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国が滅ぶ前夜、婚約者の放蕩王子は廃港と劇場を買い占めた

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/04/17


「殿下、浪費ごっこは結構ですが――この国、もう破産しています」


 深夜の王宮地下金庫で、私は金貨箱の上に片足を乗せてそう言った。


 目の前では、第一王子フィリクス・グランディス殿下が、署名したばかりの契約書をランプの火で乾かしている。

 契約内容は、王都南側の廃港、赤字続きの印刷工房、閉鎖寸前の劇場、潰れかけの製粉所、借金まみれの運送商会の買い上げ。


 要するに全部、今この国で「王族が手を出したら正気を疑われるもの」ばかりだった。


 しかも支払いは、今まさに私の背後でぎらぎら光っている王家の現金準備からである。


 正気ではない。


 いや、私は前からこの男が正気ではないことを知っていたけれど、今夜のこれは輪をかけてひどい。


 王国監査院の印付き帳簿を抱えたまま、私は王子を睨みつけた。


「廃港に劇場に製粉所。次は何を買うおつもりです? 崩れかけた噴水ですか? それとも井戸ですか? もう言っておきますけれど、今の王家の流動資産でこの支出を続けたら、月末を待たずに底をつきます」


「底なんて、もうとっくに見えているよ」


 フィリクス殿下は平然と答えた。


 月光みたいに淡い金髪。人を食ったような青い目。誰が見ても絵姿そのままの放蕩王子。

 社交界では「王都一、顔が良くて金遣いが終わっている男」として名を馳せている。


 そして私、伯爵令嬢オクタヴィア・ヴァルディエは、その婚約者だ。


 本来なら、私はこの男を止める側だった。


 父に言われたのだ。


 ――お前は数字にだけは嘘をつけない。だからこそ、あの放蕩王子の財布に鎖をつけてこい。


 そのつもりで王宮に来た。実際、半年のあいだ、私は毎日のように殿下の支出を止め、契約を差し戻し、社交界での馬鹿げた競り落としを37件潰してきた。


 けれど、王家の中枢帳簿がようやく私の手に渡ったのは2日半前のことだった。


 そして今夜の彼は、止められて困る人間の顔をしていなかった。


 むしろ、ようやく間に合ったとでも言いたげな顔をしていた。


「違います」


 私は帳簿を開いた。


「見えているのではありません。沈んでいるんです。王家の現預金は、表向き220万枚。ですが、帳簿上いま自由に動かせるのは47万枚。さらに来週の北方債利払いが30万枚、港湾保険の繰り延べ計上が13万枚、神殿借入の返済猶予も切れる。つまり、今あなたが箱ごと持ち出そうとしているその金は、王家の見栄を剥いだ瞬間に消える幻です」


 私はそこで、わざと間を置いた。


「破産寸前なのは、あなたではなく、この王国です」


 殿下の青い目が、ほんの少しだけ細くなった。


 私はその反応を見逃さなかった。


「……もうそこまで読めたか」


「え?」


「君なら3日かと思っていたけれど、2日半だった」


 思わず眉をひそめる。


「何を言って――」


 その時、殿下は脇に抱えていた黒革の薄い帳簿を私へ投げて寄越した。


 慌てて受け止める。ずしりと重い。中を開いて、私は息を止めた。


 そこに書かれていたのは、私がこの2日半で見つけた不自然な金の流れ――その“続き”だった。


 王家の表帳簿。

 財務省の裏帳簿。

 神殿金融庫の貸付記録。

 貴族院の担保一覧。

 そして、殿下自身が今夜までに買い集めた廃港、工房、劇場、製粉所、運送商会の所有権移転予定表。


 点と点が、一気に線でつながる。


「……これ、全部、繋がっているの?」


「ようやく同じものが見えたね、オクタヴィア」


 殿下は私の顔を見て、初めて少しだけ笑った。


 いつもの軽薄な笑みではなかった。疲れ切った人間が、ようやく話の通じる相手に会えた時の笑みだった。


「王家はもう破綻している。父上も、財務卿も、それを知っている。表向きは繁栄を装って外から金を引き、内側では来年の税収と再来年の港湾使用料まで先食いしてる。来月、諸外国の共同監査が入れば終わりだ」


「……それなら、なおさら今夜こんな支出をする理由がわかりません」


「逆だよ」


 殿下は金貨箱の蓋に腰掛けて、私を見上げた。


「終わる前に、金を別の形へ変えてるんだ」


 私は無言で帳簿を追った。


 廃港。

 製粉所。

 劇場。

 印刷工房。

 運送商会。

 孤児院への寄付に見せかけた土地取得。

 閉鎖された井戸の修繕権。

 赤字続きの塩倉庫。


 最初は無意味に見えた出費に、共通点が見え始める。


「……全部、王都の西と南を結ぶ物流線上」


「そう」


「しかも食糧加工、保管、輸送、情報伝達……」


「その先を言って」


 私は喉を鳴らした。


「破綻後の生存網」


 殿下は静かに頷いた。


「正解」


 ぞくりと背筋が震えた。


 この男は、本当に国が終わったあとを見ている。


 私は、ここで初めて理解した。

 フィリクス・グランディスはただの浪費王子ではない。

 終わると分かっている王国の中で、たった一人、崩壊後の人の生存を買っていた男だ。


「……どうして、誰にも言わなかったんです」


「言ったら止められる」


「私は今、止めようとしていました」


「でも君は、帳簿を読んでここまで来た」


 私は言葉を失った。


 殿下は立ち上がると、私のすぐ前まで歩いてきた。夜更けの地下金庫は冷えるはずなのに、この人の体温だけ妙に高い。


「君一人では、この国の粉飾を暴けても、外に出せない。父上も財務卿も有能だ。証拠だけでは潰される。僕一人では、人と物は動かせても、法と数字で首を取られる」


 彼は黒革の帳簿を私の胸へ押し返した。


「でも、君と僕なら勝てる」


 その時の声は、社交界で聞くどんな甘い囁きより、ずっと心臓に悪かった。




 ◇◆◇




 私は昔から、数字の嘘が嫌いだった。


 潰れかけた帳簿の匂いは、二度目でも好きになれない。


 この世界に生まれてからも、自然と帳簿ばかり見ていた。


 ドレスより伝票。

 宝石より勘定。

 舞踏会より在庫表。


 おかげで20を過ぎても色気より決算書の女として生きてきたし、婚約話も「王家の財布を締める役」として回ってきた。


 その婚約相手が、まさか国ごと粉飾倒産の瀬戸際で“明日を買っている”男だったなんて、想定外にもほどがある。


 その夜から、私は殿下と手を組んだ。


 ただし、最初から甘い空気など一切なかった。


「これ、誰名義で買ってるんです?」


「商会を3つ噛ませて、最後は市井の公益信託」


「雑すぎます。3手目でばれます」


「君なら綺麗にできるだろう?」


「人を便利な筆記具みたいに言わないでください」


「便利だろう? 実際」


「腹立つくらい便利ですけど」


 私は机いっぱいに広げた契約書へ赤線を引きながら言った。


 場所は、王都南区の閉鎖された歌劇場。その地下の衣装保管庫。今はここが、殿下の秘密拠点だった。


 驚くことに、彼が“無駄遣い”で買った施設の大半は、すでに密かに動き始めていた。


 廃港には修繕済みの倉庫がある。

 製粉所にはまだ使える石臼が残っている。

 劇場の地下通路は避難経路に転用できる。

 印刷工房は布告や配給札を刷れる。

 運送商会には、王都の裏道を知り尽くした御者がいる。


 裏口の見張りに立っていた無愛想な男たちは、表向きは倉庫番だが、実際には王都防衛隊から外された元兵で、今は殿下個人が給金を払っていた。


 さらに地下の警備名簿には、南部保全隊の名が並んでいた。廃港、劇場、製粉所を行き来しながら、有事にはそのまま生活基盤を守るための人員らしい。


 点在する“無駄”をつなげれば、ひとつの都市の命綱になる。


「でも、これだけでは足りません」


 私は古びた王都地図に印をつけた。


「穀物の現物が少ない。倉庫があっても中身がなければ意味がない」


「北部穀倉地帯の買付は済んでる」


「運び込めますか? 監査前に?」


「普通なら無理」


「普通じゃない手段がある?」


「ある。けど、違法すれすれだ」


「今さらです」


 私が即答すると、殿下は小さく吹き出した。


「君、本当に肝が据わってるな」


「褒めても融資は下りませんよ」


「融資じゃない。好感度」


「それも今は結構です」


 言いながら、耳が少し熱くなる。私は帳簿へ視線を落とした。


 この人は、軽薄なふりをして、人の心臓にだけは真っ直ぐ来る。


 それが困る。


 しかも、敵も本当に手強かった。


 現王セオドアは、外交と威信の維持に関しては大陸随一と呼ばれた男だ。衰えた今でも、他国に“繁栄している王国”を信じ込ませる演出力は底知れない。


 そして財務卿マルセル・ド・レオンは、数字の悪魔だった。


 私が見つけた裏帳簿の処理は、雑ではない。

 むしろ美しい。何年にもわたり、借金を資産に見せかけ、先送りした支払いを収益で塗りつぶし、存在しない準備金をさもあるように見せる。

 やっていることは詐欺なのに、技術だけは一級品だった。


 そのうえ性格が悪い。


 救荒穀物費を夜会装飾費に付け替え、凶作地域向けの薬草備蓄を王妃の香油代に回し、孤児院の冬薪費まで「属州安定化予算」として担保に入れていた。


 人を飢えさせて数字を整える。


 しかもそれを、美しい帳簿の上でやる。


 私はあの男の数字だけは、どうしても許せなかった。


 この2人が組んでいる。だから、王子だけでも、私だけでも勝てない。


 殿下は人を動かし、先を見て、王国の外側に生き残りの導線を作れた。でも、その行為自体が横領に見えてしまう。


 私には粉飾を暴く目と、法に沿って切り崩す手がある。でも、王族の名前と兵を動かす力がない。


 私たちは、互いに相手がいないと詰む位置にいた。


 それが妙に、腹立たしくて、気持ちよかった。


 そして私は、この数日で知ってしまった。


 フィリクス殿下は有能だ。誰より先に崩壊を読み、人を拾い、場所を押さえ、明日へ変える胆力がある。


 でもこの人は、自分が泥を被ることにためらいがない。


 最後に全部を押しつけられてもいい。

 自分さえ悪役で終われば人が生き残れるならそれでいい。

 本気でそう思っている人間の目をしていた。


 それが、腹立たしいほど格好よくて、困るのだ。




 ◇◆◇




 決戦は、3日後の建国記念祝賀会になった。


 共同監査団が王都に入る前夜。王と財務卿はその場で「王国の揺るぎない繁栄」を宣言し、新たな外債を引くつもりだった。


 そして、その責任の一部をフィリクス殿下へ被せる算段も整っていた。


 私たちは、その準備まで読んでいた。


 当日、王宮大広間には諸外国の使節と有力貴族がぎっしり詰めかけていた。高い天井。金箔の柱。豪奢な音楽。笑顔。香水。嘘みたいな繁栄。


 舞台中央では王が演説していた。


「我が王国の富と安定は、諸君も知るとおりである――」


「嘘です」


 私が言った瞬間、楽団の音が止まった。


 すべての視線が、私に集まる。


 私は一歩前へ出て、王宮監査院の印が押された帳簿を掲げた。


「監査院補佐官、ならびに第一王子殿下婚約者、オクタヴィア・ヴァルディエ。国庫の監査結果を申し上げます」


 王の目が冷えた。財務卿マルセルは、ほんのわずかに笑った。


 その笑いを見た瞬間、私は確信した。彼らもこの場を待っていたのだ。


「現時点で王国は実質債務超過です。来月の共同監査を待たず、すでに支払不能に陥っています」


 会場が爆発したみたいにざわめく。


「何を馬鹿な!」

「王家への侮辱だ!」

「監査印があるぞ……!」


 王が片手を上げると、ざわめきは潮が引くように静まった。


「続けよ」


 低い声だった。


 私は頷き、頁をめくる。


「表帳簿の現預金は220万枚。しかし神殿借入返済、北方債利払い、港湾保険未払金、軍需仮払金を除くと、実質可動資金は17万2400枚。さらに来季税収の先食いと粉飾在庫を除外した場合――王家の純資産はマイナスです」


 何人かの顔色が変わった。数字がわかる人間ほど、青ざめる。


 そこで財務卿が一歩前に出る。


「なるほど。実に優秀な計算です、オクタヴィア嬢」


 柔らかな声音。上品な笑み。毒のある男は、だいたい最初に礼儀正しい。


「ですが、その混乱は、殿下の放漫な支出なくしては起きませんでした」


 彼が指を鳴らすと、従者たちが箱を運び込んだ。


 中から出てきたのは、契約書の束。廃港、製粉所、劇場、工房、運送商会。すべて、フィリクス殿下が買ったものだ。


「王子殿下は、国庫から莫大な資金を持ち出し、用途不明の施設や土地を買い漁った。王家の財政を悪化させた張本人は、ほかならぬ殿下です」


 会場の視線が一斉にフィリクス殿下へ向かう。


 殿下は一歩も引かなかった。でも、あえて何も言わない。


 これも打ち合わせ通りだった。


「オクタヴィア嬢」


 財務卿は私に向き直る。


「貴女は正しい。王国は危機にある。ですが、その危機を招いた原因が、誰であるかも正しく告げるべきでは?」


 来た。


 私は静かに息を吸った。


「ええ。正しく告げます」


 会場がしんと静まる。


「これらの支出は、すべて第一王子フィリクス・グランディス殿下の意思で行われました」


 どよめき。王が満足げに目を細める。財務卿も勝ちを確信したように肩の力を抜いた。


 その瞬間、私は続けた。


「――だからこそ、この国はまだ死んでいません」


 沈黙が落ちた。


 次に理解したのは、フィリクス殿下だった。彼がほんの少しだけ、笑った。


「殿下が買ったのは浪費先ではありません」


 私は契約書を一枚ずつ広げた。


「廃港は南部からの穀物流入拠点。製粉所は配給加工拠点。劇場は避難所兼情報集約点。印刷工房は配給札と通達の発行所。運送商会は物流網。孤児院付属地は非王家名義の保全地。――これは“破綻後の生活再建基盤”です」


 ざわめきが変わった。


 困惑から、計算へ。貴族も使節も、それぞれの頭で点を結び始める。


「まさか……」

「全部、繋がっているのか」

「では殿下は……」


 財務卿が初めて顔色を変えた。


「詭弁です! たとえ目的が何であれ、国庫から支出した事実は変わらない!」


「ええ、変わりません」


 私は即答した。


「だから私は、その支出が“横領”ではなく“先行的な公共保全費”として成立するよう、法的根拠を揃えました」


「何?」


 財務卿の顔から笑みが消える。


 私は胸元から、もう一つの封書を取り出した。


「王権危機時資産移管法、第32条。王権の信用失墜により公共インフラの保全が必要な場合、王位継承者は監査院の副署をもって公益信託へ資産移管を行える」


 会場がどよめいた。


「そんな古法、死文化している!」


「死文化していようが、廃止はされていません」


 私は財務卿を見た。


「そして3週間前、陛下は私に王家支出監査の副署権限をお与えになりました。“放蕩王子の無駄遣いを止めるために”」


「だとしても!」


 財務卿が鋭く声を重ねた。


「その副署権限は、支出差し止めのための限定権限にすぎない! 資産移管の承認まで含まれるものではない!」


 その一撃は鋭かった。


 会場が、わずかに財務卿側へ傾くのがわかる。


 さすがだと思った。

 この男は、最後の最後まで有能だ。

 ただ怒鳴るだけではなく、ちゃんと人が揺れる順番で言葉を置いてくる。


 けれど。


「ええ。だから普通なら、できません」


 私がそう返すと、財務卿の目がわずかに細くなった。


「ただし――監査院補佐官が“王権の信用失墜を認定した場合”に限り、自動的に第32条へ接続される補助執行条項が付いています」


 私は封書から、もう一枚の文書を引き抜いて掲げた。


 会場がざわつく。


 財務卿の顔が、初めて強張った。


「そんなものは……」


「あります」


 私は冷たく言い切った。


「あなたが書きましたよ、マルセル卿。12年前、北部属州の反乱鎮圧時に、物資差し押さえを迅速化するために」


 どよめきが広がる。


「自分で便利にした近道が、今日あなたの喉元に刺さっただけです」


 財務卿の唇が、初めてわずかに震えた。


 けれど、そこで終わる男ではなかった。


 マルセルはすぐに表情を立て直し、むしろ先ほどまでより低く、よく通る声で言った。


「……仮に、その補助執行条項が有効だったとしても、です」


 空気が張りつめる。


「資産移管の有効性は、別問題だ」


 その声音は、怒りよりも冷たかった。

 ここからが本命だとわかる声だった。


「外債契約第11条、ならびに王家担保保全令。共同監査前90日以内に行われた資産移転のうち、債権回収を害する目的でなされたものは、たとえ信託の形式を取っていても詐害移転として無効。王家財産に復帰する」


 会場の空気が、今度こそ大きく揺れた。


「しかも」


 財務卿は一歩、私の方へ踏み出す。


「貴女の言う公益信託は、実態のない紙の箱だ。廃港は閉鎖されたまま。劇場は上演停止中。製粉所は赤字で休眠。印刷工房も運送商会も、いまだ利益を生んでいない。稼働実績なき施設群を“生活基盤”と呼ぶのは、ただの言い換えにすぎません」


 何人かの使節がはっとしたように顔を上げた。


 そうだ。

 この反撃は強い。


 法的根拠がある。

 しかも、表から見ればもっともらしい。


 財務卿は畳みかける。


「つまりそれは、公益信託などではない。差し押さえを逃れるための、意図的な資産隠しだ」


 彼の目が、勝ちを確信したように細められる。


「王子殿下の浪費は、やはり浪費でしかない。そして貴女は、その隠蔽に手を貸した共犯だ」


 その瞬間、会場の温度がまた変わった。


 今度は明確だった。


 貴族たちのざわめき。

 使節たちの視線。

 共同監査団の面々も、こちらを値踏みし始めている。


 ――うまい。


 本当に、嫌になるくらいうまい。


 この男は数字だけではなく、崩し方も知っている。

 こちらが勝ったと思った瞬間に、“その勝ち筋そのもの”を無効化しにくる。


 だからこそ。


「ええ」


 私は、はっきり頷いた。


「そこまで読んでいました」


 財務卿の眉が、ぴくりと動く。


「だから私は、王都公益再建信託を“紙の箱”のままにはしていません」


「何?」


「本日、日没前の時点で、すでに稼働を開始しています」


 今度は、財務卿が一瞬だけ言葉を失った。


 私は懐から小束の帳票を取り出し、最前列の使節席へ向けて掲げた。


「南部廃港の荷受印。

 製粉所の稼働記録。

 印刷工房の配給札初版。

 運送商会の夜間配送台帳。

 井戸修繕の完了報告。

 そして孤児院、救護院、南区3区画への第一次物資移送完了証明」


 ざわ、と会場が波打つ。


 私はさらに続ける。


「穀物第一便は、すでに南部廃港へ到着済み。製粉は今夜から開始。印刷工房では配給札の印刷を終え、運送商会の馬車列が今この瞬間も南区を走っています。劇場地下は避難区画として開放済み。閉鎖井戸も2基、修繕を終えました」


 財務卿が、初めてはっきりと顔色を変えた。


「そんなはずは……!」


「そんなはずはあるんです」


 私は言い切った。


「あなたが祝賀会で虚飾を撒いている間に、こちらは人を生かす準備を終えていましたから」


 そして私は、視線だけでフィリクス殿下へ合図を送る。


 彼は一歩前へ出た。


「入ってきてくれ」


 大広間の扉が開く。


 入ってきたのは、南部製粉組合長、廃港の元管理人、劇場支配人、印刷工房の親方、運送商会の老主人、孤児院の院長、退役兵団の代表。


 つまり、殿下が“浪費”で買い上げていた先の全員だった。


 しかも彼らは、ただの証人ではなかった。


 服に粉をつけたままの製粉組合長。

 インクの染みた指のままの印刷工房親方。

 夜風にさらされた外套を着た運送商会の老主人。

 救護院の受領印が押された配給札束を抱えた院長。


 誰が見ても分かる。

 これは書類上の存在ではない。

 もう動いている。


 フィリクス殿下の声が、大広間によく通った。


「これが、僕の浪費の中身です」


 作られた王子様の声ではない。

 疲れていて、それでも人を動かす、本物の声だった。


「父上と財務卿は、王国の破綻を隠し続けた。僕は止められなかった。だからせめて、崩れたあとに人が死にすぎないよう、金を人と物に変えた」


 王が立ち上がる。


「黙れ、フィリクス!」


「いいえ、黙りません」


 殿下は真っ直ぐ王を見た。


「僕を放蕩王子の看板にして、最後に全部の責任を被せるつもりだったのでしょう。でもそれでも構わなかった。王家がどうなっても、国が残ればいいと思っていたからです」


 その一言が、大広間の空気を切り裂いた。


 王の顔から血の気が引く。


 ――この人、ずっと一人でそれを背負うつもりだったのだ。


 胸の奥が、鋭く痛んだ。


 放蕩王子の仮面を自分から被って、最後は全部の泥を被るつもりで。それでも人が死ななければいいと、本気で思っていたのだ。


 腹が立った。


 どうしてそんな顔で、そんな覚悟を一人で抱え込めるのか。


 格好いいとか、そういう生やさしい感情じゃない。

 そんなふうに自分を安く扱うな、と叫びたくなるくらい、腹が立って、どうしようもなく胸が熱くなった。


 でも、まだ終わらない。


 私は最後の一刺しを入れるために、帳簿を開いた。


「さらに申し上げます」


 財務卿がこちらを睨む。


 私はまっすぐ見返した。


「共同監査で発覚するはずだった粉飾ですが、その責任は王家全体ではなく、決裁責任者個人へ遡ります」


「……何を言っている」


「外債契約第5条。準備金報告に故意の虚偽があった場合、監督署名者に対し私財をもって弁済責任を負わせる」


 私は契約書の原本を掲げた。


「署名者は、陛下と財務卿、2名です」


 財務卿の顔色が、ついに完全に変わった。


 この条項こそ、私が黒帳簿を読みながら夜明けまでかけて見つけた毒針だった。

 王家全体の破綻に見せかけて、最後は自分たちだけ逃げるつもりだった男たちの逃げ道を、契約書自身が塞いでいた。


「貴様……!」


「数字を甘く見たのは、あなた方です」


 私は言った。


「嘘の帳簿は美しい。けれど、本当に美しい数字は、人を生かすためにしか並びません」


 その瞬間、共同監査団の代表が一歩前へ出た。


「本件、即時保全審査に移る。王権による資産隠匿、ならびに虚偽報告の疑いについて、署名者本人を拘束対象とする」


 王が何か叫び、財務卿が抗議し、衛兵が動く。

 でももう遅い。


 数で押せば潰せる局面は、過ぎた。


 フィリクス殿下が先に動いた。


「王都防衛隊、ならびに南部保全隊は、公益信託資産の保護に入れ」


 次の瞬間、私が劇場地下で見た退役兵たちが一斉に動き出した。

 表向きは倉庫番や荷運び、実態は殿下が拾い集めた防衛要員。

 王家直属ではない、でもこの国を捨てていない人間たちだ。


 財務卿は叫ぶ。


「反逆だ!」


「違う」


 フィリクス殿下は静かに言った。


「これは、国家の清算だ」




 ◇◆◇




 全部が終わったのは、夜明けの直前だった。


 王は退位を余儀なくされた。

 財務卿マルセルは拘束された。

 共同監査団は、王家による粉飾と虚偽報告を前提に、破綻処理と再建計画の提出を要求した。


 要するに、王国は正式に“終わった”。


 でも、人が死なない終わり方へ滑り込めた。


 それは、フィリクス殿下が先に“明日”を買っていたからであり、私がその買い方に法と数字で道をつけたからだった。


 どちらか一人では無理だった。


 本当に、ぎりぎりだったのだ。


 王宮の東回廊は、夜明け前の青い光で満ちていた。


 私はようやく一人になれると思って、石の手すりに手をついて息を吐いた。身体中が重い。頭も回らない。徹夜のあとに国ひとつ清算したのだから当然である。


「ここにいたか」


 振り返ると、フィリクス殿下がいた。


 夜会服のまま。髪は少し乱れていて、でも妙に似合っている。腹の立つ男だ。


「探さないでください。今の私、たぶん顔が終わってます」


「僕も似たようなものだ」


「殿下は終わってても顔がいいので不公平です」


「褒めてる?」


「事実です」


 そう言ったら、彼は少し笑った。


 それから私の隣に来て、同じように手すりへ手を置く。


 夜明け前の風が、二人のあいだを抜けた。


「オクタヴィア」


「はい」


「僕は、金は抱えるより使い切るものだと思っていた」


「聞いています。毎回腹が立ちました」


「だろうね」


 彼は苦笑した。


「でも本当は、金を持てないんじゃなくて、明日を信じられなかったんだ」


 私は黙って聞いた。


「どうせこの国は終わる。父上は嘘を積み上げる。マルセルは数字を塗り替える。だったら、今夜のうちに使い切って、人と物に変えた方がましだと思ってた」


 そこで彼は、私の方を見た。


「でも君が来てから、初めて思った。明日のために残す金もあるんだって」


 私は目を見開いた。


 こういう時だけ、この人はずるいくらい真っ直ぐだ。


「……それ、今ここで言うんですか」


「今じゃないと、また格好つけるから」


 彼は一歩、近づいた。


 私は逃げなかった。逃げられなかった、の方が正しいかもしれない。


「王になる気は、正直まだ薄い」


「でしょうね」


「でも」


 彼はゆっくり息を吸う。


「君が作る予算で回る国なら、継いでもいいと思える」


 胸の奥が、変なふうに締まった。


「オクタヴィア・ヴァルディエ」


 夜明け前の回廊で。

 破綻したばかりの王国の中で。

 フィリクス・グランディスは、やけに静かな声で言った。


「王妃になってくれ、じゃない」


 彼が私の右手を取る。温かくて、剣だこのある、ちゃんと生きている手だった。


「僕が王冠を被る。君は国庫を握れ」


 そこで、私は本当に息を止めた。


「この国の明日を、僕と同じ重さで背負ってほしい」


 もう少し、飾った言い方はいくらでもあったはずだ。


 でも、この人はいま、本当に本音で喋っている。


 それが分かってしまったら、私の方がもうだめだった。


 こんな夜のあとで。

 国が終わって、王が退いて、財務卿が捕まり、私たちはほとんど一睡もしていない。

 それでもこの人は、明日を口にする。

 私と一緒の明日を。


 そんなの、断れるほど私は冷たくない。


「……条件があります」


「いくつでも」


「粉飾禁止」


「もちろん」


「無断出費禁止」


「努力する」


「“努力する”じゃ駄目です」


「じゃあ事前申請制で」


「よろしい」


 私は息を整えた。


「最後に、隠し事禁止です」


 フィリクス殿下は、ほんの少しだけ目を細めた。


「それは、僕にも君にも?」


「ええ」


「難しい条件だ」


「でしょうね」


「でも、受ける」


 その答えに、私は笑ってしまった。


 国が破綻した夜明けに、こんなふうに笑うことになるなんて思わなかった。


「でしたら」


 私は彼の手を握り返した。


「その席、お受けします」


「席?」


「王の隣で、国庫を握る席です」


 彼はゆっくりと、ひどく嬉しそうに笑った。


「それはつまり、断られていないと思っていいのかな」


「まだ“殿下”を外すつもりはありませんけれど」


「手強いな」


「帳簿よりは簡単でしょう」


「比較対象がひどい」


 言い合っているうちに、回廊の向こうが白み始めた。


 長かった夜が終わる。


 破綻した王国の、最初の朝だ。


 でも不思議と、怖くはなかった。


 隣を見ると、フィリクス殿下――たぶんもうすぐ本当に国王になる男が、私を見ていた。


「オクタヴィア」


「はい」


「ひとつ、まだ言ってないことがある」


「なんです?」


「君に渡したいのは、権限だけじゃない」


 私は黙った。


「毎朝、最初に顔を見たい。国庫の話も、予算の話も、くだらない愚痴も、全部いちばん先に君に聞いてほしい」


 夜明けの光が、彼の横顔を少しだけ柔らかくした。


「――国だけじゃない。僕の人生も、一緒に見ていてくれ」


 心臓が、とうに限界を超えていた。


「……それ、口約束では済ませませんよ」


「望むところだ」


「署名させます」


「何枚でも書く」


「取り消しは認めません」


「最初からそのつもりだ」


 ずるい。


 そういうところだ。


 私は頬の熱をごまかすために、わざとため息をついた。


「……とりあえず初回決裁として、今日は4時間寝かせてください」


「承認する」


「朝食は温かいものを」


「手配済み」


「さすが」


「君に国庫を預ける男だからね」


 彼はそう言って、私の手の甲へ軽く口づけた。


 触れた唇は驚くほど静かで、でもちゃんと熱かった。


 私はもう一度だけ笑って、彼と並んで歩き出した。


 放蕩王子の仮面を被っていた男は、たぶんもういない。


 その代わりに今、私の隣にいるのは――


 終わる国の最後に、明日を買い続けた、とびきり有能で、少しだけ不器用で、腹が立つほど顔のいい男だ。


 なら仕方がない。


 その明日の黒字化くらい、私が引き受けてやろうと思う。

 王冠の横で、国庫を握る者として。

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