第四節 老臣の叱責、操り人形の涙
人は、悲しいから泣くのではない。
魂の器に溜まった過剰な澱を、眼球の端から排出することで、個体としての平衡を保とうとする――それは逃れられぬ肉体の業というべき生理現象に過ぎない。
だが、その不随意な反応も、時と場所を誤れば致命的な「隙」となる。特に、権力という魔物が棲む巣窟においては。
呉郡の政庁。
その広間は、白い喪服の海となっていた。
数百の家臣たちがひれ伏し、一様に慟哭している。その声は、湿った江東の空気に反響し、腑を揺さぶる不快な羽虫の羽音となって空間を埋め尽くしていた。
孫策という英雄の死を真に悼む者。明日からの地位を案じて泣き真似をする者。あるいは、周囲の熱に浮かされて涙腺を緩めるだけの者。
その中心で、孫権はひとり、幼児のように声を上げていた。
祭壇の前のむしろに座り込み、肩を震わせる。涙が止まらないのは、悲嘆というよりは拒絶反応であった。兄という巨大な重石が突然消えたことで、孫権という器の重心が崩れ、中身がとめどなく溢れ出しているのだ。
視界が滲む。ただ、怖い。
自分を取り囲む大人たちが、涙を流しながら、隙あらば自分を値踏みしようと送ってくる視線の鋭さが、怖くてたまらない。誰か、助けてくれ。誰か、僕を隠してくれ。
その時、白い海が割れた。
一人の男が、大股で歩み寄ってきた。その顔は古い墓石のように硬く、乾燥していた。
張昭、子布。
江東の行政機構を泥の中から練り上げ、その骨組みを作った設計者である。
張昭の乾いた眼窩に映っているのは、目の前の若者の悲嘆ではない。彼は孫権を「人間」としては見ていない。崩壊しつつある呉という構造を繋ぎ止めるための、代替可能な「機能」として見ているのだ。その瞳の奥には、主を失った恐怖を強引に圧し殺した、狂気にも似た忠誠の火が宿っていた。
「……いつまで」
張昭の声は低かったが、慟哭のざわめきを切り裂く冷たい刃であった。
「いつまで、地べたの湿り気を吸っておられるのですか。あなたが流すべきは女のような涙ではなく、この地を固めるための血であるはずだ」
孫権はビクリと震え、濡れた顔を上げた。
張昭の目は語っていた。――汚い、と。
涙と鼻水にまみれた新しい主君の顔を、この潔癖な老人は、効率の悪い不良品を見るような目で見下ろしていた。
「あ、張昭どの……僕は……」
「お立ちなさい!」
雷鳴の如き一喝。広間の泣き声が、凍りついたように止まった。
張昭は、孫権の返答など待たず、その腕を掴んで強引に引き立たせた。老体とは思えぬ、しかしどこか震えている指の力が、孫権の二の腕に食い込む。
「今は平時ではありません。豺狼が門前に迫り、内には日和見の徒が満ちている。孝廉に推挙されたあなたが、民草と同じように泥を捏ねて泣き喚くなど、見っともないにも程がある!」
それは、役に立たない駄犬を鞭打つような、苛烈な暴力性を孕んだ叱責であった。
「着替えなさい。喪服を脱ぎ、軍装になられよ。そして馬に乗り、軍営を巡視するのです。それが主君としての威儀であり、死者への最大の供養である」
「え……? 喪の最中に……?」
孫権が絶句すると、張昭は鼻で笑った。
「礼とは、生きている者のためにある。死んだ兄君のために、生きた呉を殺すおつもりか」
数刻後。
孫権は、練兵場の真ん中に立たされていた。
白い麻の服は剥ぎ取られ、冷たく重い鉄の鎧を身に着けさせられている。
体感重量が倍になった気がした。五月の陽光が、容赦なく照りつける。鎧の中で、冷や汗が背中を伝う感触が、腐った湿気のようにへばりついて気持ち悪い。
目の前には、巨大な軍馬がいた。
「乗りなさい」
張昭が言った。彼は自ら馬の手綱を握り、孫権に鐙を踏ませるよう促した。臣下が主君の馬の口を取る。それは最大の敬意を示す形であったが、孫権にとっては真逆の意味を持っていた。
(据え付けられている)
孫権は、自分の意志ではなく、張昭の手によって鞍の上に「供物」として載せられたと感じた。
視界が高くなる。整列した数千の兵士たちの歓声が地響きとなって押し寄せた。
「孫将軍、万歳! 万歳!」
槍が掲げられ、銅鑼が鳴らされる。その熱狂の渦の中で、孫権はひとり、断崖絶壁に立たされたような孤独を感じていた。
兵士たちは、自分を見ているのではない。馬の手綱を引く張昭と、その背後に控える周瑜や程普といった重鎮たちの「盤石さ」に安堵しているだけなのだ。
自分は神輿だ。担ぎ手が「右へ行け」と言えば右へ行き、「左へ行け」と言えば左へ行く。自分の足で歩くことすら許されない、華やかな傀儡。
「……胸を張りなさい」
馬の横を歩みながら、張昭が小声で囁いた。その声は、腹話術師が木偶を操るような、冷たい響きを持っていた。
「あなたが弱気な顔を見せれば、兵が動揺します。堂々としておられよ。それが、今のあなたの『仕事』です」
仕事。そうか、これは仕事なのか。
君主として振る舞うこと。それは、魂を持った人間の営みではなく、与えられた役割を演じるだけの労働。
孫権の目から、再び涙が溢れそうになった。
だが、今度は泣かなかった。張昭という老臣に対する、どす黒い屈辱が、涙を蒸発させたのだ。
(この老人は、僕を支配しているつもりだ)
孫権は、兜のひさしの下から、張昭の白髪混じりの頭を見下ろした。
この頑迷な老人は、呉という国を自分の「作品」だと思っている。孫策という荒削りな素材が消えた今、孫権という扱いやすい素材を使い、自分の理想とする国を鋳造しようとしているのだ。そこには、孫権個人の人格など存在しない。ただの、印を押すための手。玉座に座るための尻。それだけがあればいいのだ。
(ならば、乗ってやろう)
孫権は、馬の背で小さく息を吐いた。
今は、人形になろう。お前たちが望む通り、操り糸に引かれて手足を動かし、口をパクパクさせる木偶になってやる。だが、覚えておけ。
いつかその糸を食いちぎり、担ぎ手であるお前たちの喉笛に、この汚い涙でふやけた歯で食らいついてやる。
「……あちらへ」
孫権は、あえて張昭が向かおうとした方向とは逆に、指を差した。
「あちらの隊列も、見て回りたい」
張昭が一瞬、怪訝な顔をして見上げた。しかし、公衆の面前で主君の命を無下にはできない。
「……御意」
張昭は、しぶしぶといった体で馬の向きを変えた。
わずかな、抵抗。しかし、孫権にとっては、それが精一杯の「自我」の証明であった。
軍馬の蹄が、乾いた音を立てて土を叩く。その振動が、孫権の尻を通して全身に伝わる。涙はもう乾いていた。代わりに、顔に張り付いたのは、能面のような無表情であった。
江東の湿った風が吹き抜ける。その風の中に、孫権は、これから始まる長い長い「忍従」の季節の臭いを嗅ぎ取っていた。泥の中で、蓮の花が咲くのをじっと待つような、陰鬱で、しかし強靭な忍耐の日々。
十九歳の青年は、この瞬間、権力の毒を喰らう老獪な政治生物としての第一歩を、他人の足によって踏み出したのである。




