師の教え
……雨が降っている。
あれから何時間たっただろうか。
屋根もない、庭園の芝生の中、俺は横になっていた。
雨足は非常に強く、5メートル先も見えない。
暗い暗い夜の視界をより一層悪くする。
この世界には電気はない、雨風が強ければかがり火もランタンも意味をなさない。
「いたか!?」
「殿下!いずこに!?」
「王子ぃっ!!」
時たま、歩道の方からは声が聞こえる。恐らく俺を探しているのだろう。
しかし、見つけられっこない。これだけ視界が悪い雨の中、動かずじっと寝そべっているんだ。
草木には水がしみ込み、土は氷のように冷たくなる。
上から降り注ぐ雨粒たちもあいまって、俺の体温は容赦なく奪われる。
おかげで頭は冷えてきた。
(さて、整理だ)
辛いとき、動揺しているときの哀愁は、その理由を論理的に整理して処理するに限る。
このもやもやしたカオス状態を言語化し、論理におとしこみ、改善策を見つける。
俺はこの世界を舐めていた。300年戦乱が続いたこの世界、滅亡の危機に瀕したこの国。平和な日本の価値観が通じるわけがない。
平和主義・基本的人権の尊重、そんな考えはこの世界には存在しない。
侵略戦争や植民地支配、大義のためならあらゆる暴力が正当化される、これがこの世界の現状だ。
俺のこの心の葛藤の正体は、現代日本とエメラルド国、二つの価値観のギャップにある。
(認めてしまえ)
アメリカのセラピスト達により開発されたNLP(Neuro Linguistic Programming)心理学曰く、世の物事には良いも悪いもない。物事とは無色透明である。そこに善悪をつけるのは人間の価値観という名のフィルターだ。
脳みそは現実と幻想の違いがよくわかっていない。
だからこそ人殺しを恐怖する俺のフィルターに反応して、硬直・発汗・動悸・吐き気といった身体的障害が出る。
ならば簡単な対処法は価値観を変える事だろう。
価値観をこの世界に準じたものへと変えて、脳のプログラムを書き換えることだろう。
(認めてしまえ)
殺人に対する意味づけを書き換えてしまえばいい。
この世界の価値観を認め、乱世の人格に染まってしまえばいい。
ぎりりり。
俺は血が出る程唇をかみしめる。
「………………………………………………無理だ」
いくら言語化しても、処理できない。
脳が、身体が、染まることを拒否してしまう。
平和な日本の倫理観を捨て去ることができない。
間違っていると、思いたくない……。
「青いな、俺は……」
自嘲気味にそうつぶやく。
無理、できない、不可能。そんな言葉は俺の最も忌避すべきものだったのに。
意固地にこの価値観に固執する。
何度思いを反芻しても、決して折れることができない。
「見つけた」
いつのまにか、寝転がる俺を見下ろす影が見える。イリーナだ。
「先生……見つかったか。たはは、アイシャさんにも見つからなかったのに……」
「ここの草木たちが教えてくれました。魔法はこんなこともできるんですよ」
そう言いながら、イリーナは胸をなでおろす。
彼女も俺と同じくずぶぬれだ。
あたかも簡単そうに言うが、そんなはずはない。
傘も差さずに懸命に探してくれていたんだろう。
「風邪を引きますよ」
「先生だって濡れネズミじゃないですか。風邪を引きますよ……むぐっ」
「ほら、殿下のほうが冷たい」
そういって、イリーナは優しく俺を包み込む。
なるほど、イリーナの身体にはかすかに温もりが残っていた。
「見てしまったんですね、殿下」
イリーナは止めてくれた。アレを見ることを。
子供に見せるのははばかれたのか。関係ないな……。
いつかは見ることになっていた。この世界の闇を、狂気を。
「先生、心配かけてごめんなさい。明日からはいつものいい子に戻ります。だから、今は放っておいてください。この気持ちを処理しきるまで」
待ってほしい。処理できるその時まで。
できる気がしないけど。せめて今は、この世界の価値観に触れたくない。
そんな俺にイリーナはささやく。
「あなたは、間違っていない」
一瞬、息が止まった。
それは、俺が一番欲しかった言葉だった。
一番求めている温もりだった。
俺は、イリーナに救われた。
◇◆◇◆◇◆
「300年前、時の支配者が没落するその時までは、こんな世の中じゃありませんでした。平和な世の中でした。もちろん格差はありました。差別も貧困も、小規模な紛争もありました。それでも、多くの人にとっては、平和な世でした。……今の世の中がおかしいんです。殺し合い、だましあい、奪い合い、子供に命の軽さを平気で教える、この世の中が……」
イリーナは長寿のエルフ族だ。だからこそ見てきた。この大陸全土に広がる紛争を、乱世の時代の始まりを。
「だから、家出しちゃいました。掟を破り、閉鎖的なエルフの里を出て、自分にできる事をしようと……無理でもなんでも、何とかしたかったんです」
「それが、魔法の講師ですか?」
「ええ、私には、魔法を教える事しかできませんから。魔法は人々に幸福をもたらすための授かりもの。己の身を守り、大切な人の身を守り、生活を豊かにしてくれる。私はそう信じています。多くの人にそんな魔法を教えることで、きっと世界を優しくしてくれる……私は……そう信じて……」
そういうイリーナの瞳は、哀しく揺れていた。きっとこれは雨のせいではない。
『くれぐれも矛盾を教える事の無きように』
ラモスの言葉を思い出す。
戦争を嘆くイリーナが、兵士たちに攻撃魔法を教える。なるほど、これは確かに大きな矛盾であり、偽善だろう。
それでも、俺は感銘を受けた。
この乱世の世の中で、多くの人に魔法を教えたいのなら、軍の魔法講師になるのが一番効率がいい。影響力の高い王族に魔法を教えるのもわかる話だ。
矛盾があることは彼女にだってわかってる。
雇われである彼女には、雇用者のニーズに応えて攻撃魔法を教えるしかない。見方によっては戦争の片棒を担ぐ死の教育者にも見える。そんなことは分かっているのだろう。
それでもやるんだ。彼女は必死で。
青臭い理想を伝えるために。
誤解も叱責も、この細い肩に背負いながら。
「僕は尊敬します。やらない善よりやる偽善。処理しきれない葛藤を前に、それでも歩みを止めないあなたを、心の底から尊敬しますよ、イリーナ師匠」
イリーナは一瞬目を丸くする。しかし、すぐにいつもの柔和な笑顔を取り戻し、
「……私が正しいわけではありません。皆が間違っているわけでもありません。人は幾千の骸の上に平気で立てるほど強くはありません。命が軽い思想の教えとは、心を壊さないための防衛法であり、子供たちの未来を守るための、乱世の教えです。これは悪ではありません。ラモス将軍を、アイシャを、皆様を誤解なさいませぬように。師としての最初の教えです」
こうして、俺たちは本当の意味で師弟となった。