第235話 ー報告のあとに残るものー
おかえりなさいませ。
本日は、セレナが報告のあとに残る苦さを見つめる刻をお届けいたします。
屋敷へ戻ると、セレナはそのまま母の部屋へ向かった。
以前なら、まず自室へ戻っていただろう。
鏡の前で表情を整え、今日の言葉を自分に都合よく並べ直してから、母へ報告していた。
けれど今日は違う。
時間を置けば置くほど、余計な言い訳が増える気がした。
扉の前で足を止め、息を整える。
それから、控えめに叩いた。
「入りなさい」
母の声はいつも通りだった。
厳しく、短い。
部屋に入ると、母は書き物をしていた。
セレナを見ても、すぐに手を止めない。
最後の一文字まで書いてから、ペンを置いた。
「どうだったの?」
前置きはない。
それが母らしかった。
セレナは椅子に座る前に礼をした。
「大きくは崩しませんでした」
まず、そう言った。
母の眉がわずかに動く。
「大きくは、ということは、小さくは何かあったのね」
逃がしてくれない。
けれど、今日はそれでよかった。
曖昧にしても、あとで自分が苦しくなるだけだ。
「辺境伯夫人の話が出ました」
セレナは言った。
「ヴェリス夫人が、あえて“妹君”と呼びました」
母は黙って聞いている。
表情は変わらない。
だが、視線だけが少し鋭くなる。
「私は……辺境伯夫人は、辺境伯夫人として立っている、と返しました」
言い切ると、喉の奥が少しだけ渇いた。
その言葉は、まだ苦い。
リリアナを“辺境伯夫人”と認める形だからだ。
だが、今日あの場では必要だった。
そう思える程度には、セレナも自分を見られていた。
母はしばらく何も言わなかった。
沈黙が長い。
責められるより、かえって落ち着かない。
やがて、母は短く言った。
「悪くないわ」
セレナは思わず顔を上げた。
褒め言葉ではない。
けれど、否定でもない。
今の自分には、それだけで十分すぎるほどだった。
「ただし」
母は続ける。
「ヴェリス夫人は、あなたがそこで苦いと思ったことまで見ているでしょうね」
胸の奥に落ちかけた安堵が、すぐに冷える。
「……見えたでしょうか」
「見えたと思っておきなさい」
母の声は冷たい。
「王妃派の奥方は、言葉そのものより、その言葉を言う時の間を見ます」
セレナは膝の上で指先を重ねた。
たしかに、あの時、一拍あった。
“辺境伯夫人”と言うまでの一拍。
その一拍を、相手が見逃すはずがない。
「でも、以前よりは踏みとどまりました」
セレナは静かに言った。
自分でそう言うのは少し悔しい。
けれど、事実でもあった。
母はそれを否定しなかった。
「ええ。以前なら、そこで妹と言い続けたでしょう」
「……はい」
素直に認めるしかなかった。
母は椅子の背にもたれず、背筋を伸ばしたまま言う。
「そこが、今のあなたの危うさです」
「危うさ……」
「踏みとどまれるようになった。けれど、まだ苦い。だから、そこを押される」
分かりやすい。
分かりやすいから痛い。
セレナは小さく息を吐いた。
「では、どうすれば」
「次は、同じ話題を出されても同じ返しをすること」
母は迷わず答えた。
「一度なら偶然。二度同じように返せば、相手はそこを使いにくくなるわ」
セレナはその言葉を頭の中で繰り返した。
同じ返し。
同じ線。
リリアナが茶会でやっていたことだと気づいて、胸の奥がまた少し苦くなる。
「……辺境伯夫人のやり方みたいですわね」
思わずそう言ってしまう。
母の目が、ほんの少しだけ冷えた。
「今、その言い方が出るうちは、まだ危ういわね」
セレナは口を閉じた。
リリアナの名を出してしまった。
比べてしまった。
まただ。
母はそれ以上責めなかった。
責めない代わりに、静かに続ける。
「あなたが学ぶべきなのは、リリアナの真似ではありません」
「では」
「同じ失敗を繰り返さないことです」
それなら、まだ受け取れる。
セレナはゆっくり頷いた。
母は机の上に置かれた小さな紙を取った。
「ヴェリス夫人から、次の文が来るでしょう」
「次も、ですか」
「来ます」
母は断言した。
「今日のあなたは、完全には崩れなかった。だから向こうは、もう一度試す」
セレナの背筋が少しだけ伸びる。
試される。
まだ見られている。
まだ使えると思われている。
その考えが胸の奥に浮かび、すぐに自分で押さえた。
それが甘さだ。
母に言われた“欲しい言葉”に近いものだ。
「……気をつけます」
母はその返事を聞き、少しだけ頷いた。
「今日は休みなさい。返事は来てから考えればいい」
「はい」
話は終わりだった。
セレナは部屋を出る。
廊下に出ると、足元が少しだけ重い。
けれど、昨日ほど乱れてはいない。
自室へ戻ると、机の上の紙を開いた。
“私が持っているもの”
その下に並んだいくつもの言葉。
王都での見せ方。
人の目を読むこと。
焦らず見ること。
踏み込まないこと。
昔の呼び方をしないこと。
棘を見せすぎないこと。
欲しい言葉を疑うこと。
セレナはペンを取る。
少しだけ迷ってから、新しい一行を書いた。
“同じ返しを続けること”
書いた瞬間、リリアナの顔が浮かんだ。
茶会で、同じ線を崩さなかったリリアナ。
以前の自分なら、あれを地味だと笑ったかもしれない。
けれど今は、その地味さがどれほど厄介か分かる。
「……嫌になるわ」
そう呟きながらも、セレナはその一行を消さなかった。
王妃派の奥方は、また来る。
母はそう言った。
きっと来るのだろう。
次は、もっと柔らかい言葉で。
もっと自分が欲しいところを突いて。
その時、自分が同じ線で返せるかは分からない。
分からないから、今書いておく。
自分を縛るためではない。
次に崩れないために。
セレナは便箋を閉じ、深い青の布の控えをそっと引き寄せた。
まだ仕立てられていない布。
今の自分に合うと言われた色。
前のように、ただ華やかに目を引くための色ではない。
動いたあとで艶が出る色。
その意味を、まだ好きになれない。
けれど、必要だとは思い始めていた。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
踏みとどまれた一歩にも、まだ見られる隙が残ることがございます。




