二十九話:田植え
――水を引く。
それは、思っているよりもずっと重労働だった。
地面を掘り、水路を作り、流れを整え、そして水を張る。
言葉にすれば簡単だが、実際は違う。
土は崩れ、水は思い通りに流れない。
少しでも傾きを間違えれば、全部が台無しになる。
「……ぬかるみ、ってやつだね」
肩の上で、シルフィアが興味深そうに呟いた。
小さな足をぷらぷらさせながら、水の張られた区画を覗き込む。
「地面が水を吸ってる感じがする」
「ああ」
「でも、これで本当に育つの?」
「育つ」
「断言するね」
「断言できるから言ってる」
「……やっぱり怖い」
シルフィアは苦笑した。
その時だった。
「ちょっとぉ、これ重すぎなんだけど!」
ミレイナの声が響いた。
そして――
ぐちゃっ。
「……は?」
足が沈む。
そのまま、ぬかるみに絡め取られるように動きが止まった。
「……なにこれ」
引き抜こうとするが、泥がまとわりつく。
「……最悪なんだけど」
周囲でも同じことが起きていた。
「うわっ、滑る!」
「足抜けない……!」
悲鳴と戸惑いが広がる。
乾いた地面とはまるで違う。
踏めば沈み、動けば崩れる。
「……これで本当にやるの?」
アルティナが不安そうに呟く。
耳がわずかに伏せられている。
「やる」
レオンは即答した。
短く、それだけ。
説明はしない。
助けもしない。
(ここは、自分で慣れろ)
その沈黙を破ったのは――
「……面白いじゃん」
ルミナだった。
すでに両足を泥に突っ込んでいる。
ぐらつきながらも、笑っていた。
「なんかさ、変な感じ!」
踏みしめる。
ぐちゃ、と音が鳴る。
「でも、これなら水ちゃんと残るね!」
理解が早い。
「……いや、そういう問題じゃなくない?」
ミレイナが呆れる。
「だってやるんでしょ?」
一言。
「なら慣れるしかなくない?」
「……」
ミレイナは一瞬黙り、
「……はぁ」
大きく息を吐いた。
「分かったわよ」
そのまま泥に踏み込む。
「うわ最悪……!」
文句を言いながら。
だが、止まらない。
「滑るから足開いて!重心下げなさい!」
すぐに周囲へ指示を飛ばす。
(……切り替えが早い)
レオンは静かに見ていた。
一方で――
シエルは、端の方で止まっていた。
白銀の髪が風に揺れる。
慎重に足を入れる。
ぐちゃ。
「……っ」
身体が揺れる。
ズルッ。
「……!」
どしゃ。
泥の中に倒れ込んだ。
水と泥が跳ねる。
周囲が一瞬止まる。
「大丈夫!?」
ルミナが叫ぶ。
だが――レオンは動かない。
(……ここだな)
助ければ簡単だ。
だが、それでは意味がない。
シエルは泥の中で手をついた。
震えている。
顔も、服も、全部汚れている。
ゆっくりと顔を上げる。
レオンを見る。
――助けてくれるか。
その一瞬の視線。
だが。
レオンは、何も言わない。
ただ見ている。
「……っ」
シエルは唇を噛んだ。
そして――
自分で、立ち上がる。
足を引き抜く。
踏み直す。
ぐちゃ。
今度は――倒れない。
「……できる」
小さく呟く。
「……やる」
そのまま歩き出した。
(……いい)
レオンはわずかに目を細める。
一度転ぶ。
それでも立つ。
それができるなら――使える。
その時、後ろで声がした。
「主よ」
ノクティアだ。
腕を組み、泥の区画を眺めている。
「随分と面倒なことをさせるのう」
「必要だ」
「踏めば沈む土地など、普通は避けるぞ」
「普通じゃ足りない」
「……なるほどな」
ノクティアは小さく笑う。
「だから“あれ”か」
「そうだ」
シルフィアが首を傾げる。
「二人でなんか分かり合ってるのずるい」
「分かりやすく言うと?」
「泥まみれにならないと強くならないって話」
「雑すぎない?」
「合ってる」
「えぇ……」
シルフィアは呆れた。
その間にも作業は進む。
「ちょっと!そこ崩れてるって!」
ミレイナの怒声。
「水流れてる!止めなさい!」
「無理ですって!」
「無理じゃない!踏み固めろ!」
カルネリアが無言で踏み込み、地面を押し固める。
リュシエラが声をかける。
「焦らなくていいわ、順番にやりましょう」
フィリアが支える。
「無理な人は一度出てください、足を取られます」
ルシアが判断する。
「水の流れ、右に寄せて。そこ低い」
エルミナが道具を渡す。
「これ、踏むときに使って。沈みにくい」
アルティナが土を見る。
「ここ、少し高くした方がいいです……水溜まりすぎます」
レティシアが静かに頷く。
「そこ削って、こっちに回して」
リゼは外周を見ている。
シエルは泥の中で、黙って足場を作り始めた。
それぞれが、それぞれの役割で動く。
やがて――
「……できた」
誰かが呟いた。
最初の一区画。
水が均等に張られている。
崩れない。
流れも安定している。
“田”の形になっていた。
全員が、それを見る。
言葉は出ない。
だが、分かる。
“できた”と。
「……やるじゃん」
ミレイナが小さく笑う。
「でしょ!」
ルミナが笑う。
シエルは、泥だらけの手を見ていた。
そして――ほんの少しだけ、笑った。
シルフィアがその様子を見て、ぽつりと呟く。
「ねぇ、レオン」
「なんだ」
「人間って、すごいね」
「どうした急に」
「こんなぐちゃぐちゃの場所でも、ちゃんと形にするんだもん」
一拍。
「最初はできなかったのに」
「慣れただけだ」
「それを“すごい”って言うんだよ」
レオンは何も言わなかった。
ノクティアが横で小さく笑う。
「確かにのう。最初はただの群れだったのに」
「今は違う」
「ああ。少なくとも――使える集団じゃ」
風が吹く。
水面が揺れる。
泥の中に作られた、小さな区画。
まだ未完成。
だが確実に。
前に進んでいる。
(……これでいい)
レオンは静かに視線を外した。
教える必要はない。
経験すればいい。
そうすれば――勝手に強くなる。
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