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002_永禄三年(1560年) 始まりの日

 歴史は、史実・・の通りに進んでいる。


 桶狭間の知らせを聞いた時、新九郎はそう結論付けた。


 世に有名な桶狭間。織田信長の覇業の始まりとなる伝説の戦い。

 本来起こり得ない奇跡が二度・・起きたともなれば、それは偶然ではないはずだ。


 つまり自分は今、過去・・に起きた歴史を歩んでいる。


 ならば次なる戦いは――



◆――



「――郎様、新九郎様。物見からの知らせがございます」


 まどろみの中聞こえた男の声に、新九郎は意識を取り戻した。

 どうやら、いつの間にか寝入ってしまったようだった。


 ゆっくり視線を上げて辺りを見渡せば、鎧兜を着込んだ武者達がずらりと並び、新九郎に向き直っている。


 辺りでは、真夏の蒼天の下で具足を身につけた雑兵達が駆けずり回り、誰もがその額に玉のような汗を滲ませていた。


「……夢、か」


 遠い日々の記憶が、既に夢である事を思い出す。

 そうして周りの者達がそうするようにして、新九郎は額に流れる汗を拭った。


 季節は夏。あの桶狭間の奇跡から二月ふたつきの時が流れた。


 この時代・・・・の気温は現代・・よりも幾分も低く、冷夏が幾度も起きるような気候なのだが、それでも今日という日はとびきり暑苦しかった。


 よくもまぁこんな状態で座ったまま寝られたものだと、上座に座る新九郎は自嘲する。

 初の出陣だ、よほど疲れていたのだろう。


 そんな暑苦しい熱気を冷ますように風が吹き抜けると、陣中のあちこちでもり亀甲きっこう花菱はなびしがあしらわれた旗が揺れる。


 新九郎が浅井家の当主となる事を決意した際、これまでの浅井と決別するために新たな家紋として定めたものである。

 

 そうして先ほどの声の主に視線を向ければ、そこに居たのは浅井家重臣の一人、赤尾あかお清綱きよつなであった。


 この場においては誰よりも戦をよく知る歴戦の猛者、譜代ふだい家臣の一族である赤尾あかお清綱きよつな

 彼は新九郎の目が覚めた事を確認すると、シワが増えてきた顔を僅かに歪めて続けた。


「敵方の六角ろっかく勢は宇曽うそ川を挟んだ先に陣を構えております。先鋒は蒲生かもう定秀さだひで、敵総大将は六角義賢よしかた。知らせでは敵兵約……二万」


 報告を聞いたもの達から、ぐっと息を呑む気配がした。

 当然だ、北近江おうみ中からかき集めた味方は、それでも六千余りしかいない。


「……左様、か」


 敵兵は三倍以上。

 新九郎は初陣にして、早くも危機を迎えていた――



◆――



 後に野良田のらだの戦いとして歴史に名を残すことになるこの戦いの発端は、昨年の新九郎の元服げんぷくの日まで遡る。


 元々浅井家は、北近江おうみを治めていた守護、京極きょうごく氏に仕える家臣だった。


 それを新九郎の祖父、浅井亮政すけまさが己の才覚と人脈を駆使して一代で重臣格までのし上がり、やがて京極氏のお家騒動に端を発する勢力争いの中で北近江おうみの国人衆を従えて京極氏を追い落とし、北近江おうみの戦国大名としての地盤を築き上げたのだ。


 しかし、そんな英傑である浅井亮政すけまさが亡くなると、後を継いだのは新九郎の父である浅井久政ひさまさだったが、彼は祖父とは似ても似つかないほどの戦下手だった。


 京極氏の家臣だった祖父の代からしのぎを削り続けていた宿敵、南近江おうみの守護、六角ろっかく氏に敗北した久政は、子を身ごもったばかりの自身の正妻を人質として、その六角氏に差し出して傘下に収まってしまったのである。


 南近江の覇者であり、由緒正しい名家の血筋でもある六角氏に戦でも敗北したとなれば、元は牢人の出とも言われる浅井家の血筋では彼らに勝つ術は残されていない。


 祖父がたった一代で築き上げた栄華は、父がたった一代で貶めたのだった。


 やがて人質に出された正妻は六角氏の元で子を産み、産まれた子は久政の正妻同様に人質として預かられ、産まれてから十四年もの間、人質として育てられることになった。


 その人質の子こそ、他ならぬ新九郎である。


 そして昨年、その新九郎がついに元服を迎えた。

 元服とは成人式のようなもので、公式に大人として認められる式のことを指す。


 男はその元服の際、大人として今後名乗っていく新たな名前を授かるのだが、新九郎に与えられたのは、浅井賢政かたまさという名前だった。


 これは、浅井家男子が代々受け継ぐ通字とおりじ、『政』の字に六角家の当主である六角義賢よしかたから『賢』の字を貰った名前であるのだが……これが全ての発端だった。


 浅井家に仕える者達からすれば、当主である浅井久政ひさまさが余りに不甲斐ないため仕方なしに従属しているだけで、六角氏への反感は未だ消えてなど居ない。


 だと言うのに、次期当主たる新九郎の名に『賢』の字を貰う――即ち、浅井家は六角家の家臣であると暗に告げるようなその行為は、到底我慢できるものではなかったのである。


 その上、この元服の日は同時に新九郎の婚約の日でもあったのだが、その相手もまずかった。


 相手は、六角家重臣である平井ひらい定武さだたけの娘、小夜さや

 その小夜さやを、あろうことか六角義賢よしかたの養女として迎え入れ、そして新九郎に嫁がせたのである。


 前述の名前に加えて、これは名実ともに新九郎を六角氏家臣として抱き込むための、六角義賢よしかたの采配である事は間違いない。


 例え小夜さやが新九郎と歳近く、また人質時代に幼馴染として共に育ったとは言え、浅井家の者達には我慢ならなかったのである。


 だからこそ、彼らは立ち上がった。六角の庇護を受け入れた浅井久政ひさまさを追放し、その子である新九郎を当主に据えて、ついに六角氏へ反旗を翻したのだ。


 手切れの証として、まずは小夜を純潔のまま六角氏の居城、観音寺かんのんじ城に送り返すと、浅井家は六角氏との対決姿勢を露わにした。


 事ここに至り、もはや浅井に退路はない。

 残された道は六角氏と雌雄を結し、勝利するか討死うちじにするか二つに一つ。


 近江おうみの二大勢力、六角家と浅井家の対立が浮き彫りになった事で近江中に緊張が走る中、南近江の守護、六角義賢よしかたもついに動いた。


 浅井家の独立に呼応して六角に反旗を翻した肥田ひだ城城主、高野瀬たかのせ秀隆ひでたかを討伐するため兵を挙げたのだ。


 両者にとって、今こそ決戦の時だった。



◆――



「布陣は手はず通りに」


 物見の報告を終えた赤尾あかお清綱きよつなが、手際よく陣触れを出し始める。既に戦う方法は全て決まっており、この場ではその際に決められたことを再確認する程度だ。


 そして当然のように初陣の新九郎には殆ど口を挟む事ができず、誰がどこに布陣するか、どうやって戦うかと言った手はずは熟練の赤尾清綱きよつなが全て取り仕切っていた。


 名目上は新九郎が総大将だが、実際のところは赤尾清綱が総大将に当たるのだ。


「先鋒は我らにお任せあれ。蒲生がもう如き、我らが散々に討ち取って見せましょうぞ」


 難しい顔をして陣中に広げられた地図を眺めていた新九郎に、そう声をかけたのは磯野いその員昌かずまさ。浅井家でも屈指の猛将と謳われる男だ。


「頼みにしているぞ、員昌かずまさ


「ははっ!」


 どことなく居心地が悪かった新九郎にさりげなく声をかけられる、気の利く性格の磯野員昌かずまさだが、それでも武将なだけあって荒々しさも忘れていない。

 新九郎から見た磯野員昌は、そんな印象の男だった。


 必ず何か戦果を挙げてくれそうな気がするのは、彼の未来を知る新九郎のひいき目ゆえだろうか。


「先鋒は手はず通り、磯野員昌、百々どど盛実もりざねの両名に任せる。残りは後詰として敵の崩れたところへ殺到せよ。他に、異存のある者は?」


 赤尾清綱が問うが異論は出ない。元々出陣前に決まっていた布陣ではあったが、敵の大軍を目の当たりにして怯むような臆病者は、浅井には誰一人としていないようだった。


 彼らに視線を一通り向けて納得したように頷いた赤尾清綱は、最後に新九郎に声をかけた。


「新九郎様。お言葉を」


 突然そう振られ、視線が泳ぐ。

 しかし、泳がせた視線の先では先ほど名を呼ばれた者達が新九郎に注視している。戦の前に景気づけとなる言葉を発して欲しそうだった。


 そんな言葉を求められるとは思っていなかった新九郎は思わず沈黙したが、幾何かの沈黙の後、ゆっくりと口を開いたのだった。


「――二月ふたつき前、尾張の織田信長は、桶狭間にて今川の大軍を破り……天下にその名を知らしめた」


 ゆっくりと。震える唇を誰にも悟られないように。新九郎は静かに言葉を紡ぐ。


「そして今……この宇曽うそ川の先では、我らの宿敵六角が、やはり大軍を擁し待ち構えている」


 けして大きな声ではなかったが、戦の前の張り詰めた緊張の中で、新九郎の言葉は水を打ったように響く。

 赤尾清綱を始めとした家臣らは、いつの間にか新九郎の言葉に吸い寄せられるようにして耳を傾けていた。


「敵の数は、我らの三倍だ。きっと苦しい戦いになるだろう」


 弱気な当主の発言。しかし彼らは次の言葉を待つ。この程度・・・・の事で弱気になるような、ひ弱な当主ではない事を、他でもない彼ら自身が良く知っているからだ。


 そして新九郎は、彼らの期待に応えるように咆えた。


「しかし、その程度の事で忘れた訳ではあるまい。六角の庇護に入り、六角の者達に蔑まれ、笑われながら冷や飯を食らったあの日々の事を。忘れた訳ではあるまい! 握りしめた拳に、食いしばった歯に伝った、血の味を!」


 家臣達の表情に強い感情の色が浮かぶ。浅井家に連なる者と言うだけで苦しんだ日々は、彼らにとって屈辱以外の何物でもなかったはずだ。


 六角との決戦は、誰もが夢にまで見た一戦なのだ。かつての当主、浅井久政の元では成し遂げられなかった悲願なのだ。


「ならば……ならばこそ我らは! 此度こたびの戦の勝利を持って、浅井の名を天下に知らしめる! ――織田信長が、成したように!」


 勢いよく立ち上がった新九郎の瞳に宿るのは、強い決意の炎。その炎は、家臣達に瞬く間に伝わり、強い想いを燃え上がらせた。


「手始めに、私は六角から与えられた賢政かたまさの名を捨てる! そして、桶狭間の奇跡を導いた織田信長にあやかり、名を長政ながまさと改めよう! 我が名はこれより、浅井あざい備前守びぜんのかみ長政ながまさである! そして、浅井長政として最初のめいを発する!」


 新九郎改め長政は、腰に下げた刀を引き抜いて天に掲げ、目が覚めるような声を発した。


「我ら浅井のいくさをここより始める! まずは高々、三倍程度の兵で勝ったつもりの六角に! そして、我らを知らぬ天下の者どもに! 浅井の戦振り、しかと知らしめる!!」


 天に昇る日を背中にしたその姿は雄々しくもあり神々しくもあり、まるで日の神が長政の天下への飛翔を祝福しているようにも見えた。

 そうして振り上げた刀を振り下ろし、長政は咆哮した。


「全軍開幕だ、出陣する!」


『オオーーッッ!!』


 長政の声とともに、彼らは一斉に立ち上がる。

 この日こそ、浅井が再び立ち上がり、北近江に覇を唱える始まりの日であり。


 同時に、一度は破滅を迎えた浅井長政の、新たに生まれる長い長い戦いの歴史が始まりを告げる日になるのであった。

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[一言] 基綱っちが居たらヤバいなw
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