第五節 這い回る蛇
血という液体は、不可解な性質を持っている。
体内を循環しているうちは生命を繋ぐ聖なる雫だが、ひとたび皮膚の外へこぼれ落ちれば、それは急速に酸化し、鉄錆の臭いを放つ汚物へと成り下がる。
そして、政治という巨大な食肉獣にとって、血は時として最も安上がりで、最も効果的な洗浄液となる。
建安九年(西暦二〇四年)の暮れ。
丹陽の地では、大規模な「間引き」が敢行されていた。
表向きの理由は、孫翊暗殺事件の事後処理である。実行犯の一族郎党が処刑されるのは当然の法理だが、孫権が朱を入れた処刑目録には、事件とは無関係な名前が数百も連なっていた。
かつての日和見の土豪、納税を渋る地方官、そして孫権の差配に難癖をつける、四大名家の末端に連なる知者たち。
「警備の不備」「監督不行き届き」「叛逆者との内通」
罪状など、叩けばいくらでも出る埃のようなものだ。
重要なのは、弟の死という悲劇が、孫権にとっては至高の便になったという事実だった。世の同情が集まっている今なら、多少の強権を振るっても「若き主君は悲しみのあまり、理を失われたのだ」という免罪符が通用する。
処刑場は連日、フル稼働していた。
首を斬る鈍い衝撃音と、獣のような絶叫が、江東の湿った空気に重く吸い込まれていく。
孫権は執務室で、その報告書を淡々と処理していた。
重石が取れたのだ。
兄・孫策という巨大な太陽の光も、弟・孫翊という熱すぎる紛い物も、もうない。邪魔な光源が消えたことで、孫権という「影」は、ようやくその輪郭を自在に広げることができるようになった。
(ああ、なんと呼吸のしやすいことか)
孫権は、窓から入り込むカビ臭い風を胸いっぱいに吸い込んだ。肺胞の一つ一つが、冷たい歓喜に震えている。血の匂いは気にならない。むしろそれは、自らのテリトリーを示すマーキングの臭いのように、心地よくすら感じられた。
粛清の嵐が過ぎ去った夜。孫権は一人の男を私室に招いた。
周瑜、字は公瑾。
この端麗なる皮相の下には、不協和音を許さぬ音楽的な狂気と、戦場という五線譜に死の音律を刻み込む、冷徹極まる計算機が秘められている。
「……お呼びでしょうか、我が君」
周瑜が拱手した。その瞳の奥には、今もまだ、若くして散った英雄の残像が焼き付いている。
孫権は上座から降り、周瑜の目の前でどかりと胡座をかいた。礼法も主従の別も投げ捨てた、泥にまみれた若者の姿だ。
「公瑾。……座れ。堅苦しいのはなしだ」
二人の間に、粘度の高い沈黙が流れた。互いの臓物の色を探り合うような、暗い静寂だ。
「見たか。あの死体の山を」
「……はい。いささか、手際が良すぎるとも感じましたが」
周瑜の声には、微かな皮肉が混じっていた。弟の死を奇貨として政敵を消したことを、この男が見抜けないはずがない。
「軽蔑するか?」
「まさか。……乱世には、乱世の掃除法がございます」
周瑜は美しく微笑んだ。だが、その目は笑っていない。
「公瑾、正直に言おう。……僕には、兄上のような武はない。弟のような、人を惹きつける華もない。天賦の威? そんなものは、母上の腹の中に置き忘れてきたようだ」
孫権は、自らの胸を拳で叩いた。
「ここにあるのは、嫉妬と、猜疑心と、生き汚い保身の欲求だけだ。……僕は虎ではない。あんな風に、格好良く吠えることも、敵を噛み殺すこともできない」
そこで言葉を切り、孫権は身を乗り出した。碧い瞳の瞳孔が、至近距離で爬虫類のように縦に収縮する。
「だがな、公瑾。……このドロドロとした江東の泥水を啜ってでも生きる覚悟だけはできた。名家という名の底なし沼でも、泥の中を這い回る蛇なら、息ができる。僕は毒を溜め込む。時間をかけて、ゆっくりと敵の体内に毒を回し、内側から溶かしてやる。……公瑾、お前は天才だ。兄上という旋律を失って、その才能は行き場を失っているのではないか?」
図星だった。周瑜の端麗な顔が、一瞬だけ強張る。
「僕を使え。僕という神輿は、担げば肩に食い込むし、座り心地も悪いだろう。……だが、決して折れない。どんな汚い手を使ってでも、お前が描く天下という絵図を実現するまで、僕は生き残ってやる」
周瑜は、目の前の若者を凝視した。そこにいるのは英雄ではない。醜悪なまでに生存に特化した、新しい種類の生物だ。
(……面白い。この不協和音こそが、今の江東には必要なのかもしれぬ)
周瑜の唇が、自然と弧を描いた。
「……承知いたしました。泥水を啜りましょう。この周公瑾、泥にまみれて音律を刻むのも、また一興かと」
周瑜が去った後、孫権は兄の形見である「古錠刀」を手に取った。ずしりと重い。それは歴代の孫家が背負ってきた「武の呪縛」の重量だった。
(……もう、いい)
孫権は剣を鞘に戻し、飾り台の奥へと押しやった。これからは、自ら前線に出て剣を振るうことなどない。
代わりに孫権が手にしたのは、机の上に置かれた一束の竹簡であった。
そこには、江東の名家たちの弱み、隠し財産、裏帳簿の在り処が事細かに記されている。一族の誇りという皮を剥ぎ、その下にある浅ましい私欲の血管を握りつぶすための、言わば「魂の目録」。これこそが、孫権の新しい「剣」なのだ。
竹簡を握りしめる感触。それは剣の柄よりも手に馴染み、指先から冷たい毒が染み出してくるような背徳的な快感をもたらした。
顧、陸、朱、張。
あの傲慢な名家たちの首に見えない鎖を巻き付け、締め上げてやる。僕の足元にひれ伏させてやる。
孫権の顔に、笑みが浮かんだ。それはもはや人間の表情筋が生み出すものではなく、脱皮を終えた蛇が新しい鱗をぎらつかせ、獲物の前で舌なめずりをするような、生理的な反応であった。
外では、雨が降り始めていた。シトシトと、絶え間なく降り注ぐ雨音が、江東の広大な湿地帯を濡らしていく。
その湿気の中で、冷徹なる治世者は、深く、静かに息を吸い込んだ。
「……さあ、始めようか」
呟きは闇に溶けた。
孫権という名の蛇が、長く重い胴体を引きずり、歴史という名の泥沼を這い始めた瞬間であった。




