第四話 4
優菜と美帆は、会社の応接室のソファーに座って、出前の特上寿司を頬張りながら、二人で話していた。
「ねー、こんなに奮発しちゃって良かったの? 私は遠慮なく頂くけど……」
「いいのよ。この間、優菜が徹夜してくれたおかげで、私は大口の契約がすんなり取れたし、イベントも大成功だし、テレビ局とも新規の契約が取れたし、もうほんとに優菜様様だもん。それに、徹夜仕事の穴埋めはするって、この間約束したでしょ?」
「そっか、そうだったね」
「うん、そう。でも、亮君、ほっといて良かったの?」
「あ、うん。今日、男三人で飲みだって言ってたから、ちょうど良かったのよ」
「男三人て、祐樹君と芳子さんの旦那さんの渉さんと?」
「違う違う。渉さんは下戸だし、渉さんじゃなくて隼人君とよ」
優菜は何気なくそう言ったが、言った後に、もしかして言わなかったほうが良かったのかもと後悔していた。美帆の顔が急に曇ったからだった。
優菜は、美帆と過ごした高校三年生の夏の日のことを思い出していた。学校の授業を終えた後、区立図書館の勉強室で美帆と二人で勉強をしてから帰宅するのが日課になっていたのだが、午後七時になったので、優菜は参考書やノートを鞄の中に入れて帰宅の準備をしていた。同じように美帆も区切りの良いところで帰宅の準備をし始めるだろうと優菜は待っていたのだが、美帆はさっきから必死でノートにペンを走らせているばかりで、こちらのイライラにまったく気付いていないようだった。優菜は美帆が何をそんなに一生懸命勉強しているのだろうかと彼女のノートを覗き込んだのだが、よく見ると美帆はノートではなく便箋にペンを走らせている。しかも、その便箋は、ミツバチが花畑の上を飛んでいるイラストが描かれた随分と可愛らしいものだった。
「なんだ! 勉強してるのかと思ったのに、手紙を書いてたんだ。今日ね、八時からどーしても見たいテレビがあるのよ。終わらないんだったら、私、先に帰るよ」
「えーっ、後もう少しだから待ってよ」
「また菊池君に手紙を書いているんでしょ? そんなの家でも書けるでしょ」
「家だとね、弟がしょっちゅう邪魔しに来るのよ。パソコンが私の部屋にしかないから」
「そっか、弟がパソコンを占領しに来るんだ」
「うん。あいつ、私と違って金遣いが荒いから、お金が貯まらないらしくて自分でパソコンを買えないのよ。親にねだってもダメだったし」
「でも、美帆もまめだねぇ。菊池君が神戸に行ってからずっと文通してるんでしょ?」
「うん。だって、メールより手紙のほうがいいって言うんだもん。でも、一ヶ月に一回しか書いてないけどね。ほとんどメールばっかではあるんだけど」
「ふーん。それはそうと、私、今まで訊いたことがなかったんだけど、美帆が菊池君を好きになったきっかけって一体何だったの?」
「えーっ、今更そんなこと訊く?」
「うん、訊く訊く」
「なんか恥ずかしいなぁ」
「えー、いいじゃん、教えて。やっぱり、愛川から守ってくれたから?」
「うーん、それもあるけど……、一言で言うなら、変人だからかな」
「はぁ? なにそれ? 美帆が変人だからってこと?」
「違う、違う。隼人が変人だったから。でも、それって優菜にも共通することではあるんだよね」
「何よ、それ。なんかムカつく」
「えー、褒めてるんだけどな」
「変人ってことが?」
「うん」
美帆によると、亮と祐樹というほとんどのクラスメイトに相手にされていなかった嫌われ者の二人と、何の偏見もなくすんなり仲良くなった隼人に興味が湧いたのだという。しかし、彼をよく観察していると、「あんなヤツらと付き合わないほうがいい」と周囲のクラスメイトに散々忠告されていて、それなのに隼人はそんな彼らを笑い飛ばし、「なんで? あいつら結構良いヤツだぜ?」と反論していたというのである。「隼人のそういうところが優菜と似てるよね」と言って、美帆は笑った。要するに、美帆は「外身より中身重視」なのだそうである。
そんな話を美帆から聞かされて、嬉しいけどなんだかなと思いながら帰路についていたら、商店街で祐樹とばったり遭遇し、祐樹から亮と二人で夏休みに神戸にいる隼人を訪ねるという話を聞かされたのだった。高校三年生の夏休みは、大学受験を間近に控えた勝負時だったし、すでに塾の夏期講習も申し込んであったし、美帆の予定も優菜と全く同じだったから、祐樹の話を羨ましいとは思いつつ、自分と美帆は、今の時期に旅行なんて無理だろうなと思った。けれども、楽しそうに語っていた祐樹の顔を思い出すといてもたってもいられず、思わず美帆にメールしていた。
『野崎君と桜木君が神戸の菊池君のところへ行くんだって! いいな。羨ましい。一緒について行きたい!』
すると、美帆からすぐに返信があった。
『うん、私もさっき隼人からメールがあったから知ってる』
『でも受験勉強があるし、親は絶対ダメだって言うよね?』
『まぁ、そうだよね。でも、黙ってりゃバレないよ』
『黙って行くの!?』
『うん、夏期講習の合宿だって言えばいいじゃん』
『マジで!?』
『マジ。ちょろいちょろい』
『二、三日、勉強さぼったくらいで変わんないか』
『そうだよ。神戸へ行くぞー!』
『分かった! 私も行くー!』
こんなやり取りをして、二人で結託して、祐樹と亮の旅行に二人で同行するはずだった。がしかし、旅行三日前になって、美帆の様子が急変したのだった。優菜が何度メールを送っても返信がない。心配した優菜は美帆の家を訪ねたのだが、美帆の家は大変な騒ぎになっていた。美帆の家は、何故だか引越の真っ最中だった。おかしい、美帆の家が引越するだなんて、私は美帆から一言も聞いていない。何かあったんだろうか? そんなことを考えていて、その引越の喧噪を避けるように、庭の隅に置かれたガーデニングチェアに一人で座って、呆けたように引越の様子を傍観している美帆を見つけた。優菜は美帆に駆け寄り声を掛けた。
「何かあったの!? 引越だなんて聞いてないよ!」
「私も聞いてない。今日、初めて知った」
「ええっ!」
「お父さんが悪い人に騙されたらしくて、この家を出て行かなきゃいけなくなったの。旅行どころか、大学受験も諦めなくちゃいけないかも」
「うそ……」
美帆の家の庭は、父親の会社が造園業を営んでいるせいか、小さいながらも随分と整えられた立派な庭だった。煉瓦造りの丸や四角の花壇があちこちに点在していて、その花壇を縫うようにカーブを描いた石畳の小道が作られていた。小道にはモッコウバラのトンネルもあったし、庭には、レディユーナをはじめ、色んな種類のバラやハーブなどの宿根草が植えられていて、年がら年中、次から次へと咲く花で見る者を飽きさせない工夫がされていた。優菜も美帆の家の庭が大好きだった。優菜もよく美帆から聞かされていたものだった、自分の将来の夢は、田舎に家を買って、花いっぱいの庭園を作って隼人と一緒に住むことだと……。
「花は人を幸せにするでしょ? だから好きなんだよ」
ことあるごとに、美帆は優菜にそう語っていた。それなのに、その花いっぱい咲く家を出て行かなくてはいけないなんて……。
美帆の一家はその家を出て、木造の古いアパートに引っ越した。大学受験も諦め、生活は貧しくなった。父親は無理がたたったのか、それから程なくして亡くなった。その後、母と弟と三人でひっそり生きていたが、美帆は夢を諦めたわけではなかった。身体が不自由ながらも、事務のアルバイトをして貯めた三百万円を元手に会社を起こし、十年間、働くだけ働いて漸く会社を軌道に乗せたのだった。優菜も大学を卒業してから、建設会社の経理部で働いていたのだが、七年前に美帆に誘われて美帆の会社を手伝うことになったのだった。
「あのさ、結婚って楽しい?」
美帆が優菜の顔を見て、急に質問をぶつけてきたので、優菜はちょっとびっくりした。
「なに、急に?」
「いや、ちょっと訊いてみたくなって」
「それなりに大変なこともあるけど、それなりに楽しい」
「なに、その言い方、亮君に言いつけるわよ」
「だって、彼、ほんとに何をしでかすか分かんないんだもん」
「まぁね、亮君はそうだよね。この間まで寝たきりだったし」
「そうでしょ?」
「うん」
「でも、楽しいよ」
「そうだろうね。優菜を見てたらそう思うよ。楽しそうだもん」
「私のことはいいから、美帆はどうなのよ? この間まで付き合ってた人はどうなったの? あの人とはなんで別れたのよ?」
「ああ彼はね、良い人だったけど、私は彼の夢を叶えられそうにないなと思ったから別れたのよ」
「どんな夢だったの?」
「海外に永住したいって言ってた。私の夢と彼の夢は同時に叶えられないと思ったから別れたのよ」
「え? もしかして、隼人ともそれが原因で別れたの?」
「……」
「隼人って、帰国子女だし、たしか中学の時、外交官になって外国に行きたいってしょっちゅう言ってたよね?」
「そうだね……。足が不自由だし、私の夢はフラワーデザイナーだし、一緒に夢を叶えるのは無理だと思ったの。私は日本にいたかったし、それを彼に強要するなんて傲慢だもの」
そう悲しそうに言った美帆を、優菜は言葉もなく見つめていた。
そして、夜遅く帰宅した後、優菜は美帆のそんな様子を亮に報告し、亮も「そっか、隼人と美帆が復活したらいいのになと思ってたけど、そんなに簡単にうまくいかないんだな」と言ったら、優菜も「そうだね……」と言い、深くため息を吐いた。




