01 ミリゼ・ドグナハイト
ミリゼ・ドグナハイト。
それは、かつての彼女の本名であった。
「おい、何してんだ。さっさと掃除しろ! 本当に遅いな。だから奴隷は使えねぇんだよ。」
(……また始まった。)
家主は気性が荒かった。仕事で溜め込んだ苛立ちを、家へ帰ると決まって彼女へぶつける。
掃除はできる限り丁寧にしている。それでも「汚い」「手を抜くな」と怒鳴られる。
奴隷として売られる前と何も変わらない。
(お腹が空いた。今日もろくに食べていない。
どうして私が、こんな目に遭わなければならないのだろう。
どうして毎日、罵られ続けなければならないのだろう。)
「申し訳ございません。直ちに取り掛かります。」
反論したい気持ちを堪え、彼女は深く頭を下げた。
大きな瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいる。
毎日が同じことの繰り返しだった。
きっと、この生活から逃げ出すことはできない。
奴隷は殺されてもおかしくない身分だ。
そう考えれば、自分はまだ恵まれているのかもしれない。
彼女は、かつてレグナム王国の公爵令嬢だった。
名を、ミリゼ・ドグナハイトという。
しかし、生まれつき魔力が極端に少なく、さらにドグナハイト家の第三夫人の子であったことから家族に虐げられ、ついには奴隷へと身を落とした。
公爵令嬢としての地位だけでなく、「ミリゼ・ドグナハイト」という名さえ奪われた。
ある日、奴隷市場で今の家主に買われた。
雑用をさせるのにちょうどいい――ただそれだけの理由だった。
他の奴隷たちは虐待や餓死、病気によって次々と命を落としていく。
少女が今も生きていること自体、奇跡だった。
少女は家主の命令どおり、雑巾で床を懸命に磨いた。
さらに、遠くの井戸まで水を汲みに向かう。
家主は、自分の家のものを触られることを極端に嫌っていたからだ。
ろくに食事も与えられていない身体には、その重労働はあまりにも酷だった。
重いバケツを抱えた足がもつれる。
空腹で力の入らない脚は踏ん張ることができず、そのまま地面へ倒れ込んだ。
頭に鈍い痛みが走る。
地面へ広がっていく水をぼんやり見つめながら、少女の意識はゆっくりと闇へ沈んでいく。
倒れて意識を失った少女の脳裏に、幼い頃の記憶がよみがえった。
侮辱、 罵倒、 虐待。
ミリゼにとって、それらは特別な出来事ではない。
日常であった。
幼い頃から兄や姉と比較され、些細な失敗で家庭教師に叱責され、時には殴られた。
魔力は誰よりも少なかった。
それでも、容姿だけは幼い頃からドグナハイト家の中で群を抜いて美しかった。
その美しさが、姉や家庭教師の嫉妬を招いた。
ミリゼは物心がつく前から両親との接触を禁じられ、乳母や召使いに頼ることさえ許されなかった。
孤独に耐えきれなかった幼い彼女は、両親の気を引こうと癇癪を起こすこともあった。
「ミリゼ。いけませんよ。あなたは強く言える立場ではありません。わがままを言ってはなりません。」
母親との数少ない会話でさえ、内容は決まって注意や叱責ばかりだった。
愛情を向けられた記憶など、一度もない。
特に父親の扱いは酷かった。
兄や姉よりも優れた容姿を持つミリゼを快く思わず、唯一劣っている魔力量だけを執拗に責め立てた。
何か失敗するたびに、その欠点を理由として虐げる。
そこに家族の情など存在しなかった。
ミリゼは、公爵家の娘でありながら奴隷同然の生活を送っていた。
雪が降り始め、寒さが一段と厳しくなったある日。
ミリゼが公爵令嬢の身分を剥奪されるきっかけとなる事件が起こる。
ドグナハイト家の財宝が盗まれたのだ。
そして疑いの矛先は、真っ先にミリゼへ向けられた。
「ミリゼがやったに違いありません! わたくし、この目でミリゼが盗むところを見ました! お金がないから財宝を売り払ったのでしょう。本当に卑しい人ですこと!」
姉は勝ち誇った笑みを浮かべる。
以前からミリゼを目障りに思っていた彼女は、嬉々として罪を着せた。
(違う……。わたしじゃない……。わたしは財宝の在り処なんて知らない……!)
周囲の視線が一斉に突き刺さる。
助けてくれる人はいない。
擁護する声も上がらない。
誰もが、ミリゼを快く思っていなかったからだ。
恐怖が全身を支配する。
否定したい。
それなのに、声は喉につかえたまま、一言も出てこなかった。
初投稿です。頑張って書きました。楽しんで読んでいただけると幸いです!




