覚悟
アナベラが連れ出されたあと、客間には静けさが戻った。
裂けた布の音が、まだ耳に残っている。ユリカは指先で耳朶に触れる。
「……大丈夫か」
ジュネシスは、ユリカの指をそっと握る。壊れてしまいそうなものに対する、慎重な掌。
「はい。怖くはありました。けれど……後悔はしていません」
自分でも驚くほど、ユリカの声は落ち着いていた。
ジュネシスは短く息を吐き、頷く。
「君があの場を一人で受け止めたこと、尊敬する」
その言葉は、庇護でも慰めでもなかった。
尊敬、それは対等な者への評価だ。
その後、ユリカはドーマン伯爵夫人――彼の母に呼ばれた。
夫人の私室は質素で、必要以上の装飾はない。家を守る者の空間だった。
「……息子は、冷たい男でしょう」
唐突な問いに、ユリカは一瞬考える。
確かに、出会った頃は冷たく感じた。
その後、ジュネシスと触れ合う機会を増やし、彼の人間性が少しずつ理解出来た。
「冷たい、というより……感情を外に出さない方だと思います」
夫人は、わずかに目を細めた。
「守るべきものが多いほど、人は慎重になる。あの子は幼い頃から、そうやって生きてきました」
夫人の眼差しは、ジュネシスとよく似ている。
言葉はユリカを責めてはいない。ジュネシスの弁護でもない。
ただの事実だ。
「慎重な生き方というものを、わたしはまだ、分かっていません。でも……わたしは、あの方と並びたい。共に歩んでいきたいと思ってます」
ユリカは、視線を逸らさずに言った。
夫人は、静かに頷いた。
「では、あの子が立ち止まった時、引き戻してあげなさい。妻とは、そういう役目です」
それは許可だったのだろう。
次代の家を守る女性としての重みを、ユリカは託された。
深く一礼し、ユリカは夫人の部屋を出る。
ドアが閉まると夫人は軽く息を吐く。
そして両手の指を合わせ、呟いた。
「ようやく、繋ぐことができました……」
屋敷の回廊でジュネシスが待っていた。
「母に、何を言われた?」
「……立ち止まったら、引き戻してあげなさい、と」
ジュネシスは小さく笑った。
「母らしい」
そして、珍しく言葉を探すように沈黙する。
「君に守られるつもりはない」
「ええ。でも……並ぶことはできます」
ユリカが答えると、彼はしばらく彼女を見つめ、やがて頷いた。
「それなら、俺は君を選び続ける」
その声には、迷いがなかった。
約束ではない。永遠の保証でもない。それでも、今この瞬間に選ばれたという事実が、ユリカの胸を確かに満たした。
◇◇
季節は巡っていく。
ユリカはまもなく育った家を離れる。
両親や姉妹と一緒に、食事する機会もなくなるのだ。
ある晩、父の書斎に呼ばれた。
「何か、御用でしょうか?」
「ああ、まあ……」
父は棚から箱を取る。
「開けてみなさい。結婚祝い、だ」
箱の中には、模様が刻まれたグラスが二つ、並んでいた。
「お父様、これは……」
隣国で作られている、かなり高価なものだ。
「お前には、何もしてやれなかったからな」
照れたように、父は笑う。
「壊れやすいものだから、大切に扱いなさい」
その一言は、ユリカの胸に響いた。
大切にしなければ、壊れてしまうのはグラスだけではない。
「はい。お父様。大切に……ずっとずっと大切にします」
涙ぐむユリカの頭を、父は撫でた。
ああ……。
ふと思い出す。
昔一度だけ、こんな風にしてもらった。
あれは風邪をひいて、一人ベッドで寝ていた時だった。
父も、確かに、愛情をかけてくれていたのだ。
ありがとう。
心の中でつぶやいた。
だって口に出したら、泣いてしまうから。
次話、完結(予定)




