6
その日、世界が震撼した。
数多くの神々と人間、大地、獣を創造した世界の創造主たる女神、イスカヴァルが世界から消失したのだ。それはまるで、一瞬で、霧の如く霞掛かった残り香だけが、世界に残された。
『一体これはどういうことなのです?!』
『落ち着け、クラウス。で、フェルト、どういうことだ? 女神が部屋から消えていたというのは』
『どうもこうも無いよ。朝起きて寝室を伺ったら、部屋の何処にも居なかった。今はエンラが神殿内を捜索している筈だけど、多分何処にも…』
バンッと音を立てて机を拳で殴ったクラウスは、感情のままに座っていた椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。怒りも露わに髪を振り乱すクラウスは、かつてない程激昂していた。
『女神が居なくなる筈ありません! 何処かには居られる筈ですっ』
クラウスの言葉に頷くジャルタの表情は冴えない。いや、ここに居る誰もが表情が優れず、自身の脳裏に最悪の未来を描き出しているのは明白だった。それを認めたくなくて、ほんの小さな希望に縋るように、何処か遠くを見つめるフェルトは、胸元をぎゅっと掴み、頭に鳴り響く鼓動さえ煩わしく感じていた。
ふと、音を立てて開いた扉から、疲れた表情のエンラ、ツイ、イリス、ガルが入って来る。ジャルタは身を起こし、座っていた椅子からそっと立ち上がる。
『エンラ、どうだった?』
『神殿内はくまなく捜索したが、女神は居られなかった。…というよりも、この世界の何処にも女神の姿は見当たらない』
『なっ…!』
言葉を失うクラウスに、ツイは力なく口を開いた。まるで悪夢を見ているような心地になりながらも、唇は残酷な真実を紡いだ。誰もがきっと、それをある種想像していたであろう、最悪な現実。
『僕の風で世界中の気配を探したけど、何処にも居られなかったよ』
『それは…』
『だが、少なくとも女神は死んで居ない。そうだろう、エンラ?』
腕を組み、壁に身体を持たれかけさせたガルは、鋭い眼差しでエンラを射抜いた。そこに秘めた青白い炎を見て取り、エンラは俯き、手近な椅子に座り込む。
『ええ。もし女神が亡くなったとするならば、世界は崩壊しています』
『そうなってはないない、ということは、何処かには居られるってことだよね?』
何かに縋るように窓の外を見て呟いたフェルトは、震える唇を押さえ、ぎゅっと拳を握り締める。その様はまるで、庇護を失った雛鳥の如き繊細さで、ジャルタもクラウスもエンラも固く自身の拳を握り締めた。誰もが苛立ちを隠せず、けれど誰もがその目に絶望と、一筋の希望を見出している。僅かに残った希望に掛けるように、俯いた目線を上げた。
『ですがこの世界には居ないのでしょう。だとすると女神は…』
『この世界から消失した、と。そういうことだね』
一言も発して居なかったイリスは、そう言ってぐるりと部屋を見渡した。
神々の誰もが絶望にその顔を歪め、自身が何かの手によって引き裂かれたかのように痛みを堪え、沈痛な表情で唇をかみ締める。その様の、なんと愚かなことか。
イリスはひっそりと嗤い、俯いてその表情を隠した。しんと静まり返った部屋の中に、最早言葉を発する神は誰も居なかった。それが女神が望み、選択した結果だ。せいぜい、女神を追い詰めた自分を恨み悲しみ、女神の消失を受け入れれば良い。か細い糸で繋がった女神の娘を脳裏に思い浮かべ、イリスは目を瞑り、享楽に浸った。
☆
女神が消失して一月、神々は抜け殻のように日々を過ごしていた。まるで何処かに自身の大事なものを置き忘れたかのように、皆が皆、沈痛な表情で部屋に籠もる。だが、この世界を壊すわけにはいかないと、最低限の自身の仕事だけはこなし、女神の残像を探し回る日々。皆、狂おしい程に女神の姿を求めていた。
ここに、女神が居た…。
リュレーンの滝に触れたフェルトは、地面に蹲り、滂沱の涙を流す。もう何処にも女神は居ないのに、求めるのは唯一人、優しく柔らかな笑みを浮かべ、フェルトと呼んでくれる温かな残像。地面を土がえぐれる程に引っ掻き、フェルトはどうにもならない現実を拒否して地面を叩き続けた。
クラウスはあれから、幽鬼の如く神殿を徘徊し、自身の領地に戻ることなく、日がな一日女神の居室で座り続けた。いつか、寝室からひょっこりと女神が姿を現すのではないかと夢見て。
ジャルタはキルス神殿に籠もり、星の動きから女神の運命を追った。けれど姿を消した女神は、この世界の空の何処にも、その存在を表明することなく、ひっそりとした静けさだけが夜空を照らしていた。気が狂いそうな程に女神を求めているのに、一欠けらもその存在を証明するものはない。ジャルタは、最早思考を止め、ただただ星を眺め続けた。
一番活発に動いているのはエンラだろう。あらゆる書物をひっくり返し、女神が残していたこの世界に関する本の中に、女神を呼び戻す方法を探し続けた。希望はまだある。巨大な大地に、小さな針を一つ落とし、それを探すかのように膨大な時間と労力を要したが、それでもエンラは諦めることなく探し続ける。
それに手を貸したのは、イリスとツイ、ガルだ。手分けをして様々な記述を探し、捜索し、今までフルに使ったことのない神々の力をフルに使い、懸命にこの世界の根幹を探し続けた。
きっとそこに、女神を呼び戻す希望が残っていると信じて。
一日、一日と過ぎていく日々は、まるで永遠の孤独の中に放り込まれたように時間の感覚を失い、五感のすべてを奪いつくしていく。
もう駄目なのだと、女神は戻らないのだと、そう受け入れることが何より恐ろしくて、エンラは休むことなく幻を追い続けた。
そうして、ある仮説に辿り着く。
『女神は恐らく、他の並行次元世界へ姿を消したのではないでしょうか?』
やつれた表情に、色濃く残る隈、けれどもその目だけが爛々と輝き、召集した神々の前で自説を述べていく。
『並行次元世界へ…ということは、まだ女神は居なくなったわけではない、ってことだよね?』
『分かりません。ですが、それ以外に女神の居る場所等ありませんから。この世界から消失した後、何処かの世界へ移ったと考えるのが自然でしょう』
『それは何処なのです? エンラ』
『…それはまだ分かりません。並行次元の世界は無数に、星の数程ありますし』
『それでは探しようが無いな』
ジャルタはぽつりと呟き、けれど『いや…』と声を上げた。
『それを探せば、また女神に会えるのだな?』
『そのはずです』
『ならば探すまでだ。そうだろう、エンラ?』
『ええ、ガル。その通りです』
『皆で協力して、ですか…ふふふ、分かりました。いいでしょう。探してみせる、今度こそ、絶対に』
クラウスは仄暗い笑みを浮かべてそう誓い、神々もそれに深く同意した。
そこから、女神の捜索は加速していく。イリスはその姿に、意外性を感じながらも、心の中で呟く。
女神、あなたが思っていた程、彼らは愚かではありませんでしたよ。
最短ルートを探し当てたエンラの執念に舌を巻き、けれども自身がそれに一枚噛んでいることだけは絶対に漏らすことなく、イリスは女神の捜索に尽力した。
女神に会いたい。
それはイリスも同意見だ。女神のすることに手を貸したとはいえ、イリス自身も、女神の消失で心に穴が空いたかのように空虚で無意味な生活を過ごしいていた。これも、女神からの罰なのだろうかと、イリスは内心苦笑する。
どこまでもどこまでも追い続けて、何れは女神の娘の存在に気づくだろう。その日が今から楽しみだ。
イリスは他の神々同様、凶悪な笑顔で嗤った。
☆
由美はその日、イリスの元へ向かっていた。燦々と降り注ぐ日差しは生命力に溢れ、透き通る雲一つない青い空にとてもよく輝いていた。過ごしやすい、良い気候だと思う。けれど今はそれさえも、由美にとっては煩わしく感じた。
リガードネックレスを受け取ってから早一月が経過したが、クラウスを筆頭とする神々は由美に対し距離を置き接している。その姿が由美の普段見ている夢の中と余りに違い、由美は混乱と動揺を抑えこむのに必死で、当たり障りのない会話をするのが精一杯だった。
今日も、フェルトが着いて来るというのを振り切ってここまでやって来た。だというのに、何処か違和感を覚えずには居られない。自分の何がそう思わせるのかさえ、由美にはもう分からなかった。
見上げた空の先、由美が見慣れた真昼の白い月は見当たらない。変わりに浮かぶ鈍青色の月が由美の心をかき乱す。
この世界の何処にも、由美が生活していた世界の片鱗を見出すことは出来ない。当たり前に過ごしていた日常が変化し、それを一旦は受け入れたものの、止まることのない夢…いや、記憶の洪水とも言うべき映像達は、由美の精神を磨り減らしていった。
気が狂いそうになる程の強烈な感情を呼び起こす映像群は、夢の中であってさえ、鮮烈に由美の正常な精神を業火の炎で焼き尽くしていく。それはまるで、由美という人格を破壊し、塗り替えていくような恐怖。
知らず詰めていた息を吐き、由美は足早にイリスの私室を目指した。
イリスの私室は、由美が寝起きする居室から少し離れた場所にある。由美が普段生活している棟とは違い、イリスの私室のある棟は主に蔵書を保管する資料室や女神の聖域部屋等が連なる場所で、普段は人気のない棟だ。ドアをノックすると直ぐに中から返事が返ってくるのを確認し、由美はドアノブを引いて部屋の中に滑り込んだ。
「遅かったね、シリン…いや、由美」
ふわりと笑ったイリスに曖昧な笑みを返し、由美は所在無げに立ち竦んだ。薄暗い室内に立つイリスは、黒地に襟元が白く金糸で装飾されたの直裾を纏っていた。闇に溶け込むその服装は、普段の陽気で明るいイリスの印象とは違い、何処か陰鬱とした空気を放っている。その異質さはまるで、これからの未来を予期しているようにも思える。けれど自身の考えに没頭する由美がその些細な異変に気付くことはなかった。
由美と、そう呼ばれるのはいつ振りだろう?
たったそれだけの事で胸が震え、どうしようもない歓喜が過ぎる。けれどここへ来た目的を再度思い出し、決意と共に口を開いた瞬間、イリスは前触れもなく爆弾を投下した。
「まさか君がその名を覚えているだなんて、思いもしなかったよ」
「……」
「シリン、ね。まさかもう一度この名を聞くことになるだなんて思いもしなかった」
「イリス、」
「うん?」
イリスはからからと笑って、由美の方へと近寄って来る。
気圧されるように一歩下がると、その行動を予期していたかのように距離を詰められた。
「どうして…」
「それは僕の方が聞きたいな。どうして君が、その名を覚えているの? ねえ由美、どうして?」
「……」
「君が知る筈は無いはずなのに、どうしてなんだろうね? 由美」
由美の頬に手を滑らせ、目を細めて笑うイリスに、由美は身を固くして後ずさる。必然とイリスの手が離れ、無意識に安堵の息を吐いた由美は胸元をきゅっと握り締めた。
「時の神、シリン。女神と同時期に生まれた太古の神。その名の通り時を司り、時には並行次元世界への干渉権をも持ち合わせている。けれど既にその神は転生して、そして…」
「そして…何? 由美」
「イリス、私は…」
「馬鹿だなあ、由美は」
「イリス…?」
悪戯っ子のように目を輝かせ、イリスは歌うように言葉を紡いだ。その様のなんと楽しそうなことか。由美は言い知れぬ恐怖に部屋を飛び出したい衝動に駆られた。
でも、ここで逃げても何の解決にもならない。
由美はそう自身を奮起させ、踏みとどまった。その様子がさも可笑しく見えたのか、イリスが声を上げて笑った。眉を寄せ、訝しむようにイリスを見れば、イリスは畳み掛けるように言葉を重ねる。
「馬鹿だなあ、由美は。僕の名前を知っているのは女神だけ。この世界の何処にも、僕を知る神も人も居ないというのに」
「…………」
「でもそれが、何よりの証拠になる」
ひたりと由美を見据えたイリスは、不意に片手を挙げた。それと同時にガル、エンラ、ジャルタ、フェルト、ツイが由美を囲むように姿を現した。
「な、なにっ?!」
由美は驚き後ずさろうとして、寸で後ろにクラウスが居ることに気付き、びくりと肩を揺らした。
「ねえ、由美。こう考えたことは無い? 君は女神の娘だ。けれど同時に女神の気を分けた魂でもある。つまり君は女神の分身とも言える存在なんだよ?」
酷く楽しそうなイリスの表情が伺えず、由美はただひたすら逃げ場を探した。兎も角ここから一旦離れなくては。けれどその思いを明確に把握したかのように、神々がその輪を縮め、一層囲いを小さくする。
「女神が居なくなった時、僕達は女神を探した。あらゆる次元、あらゆる世界へ捜索の手を伸ばした。けれど女神は見つからなかった。何故だと思う?」
「…わから、ない」
「そうだろうね。ここで僕達はある仮説を立てた。女神は完全に消えたわけではない。もしも輪廻の輪に入ったとして、女神は必ず自分の魂の気を分けた器に惹かれ、その器に宿るだろうとね。…いや、宿るというよりは元の一つの魂に戻るというのかな。融合、とも言えるかもしれない。ともかくそうして一つの魂に戻った女神は、すべての記憶を持ってその器に宿った。肉体の殻は深く、魂に刻まれた記憶を取り戻す術は無いだろう。でも、その器が本来あるべき場所に戻ったら? 女神自身が創生した世界に戻ったとしたらどうなると思う?」
「…………」
「肉体の殻が外れ、本来あるべき姿に戻った魂は、一体どうなるんだろうね? ねえ、どう思う、由美?」
いや、女神イスカヴァル。
イリスは仄暗く笑った。
「ちがっ! 私は、木崎由美で…!」
「それは肉体の器の名、でしょう? 女神」
それまでしゃべることの無かったエンラが呆れを含んだ笑みで由美の目を鋭く射抜いた。
「ふふっ。神々の誰も知らない僕の真名を言い当てることが出来るのは、女神イスカヴァル唯一人。言い逃れは出来ないよ? ねえ、イスカヴァル」
「女神…」
手を伸ばしてくるジャルタの手を叩き落し、由美はその場に蹲った。
耳を塞ぎ、これ以上は聞きたく無いというのに、漏れ聞こえる声は由美を優しく糾弾する。
「違う、ちがう! 私は由美で、」
「認めた方が楽なのにね、女神」
「フェルト…」
「待ちました。二十年も。それがどれ程残酷な時間だったことか、女神、あなたは知る由も無いでしょうね」
「ツイ…」
「漸く戻ってきた。女神」
「ガル…」
「お帰りなさい。私達の女神」
うっそりと嗤うクラウス、そしてその背後で同じような形容し難い笑みを浮かべる神々を、イスカヴァルは呆然と見返した。
☆
「いつから気付いていたんですか? クラウス」
「最初からですよ。娘…いや、女神を迎えにいったあの日から、ずっと私は彼女が女神であると確信していました。ですがそれはツイも同じでしょう?」
「ええ。ですがどうして言わなかったのです、クラウス? あなたは、あなた自身が女神であると」
「ちょっとした意趣返しですよ」
濃紺の直裾に淡い白藍の褙子を羽織ったクラウスは、くつくつと喉奥で笑い、灰昏い笑みを浮かべる。
「私達を忘れ、一人幻想の世界に溺れる女神に、ね」
ツイはふっとため息を吐き、恐らくはクラウスと同じ笑みを浮かべているだろうことを自覚しながら、耳を研ぎ澄まし、女神が居るであろう私室の方角へ視線を向けた。
「女神はまだ移動していませんね? ツイ」
「ええ。まあ側にはフェルトが居ますし、逃げ場等ありませんから」
「それは重畳」
クラウスは組んでいた腕を解き、だらしなく流していた長髪を結い上げ、さっと身を翻した。向かう先など、一つしかない。
「女神は籠の中の鳥、ですか」
「元の場所にお連れしただけですよ、ツイ。在るべき居場所へね」
「クラウス」
「分かっていますよ。女神を追い詰めるようなことは致しません。まあ、女神次第ではありますが」
クラウスはツイを流し見ると、ドアに手を掛けた。
「逃がしはしません。絶対に」
ツイの答えを待つことなく、クラウスは出て行った。ツイは一つため息を吐くと、クラウスに遅れて自身も部屋を出た。この部屋の主たるイリスは、既に女神の居室でフェルトと共に居る。
ゆっくりとした歩調で女神の私室を目指し、ツイはふと空を見上げた。
向かう先に待つ愛しい人の姿が最早この世界から消えることなど無い。ならば急ぐ必要等無いのだ。
中庭を横切って草を踏みしめ、リュレーンの滝に辿り着いたツイは、そっと跪いて滝の水に指を絡めた。
女神、どうか諦めて下さいね。
あなたはこの世界の、たった一人の女神なのですから。
様々な記憶が残る滝を見上げながら、ツイはそっと水に唇を寄せた。