第一章 第一話
——今宵は、大きく荒れそうだ。
風が唸り、木々がざわめき、嵐を孕んだ空気が山を包んでいた。
どんよりと重苦しい灰色の雲に覆われる黄昏時の空を見上げながら、薬心寺の副住職 妙弦は人知れず呟いた。
山奥の寺ゆえ、足腰の弱い老人が多いこの村では、普段は用もなく、わざわざ傾斜が厳しい山道を登って、寺に参る訪客は少ない。況してや、こんな嵐の前であれば、殊更、足を運びに来る者などいない。
だが不思議なことに、ここ薬心寺では、山の天気が崩れる日に限って、訪客が増える傾向にあった。
トン、トン、トン……
今日もまた、例外ではない。
すでに寺門を閉めたというに、また一人、当寺の脇戸を叩く音がした。
「はい、はい。どちら様で」
ギギギと軋音が立てながら脇戸を開くと、そこに佇んでいたのは、白い御高祖頭巾を被った一人の比丘尼。錫杖を持つ手と雰囲気から、おそらく若人なのだろうが、頭巾を目深に被っており、表情が見えない。
「もし」
「え」
女、にしてはやけに低い声に、妙弦は思わず言葉に詰まった。よく見れば、上背も五尺半ほど。背が低い男性のそれと同じくらいだ。
(男性……なのか?)
尼僧の格好をしている故、てっきり女と思い込んでいたが、改めて全身を見渡せば、男なのか女なのか分からなくなってきた。
「い、いかがされましたかな」
戸惑いを隠すように、妙弦は要件を尋ねる。
「一晩、寝床を貸しては頂けませんか?」
同じ理由で訪ねてきたのは、これで六人目。
天気が崩れやすい峠で雨を凌げる場所など、ここ以外にはない。雨が降れば、地盤も緩みやすい。
故に、天気が崩れる日は、旅人や修験者等の訪客が必ずと言っていいほどやってくる。
この尼僧も、荷物を何も持って来ていないところを見ると、おそらく近くからこの山に入り、今日中に峠を往復して戻る予定だったのだろう。
「もちろん、構いません。さあさ、どうぞ中へ」
絹山村を囲う山々の一座――厳かに、されど堂々と佇むこの薬心寺は、建立百年を越える由緒ある郷寺。
村にある唯一の寺社であり、村民達は皆、この寺の檀家。故に、細々と長きにわたって、その歴史を未だ刻み続けられている村民達の恩に報いるため、如何なる訪客であっても「受け入れる」というのが、現住職の意向だった。
「随分と、趣きあるお寺ですね」
荘厳たる建物を前に、比丘尼は足を止めた。
その拍子に、チリンと一度、錫杖の遊環の音が鳴ると、それに呼応するかのように、建物全体が身じろぐように軋み、重い音が境内へ響き渡った。
「創立百年以上の建物で、さすがに老朽化も進みます故、今宵雨漏りなどしなければ良いのですが……」
「建物が大きいと、きっと手入れも大変でしょう」
「前身の宗玄寺というお寺を改築し、今の薬心寺を建てたようなのですが、前の寺社が元々規模が大きくてですね。これでも、建物は小さくなった方なのです」
「左様、で」
案内がてら軽く境内を散策した後、二人は寺の玄関に向かった。
「今日は、どちらから?」
「今朝、この村を出る予定だったのですが、ちょいと野暮用があって出立が遅れてしまいまして。本来は峠を越えて隣町で宿泊予定だったところ。面目ありません」
「お天道様はいつも気まぐれでいらっしゃる故。どうぞ」
「おや」
敷居を跨ぐや、真っ先に比丘尼の目に付いたのは、並んでいる靴の多さ。玄関の半分が埋もれるほどで、中には子供用の草履も。比丘尼はここで初めて、自分以外にも客人がいるのだと知った。
「妙順! いませんか? 妙順!」
妙弦が少し大きな声で誰かを呼ぶと、遠くの方から大きくも小さな返事が返って来ると共に、パタパタと忙しない足音が徐々に近付いてきた。
「はいはい」
中から出てきたのは、作務衣を着た小柄な中年男性。妙順と呼ばれるその男性は、妙弦の隣に佇む比丘尼を見るなり、ギョッと目を丸くして驚いたような顔を見せた。
「あれ。またお客様ですかい」
すでに来ている客人も、おそらくこの男性が相手しているのだろう。察したように、すぐに「もう一つお布団を用意せねばなりませんね」と言葉が出てきた。
「今夜お泊りになるので、本堂にご案内を」
「お世話になります」
静々と比丘尼が頭を下げると、「これはご丁寧に」と妙順も合わせるように礼を返した。
「私はこの寺の事務や補佐をしております、役僧 妙順と申します。なにか分からないことや困ったことがあれば、なんでもお申し付けを」
「痛み入ります」
「比丘尼さんですかい? 失礼ですが、お名前は?」
「九羅、とお呼び下さい」
「九羅さんね。ご案内しますんで、どうぞ靴を脱いでこちらへ」
九羅を預け、中へ入って行くのを見届けた後、妙弦は再び寺門の方へと戻った。
「そういえば、妙順に比丘尼かどうか確認された時、否定されなかったが……九羅さんはやはり、女性……?」
本人に直接尋ねるにも、なんとなく遠慮してしまって機会を逸してしまった。
——なんとも、奇妙なお方だ。
判然とせず歯痒い疑問に、妙弦はただただ首を傾げた。




