20.貫き留めぬ、玉ぞ散りける
目を閉じたまま動かない大倉いずみが、担架に乗せられて運び出されている。救急車のけたたましいサイレン音が、閑静なユースホステルの敷地内の静寂を破って、遠くかなたへ消え去っていった。
それからしばらくの後、恭助はいずみの部屋にあった彼女が残した遺書と思われる手紙のコピーを手にしていた。もうすでに中身は確認してある。文章の内容から、それが書かれたのは昨日の夜で、三条が刺された直後であったことが判明した。彼女は、いずれ自分が犯人であるとばれてしまうことを、薄々覚悟していたのかもしれない。
むなしく考え事をしながら、恭助はとぼとぼと歩いていた。すると、目の前にうつむきながら壁にもたれかけている瑠璃垣青葉の姿が見えた。
「もう全てが終わったのね?」
青葉の方から振り向いて、恭助に訊ねてきた。
「うん。多分ね」
と、恭助があっさりと答えた。
「大倉いずみは、持っていた睡眠薬を全部一度に服用したみたいだ。もともと不眠症の気があったんだろう。でも、ひょっとしたら、命は取り留めるかもしれないよ。なにしろ、発見がすぐだったからね」
「そうなの。助かってくれるといいな……」
恭助のなぐさめに、こわばっていた青葉の表情がいくぶんやわらいだ。
「大倉いずみの遺書の写しだ。読んでみるかい?」
そういうと、恭助は青葉にコピーを手渡した。
「いいの、こんなことして? また、お父さんから怒られるんじゃないの?」
青葉は心配そうに恭助を見上げたが、
「かまわないさ。そんなことより、仲間がこうなってしまった理由を知っておく方が、大切だろう」
と、恭助はすんなり否定した。
青葉は大倉の遺書に目を移した。そこには、直筆で書かれた整ったきれいな文字がずっしりと並んでいた。
わたくし、大倉いずみ、はこのような文章をしたためつつも、これを公開することがないことを祈って止みません。なぜならば、この文章が第三者の手に渡った時点で、わたくしの命はすでに尽きているはずだからです。ここまでわたくしを育ててくれた父、母、祖父の方々には本当に申し訳なく思っておりますが、わたくしは自ら犯した過ちを償うために、このような形で責任を取らせていただきます。どうか、先立つ不孝をお許しください。
わたくしの犯した過ち、これからそれを釈明いたしましょう。わたくしは先ほど、三条美由紀を刺してしまいました。三条はわたくしの先輩に当たる人物であるが故に、本来ならば敬称の一つでも付けて表記するのが筋であるのかもしれませんが、わたくしは彼女に対してそのような恩義をなにも抱いておりませんから、三条と呼び捨てのままで彼女を記すことにいたします。
そもそも事の始まりは選手権大会の二日目の朝のことでした(わたくしがこの文章を書いているのが、その日の夜ということになります)。準決勝戦の会場に選手の一人である吉野小夜さんの姿が見えなかったことから、全くの偶然でしたが、わたくしが彼女を呼びにいく羽目になってしまいました。彼女の部屋の前まで行ってみると、鍵が掛けられていて中には入れなかったので、外から扉を叩いて呼んでみました。でも、反応もないので、仕方なく一旦は会場に引き返そうと思ったのですが、どうしてこんなことを思ったのか自分でも不思議なくらいですが、わたくしはこの部屋の鍵を開けて中を確認しなければという強迫観念に襲われてしまいました。
部屋の前で呼んでみたけれど吉野さんは出てきませんでした、と会場に戻って報告をすれば、役立たずね……、と三条から嫌みをいわれてしまいそうな気がしたからです。そこで、フロントまで行って部屋を開けてもらうようにお願いをいたしました。大会の最中の緊急時ですから、同意は簡単にいただけました。そして、従業員の方一人といっしょに吉野さんの部屋に行って、合鍵で扉を開けてもらったのです。
部屋の中は――、思い出したくもない陰惨な光景が広がっていました。畳に飛び散った大量の真っ赤な鮮血が鉄臭いにおいを撒き散らし、その真ん中で吉野小夜さんがうずくまって倒れていました。左の胸に小さな包丁を突き立てていました。わたくしは彼女を見た瞬間に、もう事切れているのを確信いたしました。同行していた従業員の男性の方が、ブルブル震えながら、どうしましょうかと訊ねて来ましたが、わたくしよりもさらに冷静さを失っているように思えました。わたくしは彼にフロントに事態を報告して警察を呼んでくださいとお願いをしました。その時、全くの偶然だったのですが、わたくしは窓の鍵が掛かっていることに気が付きました。わたくしはとっさにその事実を今、同行している従業員に確認させておくことが、なにかとても大切であるような気がして、慌てて、部屋を後にしようとしていた彼を呼びとめて、窓は閉まっていますよね、などとおかしなことを訊ねてしまったのです。彼は一瞬、戸惑うような顔をしましたが、そうですね、と同意してくれて、そのあと駆け足で部屋を出ていきました。
わたくしはその時の対応がすごく変ではなかっただろうかと、何度も自問自答いたしました。吉野さんが声を掛けても部屋から出て来なかったというだけで、部屋を合鍵で開けてもらい、とっさに気付いた部屋の窓の鍵が掛かっているという事実を、同行していた従業員に強制的に確認を求めてしまったのは、なにか意図的で異様な行動であるようにも思いましたが、いまさら撤回することなどできません。そんな中、一人で遺体といっしょに部屋にいるうちに、テーブルの上にリングノートが置かれているのに気付きました。なに気なくわたくしはそれを手に取ると、中を開いてしまったのです。そこには吉野さんが残した最期の文章が書き込まれていました。やはり、彼女は自殺をしていたのです。わたくしは急いでその遺書を読み返してみました。
吉野さんの遺書に書かれていた文面は稚拙で、ところどころ意味がよくわからない部分もありました。でも、大方の意味は次のような事です。この選手権大会に勝つことだけを目指して一生懸命努力してきたのに、昨日の最終戦で手首をひねられて負傷してしまった。その怪我が思いのほか重傷で、このままでは今日行われる予定の準決勝では、とてもまともに戦うことができなくなってしまった。だから、自分はこれで存在意義が否定されたことになるから、自殺をするしかないと……。
今、文章に書いてみても、わたくしには吉野さんの気持ちが完全に理解できません。ただ、はっきりしていることは、彼女は自らの部屋に鍵を掛けたまま、自殺をしてしまったということです。
わたくしは従業員の方に、窓の鍵が掛かっていることを確認させたのは正解だったかもしれないと、この時になってはじめて思いました。なぜなら、吉野さんは、自殺をする時に無意識だったのかもしれませんが、結果的には、誰にも迷惑がかからないよう、部屋の中のありとあらゆる鍵を内側から掛けて、自殺をされたからです。
ところがその時、わたくしの胸の中に、思いもよらない悪魔が忍び込んできたのです。
吉野さんの遺体の前には百人一首の札が並べられていました。それ自体は、競技かるたの選手の控室ならば、通常に見かけられる自然な光景であります。従業員の方が戻ってくるのは、間もなくでしょう。わたくしは、わたくしの計略が執行可能か、冷静にかるたの陣形を眺めてみました。すると、存外あっさりと、わたくしは目的の札をそこに見つけ出すことができたのです。
そうです。弱冠二十一歳にて夭折した藤原義孝が残した、
君がため 惜しかりざりし 命さへ
長くもがなと 思ひけるかな
という歌の下の句の字札です。
わたくしはためらうことなく、その『なかくもかなと おもひけるかな』の札を手に取って、吉野さんの遺体の片方の手に握らせました。そして、吉野さんの遺書をノートから破いて、わたくしのふところにしまい込みました。どうしてそんなことをしたかですって? 目的は平安時代の歌人と同姓同名である藤原義孝(彼についても敬称を付加する意義をわたくしは少しも感じておりません)を殺人犯としておとしめることができるかもしれないと期待したからです。今にして思うと、とっさのこととはいえ、とても浅はかな計略でした。
従業員の方が戻ってくる気配がしました。わたくしはやり残したことがないか、辺りを見まわしました。その時、わたくしはとんでもない手抜かりに気が付くことができました。藤原義孝の札を抜き取ったために、それが置いてあった陣形の札の一箇所に、明らかに不自然な空白ができていたことです。少しでもかるたを志した人物から見れば、吉野さんの手に握られている札が、その陣形の中にぽっかりと空いた空白に置かれていたことを察知することは造作もないことでしょう。
わたくしは必死に手を伸ばして、空札の山から一枚を抜き取って、その札で空白の場所を埋めました。
ちょうどそれが済んだ時に、従業員の方が支配人を連れて戻って来ましたから、自分でいうのも変なのですが、まさに間一髪でした。
そして、わたくしはこの時同時に、あることをとても恐れておりました。それは、戻ってきた従業員の方が吉野さんの手にしている札に気付いて、さらに部屋から出ていく前にはそれを握っていなかった事実を覚えていることでした。でも、わたくしの思惑通り、彼はそこまで気が回るほど冷静な人間ではなかったようです。
なんてひどいことをと、この文を読んだ人は思うかもしれません。でも、不思議なことに、この行為に関しては、わたくしは少しも良心の呵責を感じないのです。藤原義孝は悪魔のような男です。彼も平安時代の歌人であった藤原義孝を彷彿とさせるほどの美青年です。昨年行われた選手権大会中に、彼はわたくしに声を掛けてきました。わたくしは女子高出身で恋愛経験も乏しく、最初は混乱しながらも、徐々に彼の魅力にひき込まれていきました。彼と付き合っている時は、不覚にも、これまでの人生で体験したことのないほどの至福の喜びを堪能しておりましたことを、わたくしはここに正直に告白しておきます。そんな夢のような日々が続く中で、一度わたくしは彼に訊ねたことがあります。わたくしといっしょにいる三条美由紀は、通常の男性の視点で判断すれば、わたくしよりも遥かに美しい容姿をしており、無口なわたくしよりも魅力的な女性に思います。なぜ、三条ではなくてわたくしを好きだといってくれるのかと……。すると、藤原は、三条みたいなわがままで自己主張の強い女に関心はない。それに比べて、君には清らかさで純真な品格がある。とても比較できるものではないよ、とわたくしが三条よりも優れていると褒めてくれたのです。その夜、わたくしはそれまでの人生で守り通してきたものを、彼に提供いたしました。それからも数回、わたくしは彼が望む度に、素直に応じました。わたくしは妊娠だけはしたくないと藤原に要望を出したのですが、彼は己の快楽を優先しながらわたくしを抱き続けてくるので、わたくしはそれが心配でした。やがて私の心配は現実となり、わたくしは身ごもってしまったのです。それを知った藤原は、お互いに学生同士で先行きが読めないから、とりあえず今回は子供を下ろしてくれないかと懇願してきました。中絶した後には、二人の卒業を待って、しっかりと責任を取ると、いってくれたので、わたくしはわたくしの家族にも一言も告げずにこっそりと治療を受診したのです。藤原にはお金がないということで、費用も全部自分で負担いたしました。もちろん、このことを親に相談することもできませんでした。
ところが、わたくしが中絶したと藤原に報告してから、彼はぱったりとわたくしと会ってはくれなくなりました。
やすらはで 寝なましものを 小夜更けて
かたぶくまでの 月を見しかな
という赤染衛門の歌のような生活が、しばらく続いて、やがて我慢できなくなったわたくしは、彼の行先に直接出向いて、どういう心境なのかを訊ねました。その返答は驚くべき物でした。彼はいいました。収集した女には関心がなくなってしまうんだ、と――。だから君との付き合いも、もうこれでおしまいだ、とそうわたくしに告げたのです。わたくしはすぐには意味がわからずに、もう一度訊き返しましたが、収集するとは文字通り自分の女にすることで、それが達成できれば用済みなんだ、と彼は繰り返しました。あとで冷静になって考えてみて、ようやくわたくしは理解することができました。彼の主張をいいかえると、わたくしを妊娠させたことでわたくしを収集できたという達成感を得たから、もうわたくしに興味はない、などという、人道にあるまじき彼独自の哲学を、わたくしに展開したのです。さらに、わたくしと逢瀬を重ねている最中にも、彼は別の女性を手籠めにしており、あげくの果てには、わたくしに、君も十分に楽しめただろう、君の程度の魅力では僕レベルの男性と恋愛を楽しめるなんてことは、生涯無理であろうところを、無料で楽しませてやったのだから、むしろ僕の方が感謝されたいくらいだね、と平然といい放ったのです。
でも、わたくしは、所詮は意気地のない弱い人間です。これほどの屈辱を受けても泣き寝入りするしかありませんでした。この時のわたくしの気持ちは、百人一首の中で式子内親王が詠んだ、
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする
の歌そのものでした。でも、式子内親王のこの歌には、藤原定家からの、
思ふこと むなしき夢の 中空に
絶ゆとも絶ゆな つらき玉の緒
(人を想うことは、虚しい夢のごとく、中途で終わってしまうものかもしれません。忍ぶことを貫き通すのもとても辛いことなのでしょう。でも、どうか、絶えてしまうなんていわないでください。私の愛しい玉の緒よ)
という優しい歌が返されているのですが、わたくしの場合はそうではなく、わたくしはいつも孤独でした。
そんな中、偶然とはいえ、吉野さんの自殺を目の当たりにするという羽目に会って、あの悪魔に復讐ができる千載一遇の機会だと思い、悪いこととは思いつつも、ためらうことなく、あんな恐ろしい行為を実行することができてしまいました。でも、わたくしはその行為について、少しも後悔はいたしませんでした。上手くいけば、わたくしに災難が降りかかることはなかろうとも、自負しておりました。そう考えると、従業員の方に吉野さんの部屋の窓の鍵を確認させたことは、結果的に、わたくしにとって極めて都合が良かったことのように思われました。吉野さんには多少申し訳なかったと思うこともありますが、吉野さん自身も藤原義孝に個人的な怨みを抱きつつ自害されたのですから、誰にも迷惑を掛けずに、藤原義孝だけに社会的な(彼にとっては些細なことでしょうけれども)制裁を与えることができるわたくしのささやかな行為を、空の上から彼女はきっと許してくれているだろうと思います。警察の取り調べはあろうとも、現場が密室である以上は、警察も自殺であることを否定することはできないでしょう。当然、そうなると、本人が握っている札は、自殺の大きな理由を示すメッセージとなり、藤原義孝に世間の注目が集まることは目に見えているからです。
こうして、わたくしのかわいい悪戯は全てが順調に済んだように思えました。ところが、わたくしはこの後で些細なミスを冒してしまいます。それは、わたくしが持ち去った吉野さんの遺書を、わたくしは処分することもせずに、うっかりとわたくしの宿泊室の机の引き出しの中にしまい込んでしまったことです。というのも、稚拙な文章であったとはいえ、一人の女性が最後のメッセージをしたためた文章ですから、簡単に捨ててしまうのは忍びないと考えたからですが、同時にそれは極めて危険な選択でもあったのです。
わたくしが隠した吉野さんの遺書は、三条美由紀にあっさりと見つけ出されてしまったのです。三条はわたくしの部屋にも断りなしに入って込んでくるし、わたくしがちょっと外に出ている隙に、わたくしの部屋の中を勝手にあさるという、手癖の悪さも持ち合わせていました。わたくしが三条を部屋に入れたまま、席を外している間に、三条はなに気なく机の引き出しを開けて、吉野さんの遺書をあっさり見つけ出してしまいました。彼女はそのままわたくしが戻った時にはそのことを黙っていて、一旦は自室に戻り、夜になって(つまりつい先ほどの出来事ということになります、わたくしが今この文章を書いている時刻が午後十時二十分を回ったところだからです)わたくしを彼女の部屋の前まで呼び出して、そこでわたくしを凌辱し始めたのです。見てもらえばわかりますが、三条の部屋はこの建物の二階の一番奥に当たり、談話ができるスペースがありますが、今日はそこには人気が全くありませんでした。だから、密かな会話をすることもできたのです。三条の凌辱、それ自体は日常茶飯事の事で、わたくしはいつものように攻撃を受けつつも冷静さを保ちながら耐えておりました。三条はわたくしを罵ることでいつもストレスの解消していました。ところが、今日のいじめはいつにも増して意地の悪いものだったのです。彼女はまず用意していた吉野さん遺書を取り出して、わたくしの目の前に提示しました。これにはさすがのわたくしも混乱をいたました。三条は頭の回転が速い人です。すぐにわたくしが藤原義孝をおとしめようとした行動を察知してしまったのです。彼女はわたくしを脅迫し始めました。といっても、普段からわたくしのことを支配している三条ですから、今さら上下関係を強めようとしているのではありません。面白いおもちゃを見つけて、楽しくて仕方がない、とでもいったような感じでした。やがて、なぜわたくしが藤原に悪意を持っているのかという話になり、わたくしは藤原との関係を三条に打ち明けてしまったのです。
するとどうでしょう。突然、三条は天狗のように笑い出したのです。カラカラと、本当に薄気味の悪い、この世の者とは思えぬ笑い方でした。そして、その後でこう告げました。
「あんたって、つくづく馬鹿な女ね。藤原君は私とずっと前から付き合っているのよ。あんたと私とじゃ、女性としても魅力も能力も全てが雲泥の差よね。それに、私はあんたみたいに藤原君のいいなりにはならないけど、あんたは濡れ雑巾のように扱われて予定通りに捨てられたってわけね。あはは。でも薄汚い溝鼠の割には、彼と何度も寝ていたなんて……、さすがに、寛容な私でも今回は赦さないわよ。この吉野って子の遺書は警察に突き出してやるから、せいぜい覚悟して震えていらっしゃい」と、膝まづくわたくしの頭上から平然といい放ったのです。
もうわたくしは平静を保つことができませんでした。ふと壁を見ると、飾り用の大きな小刀が手の届くところに飾ってありました。三条は背中を向けて、自室に戻ろうとしていました。わたくしは急いで小刀を手に取ると、そのまま身体ごと三条の背中に向かってぶつかりました。三条の背中に刃がくい込む時のあの痛快な感触は今でもこの両手に心地よく残っております。三条はびっくりして振り向きました。彼女の背中には小刀が深く突き刺ささったままでした。すると、三条はわたくしの想像を上回る素早い動きで、自室に飛び込むと、扉を閉めて、中から鍵を掛けてしまったのです。わたくしは慌てて扉を開けようと試みましたが、すでに時遅しでした。三条にとどめが刺せなかったことが本当に悔やまれます。わたくしはなすすべなく、その場を去って、この部屋に戻りました。
三条が警察に連絡をすれば、わたくしは逮捕されてしまうことでしょう。ですから、わたくしは少なくともわたくしの行為が、法律上は犯罪であると認識されようとも、倫理上からは十分に正当化される行為であったことを、少しでも多くの人々に知ってもらいたく、この様な文章をしたためております。もとより、こうなった以上、わたくしはもはや自分の命に執着はありません。でも、わたくしが単なる悪人扱いをされたまま事件が忘れ去られ、三条と藤原の二人の悪魔がのうのうと社会生活を営んでいくことだけは耐え難いものがあります。
わたくしはこうして、この文章(これがわたくしの遺書ということになってしまいますよね)を準備いたしましたが、この文章を公開しないで済ませられれば、そうなってもらいたいという、密やかな望みを未だに持ち続けております。三条がなんらかの理由で私を赦し、警察に通報するのを止めるなど――。ああ、でも、考えれば考えるほど、そんな身勝手な夢など、とても実現しないような気がいたします。
白露に 風の吹きしく 秋の野は
つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
文屋朝康 (第三十七番)
この歌は百人一首の中でもわたくしが特に好きな一首です。わたくしのようなつまらぬ人間でも、死んでしまう時には、一瞬、玉がパッと散るような美しい姿を見せられるのかもしれません。天網恢恢疎にして漏らさずという故事のごとく、たとえ、わたくしがみじめに死んでしまっても、必ずや真の悪人たちにも制裁が回ってくるよう、きっと神様は見守ってくださるはずだと、わたくしは、この期に及んでも、強く信じております。
大倉いずみ
読み終えた青葉は、涙を眼に浮かべながら、小さな声でつぶやいた。
「いったい、大倉さんがなにを求めていたのか、私にはちっともわからないわ。
一瞬にして消え去ってしまう束の間の華やかさだけを追って、人は生きなければならないのかしら。もっといろいろな選択があると思うのに……」
肩を落とす青葉を横目に、恭助がそっと付け加えた。
「それを選択するのも、その人の自由なのさ。平凡に長生きするのも、一瞬の輝きを追い求めて華々しく散っていくのもね。
誰にもそいつを止める権利なんて、ありはしないのさ……」
この章を持ちまして、如月恭助ミステリーシリーズ第4弾、小倉百人一首殺人事件、は完了です。長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。
この小説を書くにあたり参考にさせていただいた文献およびHPを、以下に挙げさせていただきます。
百人一首入門 有吉保
百人一首の作者たち 目崎徳衛
百人一首の謎 織田正吉
百人一首の秘密 林直道
ちはやふる 末次由紀
うた恋い 杉田圭
Wikipedia
扶桑
かるたらいふ
百人一首 あら・か・る・た
小倉百人一首の散策
百人一首の風景
千人万首
やまとうた
追記
高田崇史氏が書いたミステリー『QED 百人一首の呪』の中で、高田氏は、林直道氏の歌織物のように、同じ言葉を持つ歌でつないでいって、百人一首の百首の歌で『曼陀羅』の構成を試みています。その高田氏の曼陀羅の中では、当小説の一〇章で、歌織物の一部の並び方に青葉が不満をもらしていますが、それらがほぼすべて解消されていて、とても興味深い説となっています。




