侯爵領が落ちた日から一日
私とブライクさまは遅めの朝食をとってから、老侍女に別れを告げ馬上の人となった。
心配そうに私を見守っていたブライクさまは、私が一人で鐙に足をかけ鞍の上に腰掛けた姿に納得したのかもうこちらを不必要に見ることはなかった。
心身ともに限界だったのか、泥のように眠ることとなった私は射し込む朝日が煩わしくてカーテンの隙間を塞ぐべくのろのろとベッドから這い出した。そしてその隙間から、無心で剣を振っている彼の姿を捉えたのだ。
一気に目が覚めた私は彼を観察した。昨夜の荒れた様子は見当たらない。彼が通常通りならば、私も何もなかったように振る舞おう。急がず、ゆっくりと時間をかけて関係を築いていこう。そんなことを考えていると、彼が剣をしまいはじめた。私は簡単に身繕いをすませると急いで階下へと向かった。
するとそこでは、女性用の横向きの鞍が屋敷になかったことに気づいたブライクさまが、新しいものを用意すべく侍女と相談をしていた。
私は微苦笑とともに会話に参加し、男性用の鞍で構わないこと、むしろ男性用の服を用意して欲しいと頼んだ。私の言葉に目を見開いた彼の反応は正常なものだ。通常、女性は足を広げて馬になど乗らない。両足を揃えて横向きに乗るのだ。けれどそれでは乗り降りの際に補助者が必要になる。私の父が、それでは不便だろう、と言い、結果私は正面向きも横向きも両方練習することとなったのだ。
今思い返すと、確かに私に対する教育内容が貴族用のものとは少し異なっていた気がする。一人で馬に乗る方法、すぐに才能がなくやめることとなったけれど短剣の扱い方も教わった。そして高額な宝石を私に持たせた母。両親は、私が口に出さなかった秘密に気づいていたのだろう。そして私は元婚約者の顔を思い浮かべた。やり手の父を持つ穏やかな青年だった。父は、私を商家に嫁がせることで貴族社会から逃がそうとしていたのだ。
もう会えないかもしれない私の家族。突然の別れで挨拶もできなかった。魔の国へ来たことで迷惑をかけるだろう。私は心の中で謝罪と感謝を口にした。
なんにせよ、鞍の話題から自然と彼と会話をはじめられたことに、私はほっと胸をなで下ろした。
それから慌ただしく時間は過ぎ、今私達は並んで馬を歩かせている。ゆっくり進んでいるので景色を見ながら会話もできる。
「侯爵領は、どういった状況なのでしょうか。」
昨晩から気になっていたことがやっと聞ける。私は背筋を正し、ブライクさまの方へと目を向けた。
「ああ。落ち着いているようだ。魔王が、土地を荒らすな民を殺すなと厳命してくれたようで、逆らわなかった者達は皆無事保護され、今後各領地に配置されそこで農業に従事できるようだ。」
私はブライクさまの話の内容と落ち着いた様子に安堵した。侯爵領と民は、お義父様が願った通り大事に扱われているようだ。
「俺は、功労者として褒美が貰えるらしい。それで俺本人が魔王の元へ行くよう言われた。」
「そうだったのですか。それは、おめでとうございます。」
悲しいことばかりが続いているから、良いことは祝った方がいいだろう。
「ああ。良かった。何が貰えるか想像もできないが、無いよりはましだろう。」
彼は皮肉げに笑って、魔王からの褒美か、と呟いた。
そういえば以前、彼から魔王を評価していないような言葉を聞いた気がする。どのような方なのだろうか。
「ブライクさまは、魔王陛下にお会いしたことがあるのですか。」
彼は首を左右に振りながら、ない、と一言発した。それから昔を思い出すように目を細める。
「けれど、一度父に会いに来た魔王を見たことがある。それだけだ。」
その内容に驚いて私は口を開いた。
「お父様に会いに。わざわざ魔王陛下があの屋敷まで足を運んだのですか。」
国で一番偉い魔人が、あの小さな屋敷に来たというのか。子爵家の領地の屋敷ならばまだしも、あの小さな屋敷に。
「ああ。魔王は、魔法馬鹿、いや魔法愛好者なんだ。それで我が一族が使っている丸薬は歯が黒くならないことを聞いて、わざわざあの屋敷に調べにきたんだ。」
魔の国で使われている魔法の増強剤である丸薬は、闇属性のため、噛み砕いて服用する際に歯が黒くなる。そのことをわざわざ調べに来るなんて。親しみのある方なのだろうか。
「どういった方なのですか。」
私の問いに、ブライクさまは黙り込んだ。何かを言おうとしているのはわかる。けれど言葉を選べないのか、うぅんと唸っている。
「だめだ。俺の乏しい語彙力では到底魔王を表現することはできない。」
そんなにも表現しづらい人物なのだろうか。私はローブを羽織った眼光鋭い老人を想像していたけれど、違うのだろうか。
「会えばわかる。とにかく色々な意味ですごい方だ。」
暫くの間、流れる景色を眺めていた。魔族領といっても、ここは人の国の侯爵領のすぐ西なので、草木の種類や生え方は見慣れたものであった。けれど建物は、心なしか簡単な造りをしている。
「確かに遠乗りが好きだとは聞いていたけれど。驚いたな。いつも前向きに乗っていたのか。」
ブライクさまがこちらに一瞬目をやり、からかい半分で聞いてきた。
「いいえ。前向きは一人の時だけです。」
父が、人前でそうすることまでは許さなかった。
「ですが私はこの服装の方に驚きました。まさか女性用のズボンがあるなんて。」
そう言いながら私は左右の足を伸ばし少し広げてみた。
女性がするべきではないその行為に、ブライクさまはくくくと笑うと口を開く。
「魔族には服装の規定は何もない。全て自由だから色々な物がある。」
その言葉は、私が想像していたよりもはるかに魅力的で夢のあるものだった。何も決まりがなく自由だなんて。人の国ではコルセットだのスカートの長さはこれだの年齢的にあれはだめこれはだめ、細かい決まりが沢山あり窮屈だった。その中でいかに美しくあるか、それを競うのもまた喜びとなるのだろうけれど、それはごく一部の限られた人達の話であって私のような凡人とは縁のないことだった。
「そうなのですか。ではコルセットはもう一生つけなくていいのですね。」
身軽な胴回りを上機嫌で受け入れた私を見て、彼も楽しそうに笑っていた。
「それにしても君の手綱さばきはなかなかのものだな。」
騎士である彼に誉められたことは単純に嬉しく、私ははにかんだ。
「いつか君と二人乗りもしてみたいな。」
ぼそりと呟かれた言葉に、私は気恥ずかしくなり頬を染めた。
実は、昨晩馬で魔王の陣まで行くと聞いたとき、私はてっきり二人乗りで行くものだと勘違いをしていた。二人乗りは馬に相当な負担がかかるけれど、二時間の距離ならば許容範囲内だと思ったからだ。けれど、今日馬を見てそうならなかった理由がわかった。二頭とも駄馬なのだ。
「良い馬が一頭欲しいところだな。」
彼も同じことを考えていたようだ。
「あちらのお屋敷では、所有していなかったのですか。」
なぜ良い馬がいないのだろうかと疑問に思っていた私は率直に尋ねてみた。
「ああ。あそこには贅沢品は一切無かっただろ。」
彼の問いに私は頷ずく。小さな屋敷の中には最低限の家具と人しかいなかった。
「俺も昔、流石にあれは酷いと父に進言したことがあった。父の答えは、人質が贅沢をすれば嫌われる。それにもしあそこに若い侍女や娘好みの家具や本を置いたら、妹はあそこから出なくなってしまうと言っていた。」
そういうことでしたの、私はそう返答し納得した。お義父様は、娘にあそこを出て幸せになって欲しいと強く望んでいたのだろう。そのために敢えて過酷な環境を整えたのだ。複雑な親心は果たして娘に届いていたのだろうか。
屋敷を出てからすぐに比較的大きな街へと私達はたどり着いた。街から少し離れた場所に止まり、その様子を観察する。そこは私が今までに見てきた街とは全く異なるものであった。例えば、人の国では建物に重みがある。石や煉瓦が使われ外から中は見えない造りになっていた。けれどこちらでは木や布で簡単に造られたものが多かった。もちろん大きなお屋敷には石や煉瓦も使われていた。
「建物が木や布で作られているのですね。」
意識せず、言葉が口から溢れてくる。私の目はきっときらきらと輝いていることだろう。
「魔族はすぐに移動するから軽い布が人気だ。」
ブライクさまが私の好奇心に答えをくれる。
「まあ。土地を移動するのですか。」
一つの土地に何十代も住み続ける人の国とはやはり全く違うようだ。
「ああ。魔族は農業はあまりしない。自然の恵みだけで食べていけるんだ。だから食べ物や仕事のある場所に移動しつつ暮らしている者が多いな。」
「まあ、旅人のようですね。」
見たこともない未知の世界に胸を高鳴らせて、頬を上気させた私は知らず口角をあげていた。
「馬と君の服を買おう。それから街に入る前にこれをつけてもらえるか。」
そう言いつつブライクさまが取り出したのは、長い二本の布。
私が全く状況を理解できず首を傾げていると、彼が馬から下り私も下ろされた。そして彼は長い布をくるくるとひねりだした。そして私の後ろにまわり、私の両手首を腰のあたりで縛る。
私は呆然となされるがままに、捕らわれた少女のようになってしまった。そして残りの一本を何に使うのか考える。足。腰。口。
正解は口だった。猿ぐつわですか。そうですか。一体彼は何がしたいのだろう。涙目の私を見て楽しそうにしている。
「君の家族になるべく迷惑をかけないよう、色々とやってみよう。君は、裏切り者の俺に無理やり人の国から連れてこられた深窓のご令嬢、という設定だ。」
彼はくくくと笑い声を漏らしながら、私の涙を拭った。
「魔の国にも、人の国の密偵は多く入り込んでいる。彼らに、君が自分の意思で魔の国へ来たわけではないと主張しよう。国王陛下が簡単に信じるとは思えないが、何もしないよりは君の家族に有利に働くだろう。」
ブライクさまの言っていることは、正しい。けれど、一言、言わせて欲しい。私はうぅうぅ唸りながら彼に一度猿ぐつわを外してくれと目に力を入れた。
鬼気迫る私の様子に更に笑い声をあげて、彼は布を少し緩めてくれた。
「他に、方法はないのですか。」
彼はにこりと微笑んだ。
「他にも考えた。とりあえず全て試してみよう。」
彼の清々しい笑顔に私はうなだれた。正論だ。やれることは全てやるべきだ。
けれどほんの少し、心の中に苦いものがよぎる。
「また、演技をするのですね。」
嘆息した私の髪を撫でて、彼は呟いた。
「そういえば俺達はずっと演技をしているな。仲が悪い時は仲の良い、仲が良くなってからは仲が悪いふりか。」
私達は人の国で結婚したけれど、それは彼が私を囲い込むための手段で私達の関係は冷え切っていた。けれど私達はまるで運命の恋人同士のように振る舞い、評判の夫婦だった。本当に想い合えたのに、これからは私が彼を拒否する演技をしなければいけないのだ。できるだろうか。
私の不安をよそに、ブライクさまは私に布を噛ませると、馬を引きながら歩いて街へと向かった。
私は彼の斜め前を歩きながら、この姿では私が犯罪者か、彼が夜盗か何かだと思われて捕まるのではないかと心配になってきた。けれど後ろの彼は、口笛でも吹きそうな程に上機嫌で私の腰を押していたので、もう諦めて全てを彼に任せることにした。
街には検問などはなく、私達はすんなりと中へ入ることができた。
周りの視線が突き刺さるように痛い。私は涙目になってしまった。演技をしなくても、十分哀れな雰囲気を醸し出していることだろう。
すると彼が周りをぐるりと見渡し、すぅと息を吸った。そして張りのある声で話し出す。
「この街で一番の馬と、女ものの服が欲しい。心当たりがある者は案内してくれ。金ならいくらでもある。」
じゃらり、金貨がすれる音が後ろから聞こえてきた。周りからも歓声が上がる。
「おい。何枚あるんだ、あいつの金貨。」
「なんだい。あの子。震えちゃってかわいそうに。」
「あの金貨、盗んだんじゃないか。関わらない方がいい。」
「あの娘は繋がれてるのか。さらわれたのか。」
周りに集まった老若男女が思い思いに発する様々な憶測を、ブライクさまが一瞬で黙らせた。
「俺は、ブライクだ。」
すると胡散臭そうに私達を囲んでいた人々が、一斉に黙り完璧な静寂が訪れた。けれど次の瞬間、おぉぉぉと歓声の声が挙がり辺りはお祭り騒ぎになっていった。
「我が国に食料庫を献上した、あの。」
「なかなかいい男じゃないか。」
「王都などいらん。食料があればいいさ。」
どうやら魔の国ではブライクさまは人気があるようだ。それにしても昨日の出来事の詳細が、もう広まっているなんて。人の国ではあまり戦争の情報などを知ることはできなかった。けれどここではもう、裏切り者の名前がブライクだということが噂になっていたのだ。
「それで、その子は。」
一人の青年が、私のことを指差しながら尋ねてきた。ブライクさまはきっとにたりと笑って答えるのだろう。
「俺の、妻だ。人の国の伯爵家のご令嬢だ。」
その言葉に皆の視線が私に集中する。私は緊張のあまり硬直しごくりと唾を飲んだ。
「妻。は普通紐で繋がれてないと思うんだけど。」
今度は若い女性が少し眉間にしわを寄せて感想を述べた。
すると斜め後ろから、悲しみのこもった溜め息のような返答が落ちてきた。
「国に帰りたいと暴れるんだ。だから仕方がない。」
それを聞いた周りの人達は顔を見合わせた。
私は心の中で笑ってしまった。あの感情に起伏のないブライクさまが、活き活きと演技をしている。まったくこの人は、自分のことはすぐに諦めて死にたいと言うのに、私のこと、いいえ他人のことになると、何でもやるのだ。他人のためならば、生きられるのだ。
それならば、私はこの人に幸せにしてもらおう。そうすればその隣で、この人も幸せになれるはず。
私は一大決心をすると、足に力を込めた。そして私への注意を怠っていたブライクさまの腕をすり抜け、観客の中へと飛び込んだ。彼は心底驚いていることだろう。
そして先程の女性に体を寄せると、うぅぅぅうう、助けてくださいと涙目で訴えた。
「かわいそうだから、帰してあげれば。」
女性は私をまじまじと見つめ、私の背中をさすりながらブライクさまに食ってかかった。
私は振り返り彼の顔を見た。心底驚いているようだ。私は、目でにたりと笑った。彼はそんな私を見て、今度はあははと声を上げて笑い出した。
「それは無理だ。俺は欲しいものは手に入れる。」
そう言いながら私達の方へ近寄り、私を軽々と肩に担ぎ上げた。
「でもその子は。その子の気持ちは。」
更に言い募る女性の顔にぐっと顔を寄せて彼は低い声で囁いた。
「関係ない。俺は、いい男だろ。そのうち惚れるだろ。」
まるで劇の中の俳優みたいな台詞に私は笑ってしまったけれど、女性は頬を赤く染めていた。
娯楽の少ないこの街で、この話はすぐに広まっていくだろう。私の家族の為になればいいけれど。私は担がれながら、興奮した観衆を眺めていた。
街一番の馬はなかなかの名馬だった。私達は一緒に馬の背中に跨がり先を急いでいた。
「君の演技。最高だったな。」
彼は何度もあの場面を思い出しては私をからかいながら笑っていた。
「ブライクさまに負けてはいられませんもの。」
私も、うふふと笑う。




