


 ある日、俺はネットでこういう動画を見つけた。


 野生の動物を狩猟、屠殺、解体するという内容だった。


 検索すれば多種多様な動画がヒットしたのを覚えている。

 当然、資格も許可も取っているし、大概はどのような内容なのかという注意を促してもいる。食べられる部位はきちんと食べている分、普段食べ残しをしている人間に比べても感謝の念があると言っていい。

 むしろ害獣で人の迷惑になっているし、法的にも問題ない。


 しかし批判を集めていた。


『動物を殺すなんてかわいそう』

『酷い、原始的だ』

『なんで殺す必要があるんだ?』

『遊び半分で殺すな』


 彼らがベジタリアンか宗教的、生理的に肉食を否定しているのであれば理解はできるが、そうではない人間も多い。


 つまり『自分は肉を食すが、動物を殺すことを容認できない』あるいは『この動物ならいいが、この動物はダメ』『この動物は可愛くないしいいけど、こっちは可愛いからダメ』というわけのわからない持論を掲げている人間もいるわけだ。


 それは明らかな主観だ。それを他人に強要したり批判したりする権利もない。基準が明らかな感情であり、不純であるのに我が物顔で主張する。


 世の中には受け入れがたいものは存在し、法律的に問題ないものも多い。そういう場合、まともな人間は近づかない。存在を考慮しながらも、自身とは相容れないものが存在するという大局的な視野を持ち合わせているからだ。


 だが、なぜか批判する輩はわざわざ近づいて、傍観しながら批評するのだ。


 そうした考えの末路が、自分が臭いと思うものに蓋をするというエゴイズムの塊のような現実。与えられるのが当たり前だと思い込んでいる傲慢な思考の形成だ。


 肉が突然、無から生まれると思っているのかと疑いたくなる。


 だが当然、そんなトンデモ理論は自然界に存在しえないし、本人達も知っているはずだ。知識としては知っているが、心情的に受け入れられないから否定している。


 だから、あらゆる面で矛盾しているわけだ。そこには記号化した知識と擬似的な経験の弊害があるのではないか。


 俺もそうだった。知ってはいたがリアルではなかったのだ。だから感情が理性を塗り潰す場面が稀に起こってしまうのだ。


 動物の解体を可哀想と思う気持ちを否定はしない。

 だが、食料はすべてそういうものだ。

 食べるという行為には必然的に命を奪うという行為も伴う。


 植物も同様だ。動物との違いは、あくまで個々の価値観を基準に分類を定め、その境界線を越えたかどうかを議論にしているにすぎない。不毛だ。それこそ人それぞれなのだから。


 俺は、加工された食品しか知らなかった。動物を屠殺し解体し肉として販売しているという事実は知っている。しかしそれはただ知っているだけで、本当の意味で知ってはいなかったのだ。



 もしも俺と同じ立場に陥ったのなら、彼等は批判するのだろうが。

 それとも状況が変わったのだから仕方ないと許容するのだろうか。



 どちらにしてもそれは裕福な環境であるからできることだ。

 困窮している時代にこんな論争はなかっただろう。


 現代でも餓死は存在する。

 そういう人間の目の前にその動物の肉を持って行き、笑顔で言ってやるといい。可哀想だからこの動物は殺すな、食べるなと。そう言いつつ傍観者は別の動物の肉を食べるのだろう。


 もしくは一切食事をしない、まともに食事をしないで暮らしたあと、その動物の料理を目の前に同じセリフが吐けるか試すといい。


 人間は空腹には勝てない。耐えられるという人間がいるのならば、いざとなれば食べられるという限定的な条件があるからだ。それは真の意味で飢餓を経験しているとは言えない。


 強い信念か、妄執がなければ三大欲求から逃れることはできない。仮にできても、結末は死だ。


 今の俺に一切迷いはない。なぜなら、生きることに真剣だから。自分の力でしか生きられないからだ。誰も助けてくれないならばすべて自分で責任を負うしかない。兎には悪いが、生きる糧となってもらうしかない。


 俺はいざサバ中級編を開いた。


 のびよし君は精悍な顔つきになっていた。おどおどしていた漂流当初と違い、手製の槍を携えながら思案顔だ。


『うーん、魚や木の実もいいけど飽きて来たな。やっぱり肉が食べたい。この島だと猪か兎、あとは野犬か。犬はちょっと抵抗あるな……大きさ的にも兎がいいかな。となると罠か弓矢かな。狩猟犬でもいれば小動物は狩れるんだけどなー』


 のびよし君は落とし穴を作り失敗。捕獲確率は低いようだ。

 結局、弓矢を自作し射ることで獲物を捕らえた。


 今から弓矢を作成するには時間がかかるし、何より上手く作る自信がない。粘る木材と弦に使う糸が必要だ。手製でまっすぐ飛ぶとは思えないし、相当な試行錯誤が必要な気がする。弓道やその類の知識があれば別だけど。


 いや、待てよ。


「リュウ、もしかして兎獲って来られたりしないか?」


「キュ、ギュギュ!」


 真剣な表情と気合の入った鳴き声だ。これはもしかしたらいけるのでは。


 自宅から玄関前に出ると、リュウは跳ねるように森の中へと分け入った。ガサガサと大きな音を立てながら移動し、やがてその音も聞こえなくなる。


 庭園は通路入り口付近に自宅があり、近くに井戸、物置小屋がある。それ以外は平原と森林。樹木は然程多くはない。やや広めの森林公園くらいだろう。それでも植物も動物も生活を営んでいる。


「準備だけしておくか……」


 俺は軒先にロープを垂らし、血抜き用に下に桶を置いた。

 リュウがいなくなって三十分が経過した。


 俺は玄関前、軒下のスペースに座り込んで相棒の帰りを待ち続けた。

 と、物音がした。俺は立ち上がり音の主の姿を探す。

 茂みが揺れ、中から現れたのはリュウだった。口には茶色の毛皮の兎を咥えている。


 おいおい、マジか。こいつ本当にやりやがった!


「リュウ! よくやったぞ!」


「ムギュ!」


 ご満悦という感じでリュウは背を反った。感情豊かな所作だったが、兎の重みに耐えきれず、後ろに倒れこんでしまう。


「お、おい大丈夫かよ」


「キュ……」


 慌てて近寄ると、リュウは手足をばたつかせて兎の重みから逃れようとしていた。どうやらトドメは刺しているようで、兎は微動だにしない。首からは血を流していた。


 茶兎を掴んで持ち上げると、リュウは瞬時に起き上がり、その場から飛びのいた。

 俺は苦笑を浮かべる。リュウはといえば、誤魔化すように明後日の方向を見ていた。


 茶兎はまだ温かかった。ふかふかしていて肌触りがいい。

 こいつを今から解体し、食べる。


 俺は茶兎を前に黙祷した。


 やはり植物や魚類とはまた違った感傷に浸った。哺乳類を直接的ではないものの、殺してしまったという事実に少なからずショックを受けているように思う。


 ゴブリンは敵だったし俺を殺そうとしていたという免罪符があったが、兎は食事をするために狩ったのだ。状況が違う。


 同じように食すのに、見目や生態によって心情には差異があった。命は皆、平等と考えることなんてできない。それは綺麗事で、人それぞれ区別も差別もある。当たり前だ。


 動物が大きくなれば、人間に近くなればなるほど嫌悪感は大きくなるだろう。しかし、俺に罪悪感はない。

 生きるための行為に対し、贖罪し続けるなんて人間しかしない。

 それは無為で酷く欺瞞な感傷だと思う。


 生きることに必死になっていない、人間こそヒエラルキーのトップで下々の生物は憐れまれて当然だと思っているみたいだ。


 俺には、感謝こそすれ憐憫はない。


 俺は兎をロープで吊るした。逆さにして少し待つと、左右の耳の後ろをナイフで刺して静脈を切断した。


 どくどくと血が垂れてくるがすでにトドメを刺しているからか思ったより量は多くなく、しばらくすると血は止まった。別の大桶に水は入れて持って来てあるので、血を軽く洗浄した。


「……じゃあ、やるか」


 俺は自分に言い聞かせるように一言呟くと、ナイフを手に、兎の喉元に浅く切っ先を入れた。


 そのまま、深く刺さないように下腹部まで真っ直ぐ刃を入れる。睾丸や肛門周りを綺麗に削ぎ落とし、臭いが移らないように気を付ける。


 足首辺りから上部にナイフを入れ、縦に切る。両足終えると、肉と皮の間を下腹部に向けて優しく刃を通した。脚部の皮を丁寧に引っ張り剥ぐと尻尾を根元から切り離す。


 ぐいっと頭に向けて毛皮を引くと、比較的綺麗に剥がれた。頭ごと切り落とした後、頭部の皮を丁寧に削いだ。これで皮は綺麗に剥げたはずだ。


 下腹部から胸にかけて切り、内臓をすべて取り出す。


 可食部分は肝臓と心臓。レバーとハツだ。というかそれ以外の内臓は怖くて、俺には食べる勇気がない。いざサバでも知識なく内臓を食べるのはおススメしないと書かれていた。寄生虫とかいそうだし、何かあった時、医者もいないからな。


 内臓を取り除き、皮を剥いだ状態で、頭と共に水を張っている大桶に入れた。血抜き後、冷やし熟成をさせることが重要らしい。でなければ血生臭くなり、味もかなり落ちるとか。


 レバーとハツはできるだけ早く食べた方がいい。内臓は足も早い。新鮮な場合は生のまま食べられなくもないが、やはり火は通した方がいい。


 皮剥ぎを終えた状態の兎を見ると、兎から肉に変わっている。


 頭部は多少グロテスクだが慣れれば問題ない。

 それに可食部分はできるだけ食べたい。

 生々しさはあるが、気持ち悪くはない。むしろ食欲をそそる。


 美麗なピンクで筋肉は生命の神秘を思わせ、見惚れるほどに美しい。俺に嗜虐趣味はないし、グロ画像を見て興奮する嗜好を持ち合わせてもいない。恐らく、この思いは自然に対する敬意の表れなのだろう。


「皮はどうするか……」


 いざサバにも動物の皮をなめす方法は色々書かれていた。口に含む古来の方法から、定番のミョウバンと塩のなめし。


 ただ衣服には余裕があるし、なめすには時間も労力もかかる。そこまで必要ない分、あまり時間を使いたくはなかった。もったいないという思いはあるが、皮と内臓は近場の地面を掘って埋めた。


 心地よい疲労のままに家の中に。大桶は台所に置いて、レバーとハツは今から食べることにした。量はそんなにないのでリュウと分ければ全部食べることになるだろう。


 家に入り、台所に入る。かまどの火で焼くことにする。すっかり汚れを落としたフライパンを火にかけ、レバーとハツは塩を振って、油を引いてから焼いた。


 皿に焦げ目のついた肉が乗せる。湯気をもくもくと漂わせており、香りも濃厚。久しぶりに嗅いだ肉の香りに思わず高揚する。


「美味そうだ」


 リュウと共にリビングで食事にありついた。


 フォークで刺すとハツはコリッとしている。心臓だからか、力強さを感じた。食感も同じようにコリコリとしており、咀嚼するとなんとも小気味よく、テンポよく食べられた。


 舌を滑る油が唾液を分泌させ、一つ目のハツが喉を通った瞬間、自然と手が二つ目に伸びる。


 今度はレバーだ。


 ハツと違い弾力は粘り気がある。

 噛むとほんのりと血の臭いがするが、癖と言えるほどには強くない。

 臭気が消えるとボサッとした食感がこみ上げる。


 しかし不快さは微塵もなく、むしろ厚みのある歯応えと思えた。独特の噛みごたえだった。ハツに比べて重い。味が重厚で色々な風味を漂わせている。味付けは塩だけ。だというのに、この味の深みはなんだろうか。


 リュウも俺にと同様に、美味しそうに食べていた。


 嚥下した後の余韻は、幸福感と共に俺の意識を奪った。これが純粋な幸せな気持ちなのだろう。今、俺は満たされている。


 心のままにがっつき、一瞬で平らげてしまった。

 満足した俺は、水を一気にあおり、大きく息を吐いた。


「……美味かった」


 食事が美味しく感じられない、幸福だと思えない、いつも満たされない。そういう思いを抱いている人には、自ら何もない環境に身を置くことを勧める。そうすれば、最も原始的な多幸感を抱くことができるだろう。


「ギュー!」


「リュウも満足か?」


「ギュイン!」


 リュウは何とも個性的な声音で返答した。多分、満腹なんだろう。

 俺も同じだ。ここから動きたくない。このまま余韻に浸りたい。


『ほら、起きなさい。ご飯食べた後、すぐに寝ると牛になるわよ!』


 なぜかそんな母の声が聞こえた。幼い頃に聞いた常套句だったが、俺はなぜかふとその言葉が脳裏をよぎったことに驚き、そして寂寞の想いを抱く。


 この二週間で、両親にどれだけ縋り頼っていたのか身に染みてわかったからだ。


 自然、何かをするごとに母や父の顔が浮かんだ。別段、家族愛が強くもなかった。今も寂しくて泣くほどに悲しくも寂しくもない。その程度には俺は精神的には自律していたようだ。


 だけど、最初に抱いた生きて帰るという思いは強く、俺の心に影を射す。

 心配してるだろう。そう思えるくらいには互いに家族という関係を真摯に築けた。


 俺は天井を見上げ、思い耽った。


 多分、クラスメイトや友達はもう忘れてる。家族に比べ、彼等とはとりあえずの希薄な関係しか築いていなかったからだ。


 隣人の同級生の女子、俺の思い人はむしろ清々しているだろう。なんせ俺を明らかに嫌っていたからな。理由は、推測の域を出ないが、隣に住んでいたから。


 仲良くもない、見栄えのよくもない、パッとしないクラスメイトの男子が隣に住んでいるという事実が、彼女にどんな感情をもたらすのか想像に難くない。鬱陶しいだろう。


 ひょっとしたら友達にからわかれたりもするかもしれない。家が近いのではなく隣なのだから。


 日本にいた頃を思い出すと、楽しくない記憶でもかけがえのない時間だったように感じた。


 俺は自嘲気味に笑う。

 失って初めて気づくという言葉は定番だ。けれどやはり失わないと気づかないのだ。歴史に学び、歴史を繰り返さないという単純なことさえできない人間は言葉では理解できないのだと、俺は実感していた。



 俺は満腹感の影響からまどろむ。そして思う。



 夜は何を食べようかな、と。



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