086_永禄八年(1565年) 畿内争乱
長政の心うちに構うことなく、時代は着々と歩みを進める。小谷の山々が雪解けを迎え、また新たに春を迎えた五月。
長政の元には新たに二つの急報が届き、長政を、そして評定の間に集まる浅井家の者たちを思い悩ませることとなっていた。
一つは八重の率いる夜鷹隊からもたらされた、ある衝撃的な事件について――征夷大将軍、足利義輝の暗殺を知らせるものだった。
後に永禄の変として知られるこの歴史的事件を、長政はついに当事者として迎えることとなったのだった。
「馬鹿な、御家来衆もおられたはず! 何故義輝公が討たれねばならんのだ……!」
神妙な面持ちの長政から一連の顛末を聞いた浅井政澄は、狼狽えるように唇を噛む。義輝は大名や名家のみならず、民にも慕われる将軍であった。
政澄もまた、そうした者たちの一人であったのだろう。震える指先にはぐっと力が込められ、視線も右往左往としていた。
征夷大将軍、足利義輝の弑虐。その発端は、義輝の持つこの求心力にあったのかもしれない。
三好長慶亡き後、畿内の政治情勢は大きな変動を迎えていた。
足利義輝は長慶亡き後の三好を中央から排除するため、六角や上杉と言った将軍家配下の者たちに上洛の激を飛ばし、足利の天下を取り戻そうと画策していた。
また元々鉄砲に関心が強かった義輝の元には、大友家から献上された火薬の製造方法が伝わっていたり、国友を含む各地に造らせた鉄砲が揃っていたりと、一度決起すれば相応の軍事力を手にするだろうことが予想されていた。
そんな義輝の動きに呼応するように、近年では将軍家に忠義を見せる大名も増えつつあり、三好にとってはその存在が不都合になりつつあったのだ。
或いは一時的とは言え京から三好を追い払った六角や、将軍家のため三好の軍を前に一人で躍り出た長政の話は都でも噂となるほどで、そんな諸大名の動きに焦りを抱いたのかもしれない。
とにかく三好は六角が動けない今という時を狙って、義輝に禅譲を迫る御所巻を行った。
御所を私兵で取り囲み、武力をちらつかせて征夷大将軍の座から引き摺り下ろそうという算段である。
しかし足利義輝はこれを受け入れず両者は対立。最終的には三好が実力行使へと至り、足利義輝を殺害した……という訳らしかった。
その最期は義輝自らが薙刀を、そして刀を振るい三好兵を次々討ち取るも、遂には力尽きて討死したとのことだった。
さらに三好の弑虐は義輝のみに収まらず、その乳母や弟、側室に至るまでありとあらゆる縁者が殺戮される壮絶なものだったらしい、と記されていた。
そんな知らせを聞いて顔を白くする政澄とは対照的に、しらっとしたまま答えたのはすっかり浅井の評定に馴染みの顔となりつつあった竹中半兵衛であった。
「どうやら一度は逃げ延びたそうですが、その後また御所に戻ったようですね。結果から見れば愚かとしか言いようがありませんが……」
昨年、国吉城攻めの手柄を長政から譲られた半兵衛は、稲葉山の一件もありいつしか『城獲り半兵衛』と呼ばれるようになっていた。
しかし本人としては長政に手柄を譲られたことが納得いかないようで、この名前で呼ばれる度に相変わらずの仏頂面をさらに険しくする有様だった。
そんな半兵衛の態度にもすっかり慣れたはずの政澄だったが、しかし義輝を愚弄するかのような言い分にはさすがの彼も我慢できなかった。
「無礼な! 義輝公を愚弄するか!!」
声を荒げて立ち上がる政澄をすかさず長政が静止する。
「叔父上、落ち着かれよ」
「これが落ち着けるものか!!」
しかし政澄は長政のなだめすら聞き入れないほどに激昂していた。そんな政澄を見るのはいつ以来か。
思わず眉を上げた長政だったが、そんな長政の顔を見て冷静さを取り戻したのか、政澄は「……御免仕った」と呟いて静かに腰を下ろしたのだった。
長政は抗議の意味を込めて半兵衛を少し睨む。しかし相変わらず素知らぬ顔。美濃を追われた理由がよくわかるような一幕だ。
そんな二人の様子を伺った後、今度は知らせをもたらした張本人である八重が口を開く。
「敵を前に逃げるのは武家の沽券に関わると、御家来衆に諫められたようです」
それは義輝が再び御所へ戻った理由だった。長政には到底理解できない、命よりも優先されるその理由。
「武士の意地、武家の誇りか」
この時代において時に命より重く、時に一族の繁栄より優先されるそれらの理由。足利義輝にとっても今がその時だったのかもしれない。
足利義輝はまさに、武家の棟梁たるに相応しい武士だったのだ。
しかし、現代人の感覚を持つ長政からすればこの考えは受け入れがたく、どころか馬鹿馬鹿しいとさえ感じてしまう。
意地と誇り。そんな物のために死ぬことに果たしてどれだけの価値があると言うのか。景垙の一件からして、長政にはますます武士というものを理解できそうにない。
「新九郎様は、この事を予見されておられたのですね」
そんな思いもあって書状に視線を落としたまま眉をひそめる長政だったが、不意に八重から声をかけられる。
何のことだと視線を上げると、昨年彼女と話したことが脳裏をよぎった。
『京はこれから、二つに割れる』
三好長慶の死に際し、八重は将軍家と三好が二つに割れることだと考えた。しかし長政は言った。そうならまだいい、と。
確かに、この結果を見てみれば将軍家と三好家が割れる方がまだ良かったかもしれない。まさに末法とも言うべき顛末へと至ってしまったのだから。
だが八重は腑に落ちないとでも言いたげに僅かに俯く。
「ですが私には、新九郎様が仰っていた京が二つに割れる、の意味がいささか……今回の一件で、将軍家は完全に命脈を絶たれました。ここから将軍家が盛り返すとも思えません。ならば一体、三好と京を割るもう一つの勢力とは一体?」
八重の問いかけに、この場にいる他の者たちまで興味ありげに長政へ顔を向ける。
彼らの視線を一身に受けて、長政は静かに口を開いた。
「……恐らく、その三好が二つに割れる。三好義継や三好三人衆の望む天下の形と、松永久秀の考える天下の形は異なっている。望むものが異なる両者は、この後に仲違いするだろう」
すると今度は政澄が興味深そうに目を細めた。
「天下の形……」
「そもそも松永久秀自体、今回の一件に噛んではいないだろう。長慶のあり方を見てつけあがった今の三好と、長慶の政治を知る松永久秀。あの両者の望むものは全く違う。奴らを御せるのは唯一、今は亡き三好長慶ただ一人であろうな」
後の世ではこの時、三好三人衆、或いは彼らに担ぎ上げられた三好家当主の三好義継は、足利家を廃した天下を築こうとしたとも言われている。
次の天下は将軍家の通字である『義』の字を三好が『継』いで。
しかし、それを良しとしなかったのが他ならぬ松永久秀だ。
帝や将軍家の必要性を正しく理解し、その上で彼らを上手く利用する。松永久秀が望んだそれは、かつて三好長慶が為した二重傀儡政治の形そのものだった。
そしてその正しさを証明するかのように、天下は次第に反三好へと傾いていく。
この両者の齟齬が、やがて近畿を二つに割るのだ。
「して、いかがなさるおつもりか」
ひとしきり各々が喋り切ったところで、しわがれていながらも芯の通った声音が評定の間に低く響く。
一同の視線を集めた先には、真っ白い髭を右手で弄ぶ老将、海北綱親の姿があった。彼は浅井家重臣の一人であり、軍奉行でもある歴戦の猛者だ。
そんな彼は険しい視線を長政が手にする書状へ向けて、重苦しく続ける。
「将軍を弑したともなれば、もはや三好に大義はありますまい。今ならば西近江より丹波へと攻め上がり、内藤を攻め滅ぼすことも出来ましょう」
続いて、綱親の隣に座っていたやや丸顔の男も頷く。
「確かに、丹波内藤は三好の縁者。将軍弑殺の仇討ちと称せば、大義名分も立ちましょう」
綱親に続いたのは雨森貞清だった。海北綱親、そして家臣筆頭である赤尾清綱と並び『海赤雨の三将』と称される浅井家重臣の一人だ。
彼の言葉に、丹波の情勢を探らせている八重へ視線を投げてみると、彼女は肯定するように頷いた。
「三好は丹波内藤を乗っ取るにあたり、敵を作りすぎたと聞き及んでおります。現に赤井や荻野といった諸勢力は早速と動き出しているようです」
「さすればその者たちと合力し、丹波内藤と一戦交えるのも一案でござろう。幸い、浅井は京極を介して将軍家と誼を通じておりますからな。昨年の殿の大立ち回りもある。面目は立ちましょうぞ」
ただの事実確認か、それとも皮肉なのか。雨森貞清はそんなことを口にする。
実は近年、政澄の献策で年始まりなどの節目節目に将軍家へ祝いの品を献上していたのだが、ここにきてその恩恵を受ける時が来たらしい。
長政としては将軍家にまつわるあれこれに巻き込まれるのは御免なため、あまり良い顔をしていなかったのだが、どうやら今回に限って言えば彼らに軍配が上がったらしい。
すると綱親が「否」と語気を強めて続ける。
「此度は丹波内藤のみにあらず。この期に及んでは六角さえも手出し出来ますまい。これにより後顧の憂いは断たれ申した。ならば目指すは京。これ一点のみにござる」
京。その言葉で評定の間にどよめきが起こる。
しかし無理もない。綱親のそれは、つまり浅井による上洛を示唆していたのだから。
これまでは南近江の六角が敵ゆえに浅井の上洛など夢のまた夢であった。
京へと続く南近江、西近江ともに六角によって支配され、浅井が軍を挙げて通るなどまかり通るはずも無かったからだ。
しかし今ならば。西近江の半分を手にし、将軍家への面目という大義名分まで手に入れた今であれば。六角家とて浅井を攻めることなど出来はしないだろう。
南近江の横断は難しくとも、六角が支配権を失った西近江からならば。
どころか、残る西近江の半分を治める高島七頭は将軍家に忠節を誓う者たちが多数いる。
三好討伐のためとあれば、その者たちを浅井の軍門に引き入れることすら出来るかもしれない。
そうなれば浅井の兵力は数万にも及ぶ。丹波へ攻め入るには充分だ。
屋台骨を失い、周りを敵に囲まれた丹波内藤など、もはや恐るるに足らず。そのまま一息に丹波を呑み込み、勢いのままに京へと攻め上る。
そうして浅井が新たな将軍を擁立できれば。
「……次なる天下人は、我ら浅井か」
長政が最後にそう締めくくる頃には、評定の間は異様な熱気に包まれていた。




