川は流れて
初夏の領地は、思っていたよりも静かだった。
両家の共同事業のため、二人で視察に向かうことになった。
馬車に揺られながら、ジュネシスは時折ユリカの横顔に視線を向ける。
――そのうち情が湧けば、恋愛結婚と変わらん
上司の言葉が蘇る。
情が湧く――その言葉が、ひどく遠いものに思えたからだ。
かつての婚約者に、確かに情はあった。情以上の想いもあったのだ。
時間を共有し、未来を語り合い、疑いなく信じていた関係。
それが、ある日突然、音を立てて崩れた。
もし再び誰かを想い、同じように失えばどうなるのか。
その恐怖が、彼の中で慎重さという名の壁を築いていた。
期待しなければ、痛みも小さい。
情を育てなければ、失うものも少ない。
そうやって自分を守る選択が、いつの間にか習慣になっていた。
――家を守るために結婚する。それでいいじゃないか
それは、間違いではない。
政略結婚は、感情よりも合理を優先する制度だ。
だから、彼はこの縁談を受けた。
だが、合理だけでは埋まらない空白が、確かに存在している。
もし、何も感じないまま結婚したとして、それは誠実なのだろうか。
相手に、何も与えられないと知りながら、隣に立つことは。
答えは出ない。今も……。
馬車を降りた瞬間、土と草と水の匂いが混じった風が二人を包む。王都の石畳とはまるで違う、生活の匂いだ。
「……変わっていないな」
ジュネシスは小さく呟いた。
ここは、彼が幼い頃、弟ライルと何度も訪れた川だった。釣り糸を垂らし、日が暮れるまで魚影を追った記憶がある。
ユリカは、その横顔を盗み見る。
彼の過去に、無理に踏み込むつもりはなかった。ただ、共有できる時間を、少しずつ積み上げたかった。
「本当に、綺麗な川ですね」
「治水工事が入れば、姿は変わる。だから……その前に見せたかった」
それは視察というより、彼なりの誠意だった。
昼食を終え、釣り糸を垂らす時間になると、ユリカは迷いなく餌を手に取った。
「平気なのか?」
「ええ。家族で食べる分は、自分で釣っていましたから」
その言葉に、ジュネシスは小さく目を見張る。
貴族の令嬢は、守られる存在だと、どこかで思い込んでいた。
だがユリカは、生活の中で身につけた強さを持っていた。
魚がかかり、ユリカがバランスを崩した。瞬間、彼は反射的に彼女を支えた。
細い体。
思ったよりもしっかりとした体温。
胸の奥が、ひどくざわついた。
額の汗を拭おうとするユリカに、ジュネシスはハンカチを取り出す。
何も考えずにポケットに入れてきたが、刺繍の紋様を見てジュネシスの眉が動く。
かつて、アナベラに貰ったハンカチだ。
ふわり。
風が吹く。
吹いた風は、ジュネシスの手からハンカチを取り上げた。
水面に落ちたハンカチを見て、ユリカは慌てる。
「大変! ジュネシス様の!」
ハンカチは意志を持っているかのように、スイスイと流れていく。
「いや、良い……」
「でも!」
「良いんだ。もう」
ハンカチは小さな渦に巻き込まれ、すぐに見えなくなった。
そして、過去の象徴だった刺繍のハンカチが川に流れた時、ジュネシスは初めて、それを惜しいと思わなかった。
――もう、戻らない。
それを受け入れられたからこそ、今があり、明日があるのだ。
過去を否定せず、縛られもしない。その感覚が、彼の中で静かな変化として根を張り始めていた。
◇◇
その夜、ユリカはドーマン邸の客室で、なかなか寝付けないでいた。
さざ波のように起こる昼間の情景。
ジュネシスの言葉は丁寧で、距離を保っていて、それでいて完全に突き放すものではなかった。その曖昧さが、彼女の思考を何度も引き戻す。
期待してはいけない。
そう自分に言い聞かせるほど、逆に意識してしまう自分がいる。
政略結婚の相手として選ばれた時点で、個人としての感情など求められていない。そう理解しているはずなのに、彼の視線や間の取り方に、異性を感じてしまう。
それは勘違いだ。
相手が誠実なだけ。
何より自分が、男性慣れしてないだけだろう。
けれど誠実さは、ときに人を安心させ、同時に期待を生む。
ユリカは窓辺に立ち、夜気に触れながら思う。もし彼が、最初から彼が冷酷であれば、ここまで心が揺れることはなかっただろうと。
望まれていない立場であることは、変わらない。
それでも、拒まれてもいないという事実が、彼女の枷を軽くしていた。
近づきすぎれば、傷つくかもしれない。
だが、離れるという選択は出来ないユリカだった。
自分でツッコミたくなりますが、押さえます。
お読みくださいまして、ありがとうございました!!




