5章
五章
夏葉が琴江の運ばれた病院へと駆けつけたのは連絡から一時間程が経過した頃だった。
ゆずからの連絡を受けた夏葉はまず希世へ連絡を入れた。取るものもとりあえず家を出て、途中で希世の車に拾われた。そして一緒に病院までやってきた。
ゆずが着物姿の女性の相手をしている。夏葉がやってくるのを見ると、手を上げた。
「琴江のお母さん」
優しそうな、上品そうな女性だった。気丈にも笑顔で挨拶をしたがその目は真っ赤だった。
「琴江ね、命に別状はないって」
ゆずの言葉に全身から力が抜けたようだった。よろめくのを希世が支えてくれる。
「今は薬で眠ってる。数日で退院できるらしいよ」
安堵の息をついた夏葉に琴江の母が手を差し出した。
「これ、夏葉ちゃんのだと」
それは小さな巾着だった。ところどころを赤黒く染めているのは琴江の血に違いなかった。
「お守り? どうしてこれを宮野さんが?」
「あげたの。あたしのせいで迷惑かけてるし、あの犬の件で帰りが怖いって言ってたから」
だが、所詮お守りはお守りでしかないのだ。琴江を守ることなどできるわけがない。ところが、俯いて受け取る夏葉に琴江の母は礼を述べた。
「あの子、これのおかげで助かったと言ってました。だから絶対に返すようにと」
処置を終えたばかりの琴江が、駆けつけた母に頼んだのだと言う。
夏葉が希世を見た。希世は小さく首を振る。
「汚してしまって、申し訳ないと」
「そんなの、全然……全然、いいのに」
こんな状況だというのに、いかにも琴江らしくて、目の奥が熱くなるのと同時に思わず笑みが浮かんでしまった。
なんにせよ、よかった。無傷とはいかなかくとも命が助かったのだ。眠っている琴江の顔だけ覗かせてもらってようやく安心する。
翌日改めて顔を出すことを告げて、三人は病院を後にした。
「あのお守りって、なに?」
ゆずを先に送り届けて、車内には希世と夏葉の二人になっていた。上梨の家のことは口外するようなものではないだろうから、二人になるのを待ってから問うた。
「ほんとに、お守りのおかげで助かったとかってあるの?」
正直、上梨家は得体が知れない。今は特別な何かがあるわけではないといっても未だにおかしなものを倉庫に持っていたりするのだ、そんなことがないともいえないではないか。
「それはないわ。あれはそういうものじゃない。魔除けではあるけど、気休めよ」
「逆に、あのせいで襲われたってこととかはある?」
「ないわね」
否定した希世が横目で夏葉を見やった。その顔を反対車線のライトが一瞬明るく照らす。
「ねえ、夏葉」
少し厳しい声だった。
「あなた、まさか銀王を疑ってるの?」
「……そういうわけじゃ、ないけど」
弱々しい夏葉の言葉に、希世が大きく息をついた。
「お守りは関係ないし、それで相手が逃げたなんてことはあり得ない。言ってみれば、襲われたのも偶然なら助かったのも偶然ってところでしょうね」
それに、と希世が続ける。
「お守りと銀王は無関係よ。そもそも銀王にはああいうものは効かないし」
「妖なんでしょ? だったら、ほら、お札とか効くんじゃないの?」
「銀王は例外。私もよくは知らないけど、そういうものは効かないらしいわ」
夏葉は希世に目を向けた。
「上梨と銀王ってつきあいが長いの?」
「どうして?」
「希世姉、銀王を知ってた」
「……」
「銀王を見ても、驚かなかったし」
答える代わりに希世は再び大きく息を吐き出す。どこか苛立ったようなその様子が普段の希世らしくなくて、夏葉は口を噤んだ。
夏葉が上梨のことを詮索するのを希世は酷く嫌う。それは修も同じで、何故だか二人とも夏葉を上梨から遠ざけようとしている節がある。
幼い頃に遠縁に預けられたのもそのあたりの理由からのようだった。訳を尋ねたことはなかったが修から母である華穂の意向だとはちらりとは聞いたことがあった。とは言うものの、希世も修も上梨本家の人間なので完全な切り離しなど不可能だ。目の届く範囲に夏葉を置きつつ、それでもできる限り上梨とは関わらないように配慮しているのは何となく感じていた。
だから夏葉の質問を快く思わない希世の気持ちはわかる。けれど妖なんてものが実在することを知り、もしかしたらその妖が関わっているのかもしれない。それが自分とも繋がりのある上梨家と関係しているなら、やはり無視してもいいことではないと思った。
「希世姉も修叔父もすごく気を使ってくれてるのは、わかってるけど」
でもと夏葉は希世の横顔を見る。
「妖だっていう、あんな大きな生き物を前にしても希世姉は全然平気だった。それって、やっぱりさ、結構……変なことだよね。違う?」
希世が駐車場に車を入れ、サイドブレーキ引く。答えることもなく黙ったまま車を降りるのに夏葉もおとなしく従った。人気のない地下駐車場はコンクリートに囲まれた独特の無機質な冷たさが満ちて、希世のパンプスの靴音が必要以上に響き、より一層の静けさを感じさせた。
「華穂姉さんを連れ出したのは、銀王だという話」
エレベータを降りるなり、希世は唐突に言った。
「え?」
母を連れ出したのは父だと聞いていた夏葉は目を瞠った。
「銀王の協力で逃げたのよ、上梨から。夏葉のお父さんとお母さんはね」
確かに、銀王は父、母を知っていた。
「そこにどんな話があったのかまでは知らない。姉さん達はいないし、銀王が語るとも思えないからね。でもそれが真実よ」
玄関の扉を開いて、先に入るように夏葉を促す。
「別に隠したいわけじゃないの。ただ、夏葉はあんな家に縛られてほしくないだけ。私も、兄貴も。それに姉さんもそう思ってる」
うん、と夏葉は頷く。
「大丈夫。わかってる」
微笑した希世が夏葉の肩を抱いた。伝わる温もりから、とても大事にされているのだということが感じられた。
「それが上梨とのつながり?」
「上梨の先祖とも関わってるらしいんだけど。どれだけの関わりだったのかはわからなくて。単に名前が記録にあるくらいなのよ」
ただ、と希世が夏葉を振り返る。
「それから幾度か名前が記されてるから、つかず離れずいたんじゃないかとは思うわ」
「どうして上梨の側に?」
「さあね。それは銀王にしかわからないけど」
希世が夏葉を見て、肩を竦めた。
「……何か、考えがあるのかもしれないわね」
手馴れた動作で希世がコーヒーを準備する。ミルの作動する音とともに挽きたての豆の匂いが広がる。コーヒーメーカーの立てる音が静かな部屋に広がり、夏葉はぼんやりと琥珀色の液体が溜まっていく様を眺めた。
「妖はね。いるって知ってたのよ」
食器棚から二つのカップを取り出した希世が溜息交じりに口を開いた。
「小さい頃から、そういうものはいるんだってしつこいくらい聞かされて育ったから」
言葉を続けながら、希世はそれぞれのカップにコーヒーを注ぐ。
「まあ確かに、霊なんてそこら中にいるしね。なら妖だっているのかもって思ってただけ」
夏葉はぎょっとして辺りを見回した。怯える夏葉に大丈夫と希世が笑う。
「大おじい様には会ったことはないけど、身の回りの世話をしてるのは大昔に上梨が下僕にした妖らしいわよ。タマって猫又なんだって噂だし」
「そうなの?」
夏葉は瞬いた。修の所にやってきたタマと名乗る人物とは顔を会わせたことがあった。
「猫姿を見たことはないから、真偽の程は私も知らないけどね」
幽霊は見えても、妖ともなるとさすがに希世も確かな正体を掴みきることはできないらしい。本格的な修行をしたわけではなく、専門家ではないのだ。余程に強力な敵意でもない限り、人の姿をされると感じ取るのは難しいのだと言う。
そんな不可思議が身近にあるというのはにわかに信じがたいが、実際、銀王を知った今では否定をすることはできなかった。
だから、と夏葉は心の中で納得した。希世は銀王を前にしても取り乱すことがなかったのだ。そして多少なりとも上梨家と関わりがあるからこそ、すぐに銀王を認識できたのだ。
「銀王って、強いの?」
希世が頷く。
「並みの妖じゃ太刀打ちできないでしょうね。この間の――香ちゃんの件ね。あの時もかなりというか……ものすっごく手加減をしたんだと思うわ。誰も殺さなかったし」
部屋でだらしなく伸びていた様子からは想像できない。
「妖の中には己の力を維持するために人を喰うものもいるんだけど、銀王はどうやってあの力を維持しているのかは不明ね」
「人を喰う? 銀王も」
「わからない。でも人を襲ったという記述はないわ。だからといってないとは断言できないけどね」
夏葉が眉根を寄せるのとは対照的に、希世は微笑む。
「でもそういう怨詛のような感じはないから、多分ハンバーグ以外は食べてないんじゃない?」
「……そっか」
よかったと、夏葉は小さく息をついた。だが、それならますますわからないことがある。
「そんなに強いのに、なんでここにいたの?」
二杯目を己のカップに注いで、希世がさあねと溜息をついた。
「実家に泊まりこんで調べたけど銀王の詳しい話ってないの。でもあの壷にいたんでしょうね。銀王は姉さんと面識があった。多分、あの封印は姉さんがやったものなんだわ」
「そんなことわかるの?」
「推測よ。姉さんは封印術が得意だったらしいって修兄が言ってた。だからあの壷に銀王を封じて、修兄に預けて、夏葉に届けたかったんじゃないのかな」
そこでどうして自分になのかがわからない。
「封印とかって効かないって言わなかったっけ?」
「そこよね。おとなしく封じられるとも思えないんだけど……」
やはり銀王は母と何か約束事でも交わしたのだろうか。だが、銀王の口からはそれは語られない。華穂のいない今では確かめようのないことだ。
「希世姉は銀王の仕業じゃないって確信してるんでしょ?」
「確信ってほどじゃないけど、まあ、違うわね」
根拠を尋ねると希世は簡単なことだと笑う。
「私が無事だったからよ」
「え?」
「ずっと一緒にいて、私は無事だった。それだけ」
「それだけ?」
「そう。それだけ。でも、充分じゃない?」
形の良い口角を上げて希世が微笑んだ。
「修業を積んだ人間は扱いづらいけれど、食すと大いに力になるんだそうよ」
本当かどうかは知らないけど、と希世が続ける。
「だったら上梨の人間なんて、餌としては最適よね」
恐ろしいことを希世が笑顔で語るが、あまり楽しい話題ではないので、夏葉の方は自然と顔が険しくなってくる。
「多分、銀王は上梨を嫌いよ。姉さんのことはともかく、嫌いな一族の人間を見逃しただけじゃない。一度だって殺気を向けてはこなかった」
「……」
「銀王くらい強かったら私なんて簡単に殺れるのに、どうしてわざわざ他の人を食べたりするのかしら。それって変でしょ?」
確かにそうかもしれない。
妖である銀王に定住先などなくてもなんら困ることはないだろう。当然ここで共同生活をする理由もない。華穂の絡みで夏葉に対して思惑があろうとも希世に対してはないはずだ。華穂の妹だとは、華穂がいない今では意味をなさないに違いない。それでも銀王は希世に牙を向けなかった。それどころか、きちんと対等に接していた。希世の言葉はもっともだと思えた。
それなら何故急に姿を消したのだろう。母と何事かを交わしそばにいて、助けてくれた。
……そして、不意にいなくなった。
もう約束は果たされたということなのだろうか。だから離れてしまったのだろうか。それとも――夏葉の言葉が、銀王に言わせてしまったのだろうか。
――関係ないと、そう言わせてしまったから、銀王は去ってしまったのだろうか……。
人を襲うのだとは思いたくないし、そんなはずはないだろうこともわかってはいた。けれどどこにもいなくて、探すこともできなくて。どんな形でもいいからその所在を掴みたかった。なんでもいいからその存在を認識したかった。妖なんてものがそんなに沢山いるわけもない。だから都合の悪いことは考えず、ただ銀王だという何かを――こじつけでも、片鱗でもいいから感じたかったのだ。
だが、それはやはり銀王ではない。あるわけがない。
そして結論は一つ――もう、いない。
……銀王は、去ってしまったのだ。
「夏葉?」
希世が夏葉の頬を拭った。夏葉自身、泣いていたことには気づかなかった。
「どうしたの?」
「銀王が」
「銀王がどうしたの?」
「関係ないんだって」
「え?」
「もう、関係ないって」
もう我慢はできなかった。そしてもはや無視はできなかった。
「……関係ないんだって、言ってた」
言葉は嗚咽になってしまった。
認めたくなかった。それが引き金かもしれない言葉なのだとは、己では口にしたくなかった。
「戻ってこないんだよ」
口にした言葉が、自分の心に刺さる。
――戻ってこない。
認めるようで、言いたくない言葉だった。口に出したら、それはもう決定してしまうみたいで怖かった。
「銀王は、もう、あたしのところには帰ってこないんだ」
なぜなら、銀王と夏葉は関係ないのだから。
その夜、夢は闇ではなかった。
いや、闇は変わらない。変わらないが、視野に捕らえることが出来るものがあった。だが視覚とは違う。視界はあくまで黒、感覚として視力が働いているといえばいいのか。
闇に閉ざされているはずの視野に広がる不穏な赤。それは不規則な運動を繰り返し徐々に弱まっていく。触れればべとつく感触。鼻を寄せると金属的な匂い。ではその赤は血の色か。
再び手を伸ばすとそれは唸り声を上げた。苦しげな呼吸を繰り返しながら、立ち上がろうとする様子がある。見えないが、そこには確実に弱っているのに悟られまいとして凛と構える、高貴とすら思える魂の気配があった。
脳裏に激痛が走った。手負いの獣が差し出した手に噛み付いたのだ。
痛い素振りを見せてはいけないと思った。牙が噛み貫いて、大きな穴が開いているのがわかった。それでも痛い顔をしてはいけない。
獣が驚いている様子がわかる。そして戸惑っている様子も伝わる。そんな獣の心理になど構うことなく、血の流れるに任せ、獣の傷を撫でてやる――これで治るはず。元気になるはず。
だが、一向に良くなる気配がない。おかしい、こんなはずではない。
――そう考えているのは、夢の外にいる自分。
夢の闇が、浸食されていく。赤黒く、広がる。錆びた臭気が、夢一杯に広がる。
――関係ない。関係ないんだから、放っておけ。
赤一色に染まる直前、そんな冷ややかな声を聞いた気がした。
翌日は朝からどんよりと曇っていた。暗い、湿った空気。ただでさえ憂鬱な気分であるのにますます重苦しい気持ちになってくる。そしてもっと不愉快になったのは、放課後、昇降口で鞄を広げた時だった。昼休み以降、雨は本降りになっていた。今も地面を叩くように激しく降っている……それなのに。
「傘がないって、どういうこと?」
いつも入っているはずの折り畳み傘がこんな時に限って入っていない。
そういえば、と思い出す。ものめずらしそうにいじり倒していた愚か者がいた。そのままほったらかして入れるのを忘れていたのだ。
自分の思考が鬱に向かうのがわかった。この暗い空がいけない。大きく息を吸って、改めて空を見上げ、今直面している本来の悩みの方へと気持ちを引き戻す。
「んー……どうするか」
一度帰ってからゆずと一緒に琴江の見舞いに行く約束で、病院近くの駅で待ち合わせをしていた。いつまでも雨宿りをしていては遅刻してしまう。学校近くのコンビニまで結構な距離がある。希世に借りに行くか……。
「牧名さん」
戻ろうとしたところで、隣に立つ人物を見上げた。
「……もしかして、傘ないの?」
「あ、いや」
「今日の天気予報って、午後百パーセントの確率だったよ」
優斗が傘を広げて、首を傾ける。
「よかったらどうぞ。送っていくよ」
「あの、今日は生徒会の用事は」
「たまには普通に帰ろうと思って。今日、うちカニなんだ」
なんてね、と優斗が笑う。
「ちょっと調子が悪くてね。明日に回すよ」
「え、じゃあ、悪いですよ。早く帰ってください」
「そのくらい大丈夫だよ、ほら、どうぞ」
再度断ったが、更に促されて、夏葉は素直に入れてもらうことにした。
「こんな日に傘を持ってないなんて、ある意味すごいね」
「はあ……いつもは入ってるはずなんですけど」
別段誰が見ているというわけではないのだが、なんとなく照れくさい感じがするのは、男の人と傘を共有したなんていう経験がないためだろう。
「うちの学校からも、被害者が出たって、知ってる?」
はじめはなんの話かわからなかったが、すぐに琴江のことだと気付いた。だが、琴江の母は公表しないようなことを言っていた。琴江が落ち着くまでは公にしないと担任とも相談したのだとは希世から聞いていた。だから自分とゆず以外はクラスの生徒も知らないのに、なぜ優斗が知っているのだろうか。
「生徒会でね、文化祭を延期すべきかって話が出ていてね。それで」
夏葉の胸の内を読んだかのように、優斗が言う。
「近所で物騒な事件が続いている状態では、あまり良くないっていう先生もいるんだ。でも、僕はこんなときだからこそやった方がいいんじゃないかって思う方なんだけど」
どう思うかと問われ、夏葉は俯いた。
「……わかりません。今は、一刻もはやく解決してほしいと思うだけです」
そして、琴江がはやく良くなることを祈るのみだ。
「そうか。そう、だよね」
感心したような口調で優斗が頷いた。
「先輩」
夏葉が足を止めた。
「ここで大丈夫です。ありがとうございました」
それじゃ、と優斗が手を上げて背中を向ける。見送る余裕はなく、夏葉は急いでマンションのエントランスへと駆け込んだ。
「ひゃー……靴がびしょびしょ」
靴だけではなく、鞄も濡れている。エレベーターのボタンを押して、夏葉はとりあえず制服についた滴を軽く払った。
「先輩に入れてもらってラッキーだったけど」
考えて見れば榊学園から夏葉の住むマンションは駅とは途中からは別方向となる。この雨の中、余計な遠回りをさせたものだ。
「悪いことしちゃったな」
何かお礼をせねばと考えて、夏葉はふと振り返った。
「あれ、あたし……家、教えたっけ?」
特に方向を指示することなく歩いてきたような気がする。
「気のせいかな」
夏葉は深く考えることは止めた。学校名簿に住所は公表されている。それで見たのなら、知っていてもおかしくはないのかもしれない。
「そんなことより急がなきゃ」
深く考えている時間はなかった。もし遅刻なんてしたら、ゆずにどんなペナルティを課せられるかわかったものではない。
「心配かけちゃってごめんね」
腕に巻かれた包帯が痛々しい。それでも元気に笑って迎えた琴江の様子に夏葉もゆずも胸を撫で下ろす。
「よかった、思ったより元気そうで」
全身で二十五針縫ったと琴江の母から聞いた。一番酷かったのは腕で、傷跡は一生残るだろうといわれたらしい。他に足にも裂傷があるらしいが、これはそんなに目立たないとのことだった。そこここに青あざがあるものの、打撲自体は大したこともなく、幸い顔にも傷はない。年頃の女の子としては、やはり顔に傷が出来てしまっては気の毒だ。
「でも、ほんとによかった。琴江が襲われたって聞いた時、頭が真っ白になったよ」
「そりゃ、夏葉にとっては大事な計算機だもんね」
「そんなんじゃないよ」
「文化祭にも間に合いそうだし、一安心ね」
それから暫く、間もなくやってくるだろう文化祭の執事喫茶の話題で盛り上る。途中、琴江の母が飲み物の差し入れをくれた。
ひとしきり笑ったところで、夏葉が気になっていたことを口にした。
「やっぱりあの噂の犬に襲われたの?」
多分と琴江が頷く。
「でも、あれは犬じゃない。だって、喋るんだよ」
「はあ?」
呆れた声を出したのはゆずだった。
「喋るって、人間みたいに? まさか。あり得ないでしょ」
「ほんとだよ」
琴江が拳を握る。小刻みに震える手を夏葉がそっと握った。
「それってどんな感じのものだった?」
「大きかった。犬なんかより、ずっと」
「色は?」
「暗くて、よくわからなかったけど、黒っぽい感じだった」
黒なら銀王ではない。銀王は尾の先こそ黒だがそれ以外は殆どが銀色でどちらかといえば白に近い。わかっていたことだが、改めて安堵と、ほんの少し残念だという思いが胸に広がった。
「……黒くて、大きくて、すごい爪で。あれは、化け物だよ」
琴江が表情を険しくした。対峙した恐怖を思い出しているのかもしれない。そんな琴江を前にゆずはもう否定をしなかった。化け物の存在はともかく、被害者である琴江にはそう見えたのだろうと解釈したようだ。
「よく、助かったね、ほんとに」
ゆずの言葉に、夏葉も頷く。
「夏葉ちゃんのお守りのおかげだよ」
琴江が夏葉の手を握り返した。
「ええ? 違うよ、琴江の運がよかったんだよ」
「そうそう。日頃の行いがいいんだから、琴江は」
違うと琴江が真剣な表情で首を振った。
「違うの。ほんとにお守りのおかげなんだよ」
夏葉がゆずを見る。ゆずも夏葉を見た。お守りを用意した希世自身も気休めのものだと話していたのに、どう役に立ったというのか。
問われて、琴江は自分が経験した恐怖を途切れ途切れに語りはじめる。
「……あの化け物に追い詰められて、もうだめだって思ったの。それでお守りを握って、助けてってお願いしたの」
すると手のひらが温かくなったと琴江は言う。
「それでね、本当に助けが来たの」
「え?」
「助け?」
ゆずと夏葉は同時に反応していた。
***
目を閉じた琴江は己の最期を感じた。ほのかな温かみを宿したお守りを握り、あの鉤爪に裂かれることを想像して覚悟を決めた。
――だが、その瞬間は訪れなかった。
「立て、ばか者」
冷ややかな空気とともに降ってきた言葉はさらに乱暴な行為となって琴江に現実を知らせた。
突き飛ばされたのだとわかったのはその手からお守りが離れてしまったからだった。道路に横たわる形になった琴江が見ると、殴られでもしたのか離れた場所で転がる巨大な化け物の姿があり、そして自分の隣には一人の人間がいた。
「起きられるか」
低い声は見知らぬ男のものだ。琴江を庇う姿勢で片膝をつき一方の手を伸ばす。その腕に縋るようにして立ち上がると、獣が地の底から響くような咆哮を上げた。
「おのれっ!」
獣が炎を吐き出した。焼かれると思った刹那、男の手が閃き半透明の壁を作り出した。強烈な冷気と炎とがせめぎあう。辺りを白く濁らせるほどに蒸気が立ち上る。
「長くは持たない」
男が言った。
「走れるか。走れるなら逃げろ」
琴江は首を振った。支えられてなんとか立ってはいるが、とっくに腰が抜けていて足には全く力が入っていなかった。
「ったく!」
舌打ちをして、男は冷気の壁から手を離す。そして高く突き上げると、氷壁は崩壊し、光の礫となって獣へと向かって放たれた。
「甘いわ」
礫を焼き払おうと獣の体が空中に浮き上がる。途端に生じた風が獣の体を裂き、氷片もろとも巻き込んで赤い霧となって散った。
「どっちがだ」
獣の体がぐしゃりと音を立てて落下した。だが、横たわった獣からは不気味な笑い声がした。
「お前、こんなもんだったか?」
獣が立ち上がる。己の傷に舌を這わせて、けたけたと気味の悪い笑声を上げる。
「こんなもんじゃないだろ」
男が憮然とした表情を浮かべる。獣を鋭く睨んで、ちらりと琴江を見やった。
「おい」
男の腕が琴江の腰を捕まえて引き寄せた。耳元で告げる。
「あの塀の上にお前を降ろす。向こう側に降りて、這ってでもいい、とにかくなんでもいいから逃げろ。いいな」
琴江は頷いた。否と言いたくとも、頷くしかない状況であった。
「いくぞ」
男が手を離す。と、琴江の体が空中へと舞い上がった。目を剥いた巨大な獣の前に男が立ちはだかる。
白く冷気を放つ塊が生まれた。突風とともに獣めがけ飛散する。鋭い刃となった氷片を獣が吐き出した炎が落としていくものの無数に散った氷をすべて溶かすことは不可能だった。炎を掻い潜ったいくつかが獣の身体に突き刺さる。
その間に琴江の体は塀に降り立っていた。その時、琴江の目に白く転がる小さな塊が見えた。
「お守り!」
「おいっ、ばか!」
伸ばした琴江の二の腕に獣の腕が伸びる。爪を引っ掛けられ、自分の体が地面へと落下するのがわかった。だが、それを目に見えない何かが支える。落下の衝撃はなかったが抉られた腕がかっと熱くなるのがわかった。
「――ぐっ」
激痛に呻いて顔を上げ、琴江は目を見開く。
獣の爪の餌食になったのは琴江だけではなかった。男の太腿から黒いものが覗いていた。
「この、あほ……何をやってる」
鈍く光る先端がまるで生き物のように蠢いて身体に穴を開け、埋まっていく。同時に伸びた別の黒い奇妙なそれは蛇のように男の首にも絡みつき締め上げていた。
「あ……ああ」
獣が琴江を振り返った。男を捕らえている黒いそれは獣の尾だった。三つに分かれた鞭のような尾。残った一本が路面を叩く。
「愚かな娘だ」
獣がこちらを向き直った。赤い滴りを纏わせたまま、黒くうねる尾が琴江に狙いを定める。
尾が撓った。――息を呑んだ瞬間、琴江と獣の間に鋭く一陣の風が抜ける。
「行け」
男の掠れた声が琴江に向けて命じた。
「逃げろ!」
「小癪な!」
視界が白く濁るのと、獣が叫ぶのとは同時だった。
そこに発生したのはまるで吹雪。男が生み出したであろうことは明白だった。
指先はすでに大量の出血で冷えていたが、急速に低下する温度に体中の熱が奪われていく。
白く煙る中に響く獣の咆哮。琴江は尻餅をついたままの姿勢でそこから必死に距離を取る。痛む腕を使い、頼りない足を叱咤して、文字通り這いつくばるようにして逃げ出していた。
***
「……その人、どうなったの?」
ゆずの問いに琴江が首を振る。
「でも、お守りの人なんだと思ってたから」
だからこそ、夏葉にきちんと返すべきだと思い、必死に手を伸ばしたのだという。
「そんなファンタジーなこと、あるわけないでしょ」
「でも、その人……人間じゃないよ。だって、空飛んだり、変な壁を出したりとかしたんだよ」
だから、お守りに祈りが通じたのだと思ったらしい。
襲ってきた獣自体が尋常ではなかったのだ。その場で琴江に正常な判断を下せというのが無理だ。確かに人はおかしな壁を生み出したり、氷を自在に動かしたりはしない。ある意味、お守りの力だと思う方がまともな考えとも言えるだろう。精神の安定を保つにはどこかしら歪めた形で認識する必要があるのかもしれない。
だが、夏葉は琴江の言葉をファンタジーだとは捉えなかった。作り出したのは氷の壁だ。使ったのは風の力。それは四之宮香から夏葉を助けた時に銀王が使った技によく似ている。
琴江、と夏葉は静かに言った。
「それって、間違いなく人間だった? 人の姿をしてたの」
「うん。変な能力使ってたけど、姿は人間だった。顔は覚えてないけど」
「犬じゃなくて?」
犬? と琴江が首を傾げる。
「うちの制服着てたし、ちゃんと人だった。ただ、珍しい髪の色だったけど」
「珍しい色?」
「白っぽかったよ」
――白? それは銀色ではないのか?
夏葉は立ち上がっていた。
「ごめん、急用思い出した。先に帰る」
戸惑うゆずの声を背中に聞きながら、夏葉は駆け出していた。
この際、お金に糸目は付けていられない。病院前でタクシーを拾うと夏葉は急いで自宅へ向かう。財布には今月の食費として預かっているお金が入っている。タクシー代には充分なはず、後で怒られることは覚悟の上だ。
飛び乗るなり夏葉は携帯電話を取り出した。
「希世姉、教えて!」
もしもし、と答える声を待つこともなく夏葉は言った。
「銀王は人になれるの」
銀王は人間ではない。妖だ。空が飛べる。氷が使える。風が操れる。人語を話す。人型になることだってできるのではないか。ひとつくらい能力が増えたところでもはや驚くに値しない。
『……なれるわ、多分』
わからないけどとそう希世は前置きをする。
『銀王は二身かも』
妖の中には人に化けるものもいるという。強大な力を持つ妖の中には、いくつもの姿を有するものがいるのだという。二身とは妖としての姿と人としての姿を持つ者を言うのだと話す。
「にしん……? 銀王はその可能性がある?」
『充分あるわね。もしかしたらもっとあるかもしれないけど』
三身、四身の可能性もあると言う。
「希世姉、今どこにいる? 家?」
『そうだけど、なに?』
「そのまま待ってて。出掛けないでね、すぐ戻るから」
どうしたの? と問う希世に後でと告げて、夏葉は電話を切った。
‥…二身。
琴江の話を聞いて、まさかと思った。人の姿をしていたと言われてももしかしてという思いは消えなかった。しかし希世の話で確信した。琴江を助けたという人物、それは銀王に違いない。やはり噂されていたものとは別だったのだ。ようやく心の底から確信と安堵が生まれた。
だが、どういうわけでその獣は銀王と思しき人間を連れ去ったのだろう。
夏葉の思考が先へ進めなくなったのと同時にタクシーが停止した。清算する時間が惜しい。釣りはいらないと告げ、飛び降りた。マンション前の道を横切り、エントランスに駆け込んだところで夏葉は足を止めた。そこには見慣れない人物が立っていたためだった。
「四之宮、香」
夏葉の声に振り返った香は、ひとつ会釈をすると歩み寄ってくる。
「……何か用ですか」
棘のある問いに、香は淋しそうな笑顔を浮かべる。
「ひとつ忠告があって来たの」
「忠告?」
香が小さく頷いた。
「あんなことをした私が言っても仕方ないと思ってなかなか言えなくて。でも、やっぱり言うべきだと思って」
「……なんですか?」
「気をつけて」
黒い瞳が真摯に夏葉を見つめる。
「彼の狙いは貴女よ。私はまんまと踊らされただけ。でも彼は諦めてないわ、だから」
「狙ってるってなんですか? 彼って――」
「白鷺優斗よ」
夏葉は目を瞠った。
「副会長? 副会長が、なぜ」
わからないと香は首を振る。
「暁さんの婚約者が牧名さんになると言ったのも、貴女に対する報復も、すべて彼の提案だったの。勿論、鵜呑みにして行動した私が悪いのも事実、でも、彼の言葉があったのも事実なの」
香は沈痛な表情で夏葉を見る。それはとても演技には見えなかった。
「白鷺は、四之宮の分家だったの。だから元を正せば上梨家に連なる。でも、なんの力もないはずなんだけど、もしかしたらその辺りに何かあるのかもしれない」
「そんな――」
「だから、貴方も――ひっ」
言いかけた夏葉の目の前で、四之宮香が見る見る青ざめるのがわかった。大きく見開かれた瞳が、その驚愕の大きさを示している。
「勝手な推測は困りますね」
背後からかけられた声に、夏葉は息を呑む。会長の反応からも、その口調からも、振り返らずとも、声の主はわかってしまった。
「僕の狙いが牧名さんというのは間違いではないですが、必ずしも正しくはないですね」
どこまでも柔らかな口調。微笑さえ浮かべていそうな、楽しそうな声。
夏葉はゆっくりと首を廻らす。いつもと変わらぬ優しげな笑顔を浮かべているのは、白鷺優斗その人だ。
「僕の狙いは、狼牙。あの憎たらしい小妖ですよ」




