過去は置いていくが、残る棘
ユリカがなかなか寝付けずにいた、同じ夜。
ジュネシスもまた、静かに邸の中を歩いていた。
家族の想い出が残っている。
弟ライルと駆け回り、母に叱られた廊下。
二人で邸探検をして、入り込んだ書庫には、ドーマン家の家系図があった。
音を立てないように、書庫の戸を開ける。
蝋燭の灯りが揺れる。
湿度のある匂いがした。
書庫の奥は、高い天井まで積み上げられた書架が見えないほど暗い。外界の時間感覚を曖昧にする。
ジュネシスは一冊の古い記録書を手に取ったまま、しばらく頁をめくることができずにいた。文字を追えば、自然と思考が別の場所へ引き戻されるからだ。
過去は、捨てたわけではない。
ただ、抱え続けるには重すぎるものに、なっていただけだろう。
かつて信じ、未来を重ねた相手の面影は、今も完全には消えていない。だがそれは、胸を締めつける痛みではなく、静かな痕跡として残っている。
忘れようとした時期もあった。
思い出すこと自体を、弱さだと思ったこともある。
だが、思い出を否定しても、そこに費やした時間まで消えるわけではない。
ジュネシスは本を閉じ、深く息を吸った。
過去に縛られないとは、過去を消すことではない。
そこに戻らないと決めることだ。
ユリカの姿が、ふと脳裏に浮かぶ。
彼女は多くを語らず、期待を前面に出すこともしない。ただ、その沈黙の中に、確かな意思があることを、彼は感じ取っていた。
もし、彼女の前で過去を盾に距離を取るなら、それは誠実とは言えない。
過去を理由に、何も与えない選択をするのは簡単だ。
だが。
彼女を制度の一部として扱うことと、何が違うのか。
ジュネシスは書架に記録書を戻し、ゆっくりと背を伸ばす。
過去は、ここに置いていく。
背負わず、否定せず、ただ参照点として残す。
その上で、今と向き合う。
それが、自分なりの誠実さなのだと、ようやく理解できた気がした。
口元が僅かに緩んでいるのを、まだジュネシスは気付いていない。
◇◇
翌日の夜。
ユリカはドーマン家の馬車で、自邸に帰った。
「ではまた」
ジュネシスは相変わらず、そっけないような言い方をした。
「はい」
顔を上げたユリカは、ジュネシスと視線がぶつかり、思わず赤くなる。
それはいままでよりも、柔らかい眼差しだった。
自邸に戻ったユリカは、早速姉と妹に囲まれた。
「ねえねえ、どこまで進んだの?」
目をキラキラさせて、妹が訊く。
「どこまでって、ジュネシス様の領地まで」
姉はフンと鼻を鳴らす。
「違うわよ。キスくらいまでいったのかしら?」
ユリカの顔が真っ赤になり、思いきり手を振る。
「だって二人きりで行ったんでしょう?」
「侍女と護衛も一緒だったわ」
「手は繋いだ?」
「え、ああ、一緒に釣りした時に……」
「「釣り!」」
だめだこりゃ。
そんな表情の姉と妹を見て、ユリカは偶然でも抱きしめられたことは言えなかった。
◇◇
その来訪は、予告もなく訪れた。
ユリカがドーマン伯爵邸を訪れていたのは、ウエディングドレスの最終確認のためだった。
午後の光が差し込む客間で、仕立て屋の説明を聞いている最中、侍女が慌てた様子で名を告げた。
「お客様が……ドーマン家のご親戚の女性だと」
胸に、小さな棘が刺さる。
親戚という言葉に、嫌な予感がした。
客間に入った瞬間、ユリカは理解した。視線の鋭さと、まとわりつく粘着質の空気。
それは、敵意だった。
「アナベラ・ドーマンよ」
長い黒髪。翡翠色の瞳。
かつて、ジュネシスが愛した婚約者の女性。
ユリカの心臓が、どくりと音を立てる。
逃げようと思えば、逃げられた。
侍女を呼び、家令に任せればよかった。
だが、ユリカは動かなかった。
――ここで背を向ければ、きっと一生、胸の奥に棘が残る。
「返してよ。ジュネシス様は、元々わたしの婚約者だったのよ」
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ああ、ツッコミたい。




