瞼は閉じない
アナベラの声は、ひび割れていた。
それは真実の愛を掲げて駆け落ちした末に、現実に打ちのめされた者の音。
「アナベラ様は、ジュネシス様の弟君とご成婚されたはずです」
震えを抑え、ユリカは言葉を選ぶ。
「もうすぐ離婚するの。だから元に戻るのよ」
理屈ではなく、願望。
ああ、そうなのか。
ユリカは理解した。この女性は、過去に縋っているのだと。
「申し訳ありません。ジュネシス様は、わたしと結婚されます」
その一言で、アナベラの表情が歪んだ。
「あなたみたいな地味な女が?」
胸に刺さる棘。
それでも、ユリカはアナベラを見据える。
逃げたくない。
「わたしは、ドーマン家嫡男の妻になる者です」
虚勢ではない。
自分で選び、ここに立っているという事実。
アナベラが腕を伸ばした瞬間、布の裂ける音がした。
恐怖に、視界が白くなる。
でも。
だからこそ。
ユリカは、目を閉じなかった。
アナベラは唇を噛む。
どうして、こんなはずじゃなかったのに。
客間に立つ女を見た瞬間、胸の奥で何かが割れた。
あの頃、自分が立つはずだった場所。自分の未来だったはずの位置に、別の女がいる。
愛を選んだのは、間違いじゃなかった。そう思わなければ、ここまで来た意味がなくなる。弟を選び、家を捨て、すべてを賭けた決断だったはずだ。
けれど現実は、愛だけでは守ってくれなかった。生活は荒れ、優しさは疲弊し、かつて誓った未来は、日に日に色を失っていく。
――それでも。
戻れる場所があるなら、取り戻していいはずだ。
そう信じたかった。信じなければ、自分の選択そのものが、過ちになってしまうから。
だから、この女が憎いと思う。
静かで、怯えているのに逃げない。その態度が、かつての自分にはなかった強さを映しているようで、耐えられなかった。
伸ばした手は、奪うためではない。確かめるためだったのだ。
だが、布が裂ける音がした瞬間、アナベラは悟った。
自分はもう、選ぶ側にはいないことを。
選ばれなかったのは、あの時のジュネシスではなく――今の自分なのだと。
「そこまでだ」
聞き慣れた声が、空気を断ち切った。
ジュネシスが立っていた。
息を切らし、アナベラの腕を押さえ、そのまま護衛に引き渡す。
彼は、ユリカの肩を抱く。
「すまない」
短い言葉。
だが、その背中は、過去ではなく、今を選んでいた。
ユリカは、初めて涙をこぼした。
怖かった。
それでも、逃げなかった自分を、少し誇らしく思えた。
選ぶという行為は、恐怖を消さない。
前に立つ覚悟を与えるのだと、ユリカは初めて実感していた。
――アナベラ
屋敷を出されたあと、馬車の中でアナベラは爪が白くなるほど拳を握りしめていた。
屈辱だった。
拒絶されたことではない。
哀れまれることなく、ただ「過去」として扱われたことが。
あの女は、泣き叫びもしなかった。
勝ち誇りもしなかった。
ただ、そこに立っていた。
それが、何より耐え難かった。
かつて自分が誇りにしていたのは、選ばれる美しさだった。誰かに強く求められ、手を引かれて未来へ進む――その役割を、疑いなく自分のものだと思っていた。
だが現実は、違った。
愛を選んだはずなのに、生活はすり減り、情熱は義務に変わり、いつしか「選ばれた」という実感だけを、過去から掘り起こすようになっていた。
――戻れば、また選ばれる。
そう信じたかった。
けれど今日、はっきりと思い知らされた。
選ばれることは、待つものではない。
立ち続ける者にだけ、与えられるのだと。
アナベラは、窓に視線を逸らした。
そこには頬がこけた女が、涙を流している。
涙を拭った彼女の指は、ささくれだらけで荒れていた。
後悔が胸を満たす。
それを誰のせいにも出来ないことを、アナベラは分かっていた。
夫の、ライルの元に帰ろうか……。
――ライル
酒場の隅で、ライル・ドーマンは杯を見つめていた。
兄の婚礼が近いという噂は、否応なく耳に入る。
アナベラが兄の屋敷に乗り込んだと知った時、止めることも出来ず、追うこともしなかった。
それが、自分の立ち位置だと理解していたからだ。
兄から奪ったのは、女だけではない。
信頼と、家名と、自分自身の居場所だった。
愛していたはずだ。
だが、守り切れなかった。
選んだはずの人生で、責任を果たせなかった事実だけが、重く残っている。
杯を煽っても、何も変わらない。
兄は前を向き、選ばれ続けている。
自分は、過去にしがみついたまま立ち止まっている。
その差を、ようやく理解した。
ざまあみろ、と思う相手は、もういない。
残ったのは、やり直せない選択と、生きるしかない現実だけだ。
アナベラは、帰ってくるだろうか……。




