第4話 すれ違い side白石柚乃
今回初登場となる黒川麻美の親友
白石柚乃の視点で物語が進みます。
昼休みのチャイムが鳴ってしばらくすると、教室の入口から麻美が顔を覗かせた。
私と目が合ったところで小さく手を上げ、こちらへ向かってくる。
「麻美、今日はこっちで食べるんだ」
机の上に広げかけていた教科書を片づけながら声を掛けると、麻美はいつものように笑って頷いた。
「うん。柚乃のところで食べようかなって」
クラスが分かれてからも、一緒に昼を食べることは珍しくない。
私が麻美の教室へ行く日もあれば、こうして麻美が来る日もある。ただここ数日は、麻美の方からこっちへ来ることが少し増えた気がしていた。
去年までは同じクラスだったから、昼休みになれば机をくっつけ自然と一緒にお弁当を食べていた。わざわざ相手の教室まで行く必要もなかったし、気づけば昼休みが終わっていることも珍しくなかった。
2年生になってからは教室が離れてしまったけれど、こうして会いに来てくれるのは嬉しかった。
麻美は向かいの席へ腰を下ろすと、膝の上に弁当袋を置き、ゆっくり紐をほどき始めた。
私は鞄から弁当箱を取り出しながら、ふと思い出したことを口にする。
「そういえば、最近須藤君とはどうなの?」
特に深い意味はなかった。
麻美が須藤君を好きなことは、ずっと前から知っている。
去年はよく、須藤君に話しかけてもらったとか、帰り際にこんなことを言われたとか、本当に些細な出来事まで嬉しそうに話してくれた。
本人は普通に報告しているつもりらしいけれど、須藤君の名前が出る時だけ声が少し弾むから、隠しているつもりでも分かりやすい。
いつも通り今日も何か聞けるかと思い、麻美の様子を伺うと、弁当袋へ伸びていた麻美の手が止まっていた。
「……もういいかな」
聞き間違いかと思った。
麻美は少し遅れてこちらを向くと、少し困ったように笑いながら続きを話した。
「須藤君のこと。もういいの」
その笑顔を見た瞬間、何となく嫌な感じがした。
口元は笑っているのに、いつも自然に合うはずの目が、私の顔を避けるように少し下を向いている。
「急だね。この前まであんなに気にしてたのに」
できるだけ軽く返してみた。
もしかしたら、私が知らないところで何かあったのかもしれない。
他に好きな人ができたとか、須藤君が誰かと付き合い始めたとか。そんな話なら、私に遠慮する必要なんてないのに。
しかし麻美は、私の言葉に笑って返すこともなく、弁当箱を取り出しながら小さく首を傾げた。
「……そうだったっけ」
それだけ言って、蓋を開ける。
いつもの麻美なら、ここで少しくらい反論するはずだった。
「そんなに気にしてないよ」と言いながらも、結局は須藤君の話を始めてしまう。
そうやって何度も恋愛相談をしてきたのだから、今さら隠さなくてもいいのに。
私は弁当へ箸を伸ばしかけたが、麻美が何かを探していることに気づいて手を止めた。
弁当袋から取り出した箸箱を開き、中を見ている。
少しの間そのまま動かなかった麻美は、もう一度弁当袋へ手を入れると、底まで確かめるように指を動かした。
しかし、何も見つからなかったらしい。
「あれ……」
小さく呟いて、空になった箸箱へ目を落とす麻美に、私は思わず身を乗り出した。
「どうしたの?」
「お箸、忘れたみたい」
麻美はそう言って笑った。
いつもの麻美なら、こんな時はもう少し慌てそうなものだけれど、今日は空の箸箱を見つめているだけだった。
私は鞄の中から予備で入れていた割り箸を取り出す。
「はい。一本余分に持ってきててよかった」
「……ありがとう、柚乃」
受け取った麻美は、ようやく少し安心したような顔で袋を開けた。
大したことではない。
お箸を忘れることくらい、誰にでもある。
しかし麻美は、箸箱だけ持ってきて中身を忘れるような子だっただろうか。
昔から持ち物の準備はきちんとする方だったし、忘れ物をしても、たいていは自分で気づいて慌てていた。
今日の麻美は、そのどちらでもなかった。何となく無いことを予感していたかのように感じられた。
その事を気にしながら見ていると、麻美が椅子を引いた拍子に足元が見えた。
上履きが汚れている。
つま先だけではなく、側面にも黒い擦れたような跡が残っていた。
麻美は昔から物を丁寧に使う。上履きだって汚れれば持ち帰って洗うし、少しでも傷がつけば気にするような子だった。
その麻美の上履きに、あんな汚れがついたままになっている。
「……麻美、それどうしたの?」
私の視線を追った麻美が、自分の足元へ目を向けた。
「ああ、これ?」
一度だけ上履きを見下ろしたあと、何でもないことのように笑った。
「ちょっと汚しちゃって」
「そっか。結構汚れてるね」
「うん。帰ったら洗わないと」
そう言って麻美は弁当へ視線を戻した。
私もそれ以上は聞かなかった。
ただ、さっきの空の箸箱と、汚れた上履きが頭から離れない。
いつもなら、麻美が忘れ物をしたって、少し汚れた靴を履いていたって、こんなに気にはならなかったと思う。
でも今日は違う。
最初に須藤君の話をした時から、麻美の様子がどうにもおかしかった。
「……柚乃?」
気づけば麻美がこちらを見ていた。
「あ、ごめん。何でもない」
慌てて弁当へ箸を伸ばす。
麻美もそれ以上は聞いてくることはなく、私たちはしばらく他愛のない話をしながら昼食を続けた。
昨日の授業で先生が言い間違えたことや、購買に新しいパンが並んでいたこと。
麻美も時々笑っていたし、こちらの話に相槌も打ってくれた。
けれど、ふと会話が途切れた時、麻美の視線が教室の時計へ向いた。
しばらくして、また時計を見ている。
まだ昼休みが始まって少ししか経っていないのに。
前なら二人で話し込んで、予鈴が鳴ってから慌ててお弁当を片づけることも珍しくなかったのに。
今日は何度も時間を確かめている。
それなのに、急いで食べ終わろうとしているわけでもない。
おかずを少しずつ口へ運び、時々箸を止めては、また時計を見る。
「……麻美」
呼びかけると、麻美がこちらを向いた。
「ん?」
「最近、何かあった?」
口にしてから、少し聞き方が悪かったかなと思った。
麻美は割り箸を持ったまま、きょとんとした顔で私を見ている。
「何かって?」
「学校で。別に大したことじゃなくてもいいんだけど、最近ちょっと元気ないような気がして」
麻美はすぐには答えなかった。
一度だけ弁当へ目を落とし、それから私を見ると、さっきと同じ笑い方をして、「何もないよ。大丈夫」とだけ答えた。
やっぱり。
その笑い方を見て、胸の奥が少し重くなった。
小さい頃から、麻美は嘘が上手くない。
何でもない時はもっと自然に笑うし、嫌なことがあれば、黙っていても顔に出る。
でも、本当に知られたくないことがある時だけは違った。
無理に笑って、何でもないように振る舞う。
そして、相手がそれ以上聞かなくなるのを待っている。
「その笑い方、昔から分かりやすいよ」
思わずそう言うと、麻美の口元から笑みが消えた。
私が何かを続ける前に視線を落とし、弁当の中のおかずを箸でつまもうとする。
しかし、その手は途中で止まってしまった。
「……別に責めたいわけじゃないよ」
私は少し声を落として続きを話した。
「何かあるなら、話してくれてもいいんだよ。一人で抱え込まなくてもいいんだから」
麻美は俯いたままで返事をしなかった。
教室の中では、他の席からの笑い声や、誰かが椅子を引く音、廊下を走る音が雑音のように聞こえてきた。
いつもなら気にも留めない昼休みの雑音が、今日は妙にはっきり聞こえる。
麻美は俯いたまま、箸を持つ手を膝の上へ下ろした。
その姿を見ているうちに、さっきの言葉がもう一度頭に浮かんだ。
『須藤君のこと。もういいの』
あれほど好きだった須藤君のことを、突然もういいなんて言うだろうか。
「……ねえ、麻美」
私は少し迷ってから、もう一度口を開いた。
「さっき須藤君のこと、もういいって言ったよね。あれも、何か関係あるの?」
麻美俯いたまま肩を震わせた。
そのまま顔を上げることもなく、じっと弁当を見つめている。
私は返事を急かさない。
聞きたいことはたくさんある。
でも、ここで無理に問い詰めたら、麻美はきっと何も話さなくなる。
何年も一緒にいたから、それくらいは分かる。
しばらくして、麻美が小さく息を吐いた。
「……私が須藤君と話さなかったらいいだけだから」
最初は何を言われたのか分からなかった。
麻美は顔を上げないまま、言葉を続ける。
「関わらなかったら、そのうち終わると思うから」
その声には、さっきまでの作り笑いがなかった。
麻美の視線は弁当のそばに置かれた箸箱へ落ちている。
蓋の閉じられた箸箱と、私が渡した割り箸。
それから、机の下に見えている汚れた上履き。
別々のことだと思っていたものが、急に同じところへつながったような気がした。
「……誰かに、何かやられてるの?」
麻美は答えなかった。
しばらくして、持っていた割り箸をそっと弁当の上へ置いた。
その動きがあまりにも静かだったので、私も何も言えずに待っていると。
「須藤君と話すと……色々言われるの」
やっと聞こえた声は、ほとんど弁当へ向けられていた。
私は思わず身を乗り出した。
「色々って、誰に? 何て言われるの?」
麻美の肩が小さく揺れた。
その反応を見て、すぐに言葉を止める。
知りたい。
誰がそんなことをしているのか、何を言われているのか、今すぐ全部聞きたかった。
しかし麻美は、もう十分苦しそうな顔をしていた。
「……ごめん。急に聞かれても困るよね」
そう言うと、麻美は小さく首を横に振った。
違う、と言いたそうに口を開いたものの、結局何も言わずに俯いてしまった。
私はもう一度、麻美の上履きへ目を向けた。
さっきは単に汚しただけだと思おうとしていた。
箸を忘れたのだって、たまたまだと考えていた。
でも、今はもう同じようには見られなかった。
「……須藤君は知ってるの?」
麻美はゆっくりと首を横に振った。
その返事を見た途端、考えるより先に身体が動いてしまった。
「じゃあ、須藤君にも話そう。知らないままにしておくより、ちゃんと知ってもらった方がいいと思う。私も一緒に――」
「だめ!」
思ってもいなかった大きな声に、立ちかけた身体が止まった。
麻美自身も驚いたように目を見開いている。
気づけば、麻美の手が私の制服の袖を強く掴んでいた。
普段は人の話を遮ることなんてほとんどしない子だ。
自分の意見を言う時でさえ、相手の顔を見ながら遠慮がちに話すことが多いのに。
そんな麻美が、私の言葉を遮ってまで止めた。
「……だめ」
二度目の声は、さっきとは比べものにならないくらい小さかった。
しかし、袖を掴んだ手は離れてはいない。
「須藤君に知られたら、きっと何かしようとするから。そうしたら、もっと……」
そこで言葉が途切れる。
麻美は何かを言いかけたまま俯き、私の袖を握る指に少しだけ力を込めた。
私は立ちかけた姿勢のまま、麻美の顔を見て尋ねた。
「……もっとひどくなるかもしれないってこと?」
小さく頷く。
その返事を見て、私はゆっくり椅子へ座り直した。
納得したわけじゃない。
誰かから嫌なことをされているのに、麻美が須藤君から離れれば済むなんて、どう考えてもおかしい。
それに、須藤君だって何も知らないまま避けられているのなら、きっと理由が分からなくて困っているはずだ。
「でもさ、だからって麻美が全部我慢すればいいってことにはならないでしょ。須藤君と話したいなら、普通に話していいはずじゃん」
麻美は俯いたまま、私の袖を握っている。
「私が須藤君と話さなかったら、それで済むから」
「済んでないよ」
思ったより強い声が出た。
済んでないよ……昔から麻美はそうだ。周りの人を優先して自分は後回し、周りの人は済んでいるかもしれないがそれだと麻美が済んでない。
麻美の肩が僅かに縮こまるのを見て、私は慌てて口を閉じた。
怒りたい相手は麻美じゃない。
それなのに、目の前で何もかも諦めたようなことを言われると、どうしても黙っていられなかった。
少し離れた席で笑っていたクラスメイトが、こちらへ一度だけ顔を向けた。
私はそれに気づき、声を落とした。
「……ごめん。怒ってるわけじゃないんだよ。ただ、そんなことされてるのに、麻美が我慢しなきゃいけないのはおかしいと思って」
麻美は何も言わなかった。
私の袖を掴んだまま、じっと俯いている。
その姿を見ていると、さっきまで頭の中にあった言葉が、少しずつ違うものへ変わっていった。
誰がやったのか、何をされたのか。
そんなことよりも、どうして麻美が私に何も話してくれなかったのかが気になってしまった。
「……なんで、何も言ってくれなかったの?」
自分でも驚くほど弱い声になった。
麻美は少しだけ顔を上げて、私と目が合いそうになったところで視線を落とし、袖を掴んでいた手を緩めかける。
しかし、完全には離さなかった。
「柚乃まで何かされたら嫌だから」
思わず顔を上げる。
「……私?」
麻美は小さく頷いた。
「柚乃が動いたら、柚乃まで何かされるかもしれないし……須藤君だって巻き込みたくない」
最後の方は、ほとんど聞き取れないくらい小さな声だった。
麻美の手が、ようやく私の袖から離れる。
強く掴まれていたところには、皺が残っていた。
私はその皺を見つめながら、言い返す言葉を探した。
さっきまでは、どうして黙っていたのか分からなかった。
でも、その理由を聞いてしまうと、簡単には責められない。
麻美は昔からそういう子だった。
自分が困っていても、誰かに迷惑を掛けるくらいなら一人で何とかしようとする。
小学生の頃だってそうだった。
困っているのに「大丈夫」と笑って、あとから私が気づくことが何度もあった。
そのたびに、もっと早く言ってくれればよかったのにと思った。
高校生になっても、まだ同じことを繰り返している。
いや、今回ばかりは、そんなふうに簡単に言える話じゃないのかもしれない。
麻美が私に何も言わなかったのは、信用していないからじゃない。
私が何かしようとすることを、きっと分かっていたからだ。
「……親友なんだから、少しくらい頼ってよ」
ようやく口にできたのは、それだけだった。
麻美はすぐには答えない。
一度だけ窓の方へ目を向け、それからゆっくり私を見る。
「親友だからだよ」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
麻美は私を遠ざけたいわけじゃない。
それくらいは分かる。
でも、私は麻美が一人で傷ついているのを見ていたくない。
それなのに麻美は、私が傷つくかもしれないからと、何も言わずに全部抱え込もうとしている。
私はもう一度、机の上の空になった箸箱を見た。
お箸がなくなっていただけなのに、さっきは何も気づけなかった。
上履きの汚れだってそうだ。
今日まで何度も一緒に過ごしていたのに、私は麻美がこんな思いをしていることを知らなかった。
「……あんなに須藤君のこと好きだったのに」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
麻美の目が僅かに揺れていたが、否定はしなかった。
膝の上で重ねた指先へ視線を落とし、しばらく黙っていたかと思うと、小さく口を開く。
「……だからだよ」
その消えそうな言葉を聞いて、何も言えなくなってしまった。
須藤君のことが好きだからこそ、麻美は離れようとしている。
それが麻美にとってどれほどつらいことなのか、私には想像することができない。
でも、本当は離れたくないんじゃないの。
そう聞きたかった。
聞けばきっと、麻美はまた困ったように笑うのだろう。
私が何かしてあげたいと言えば、また首を横に振るのかもしれない。
それでも、どうにかしてあげたかった。
目の前にいるのに、手を伸ばしても届かないような気がした。
その時、昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
それまで好き勝手に話していた教室の空気が少し変わり、周りでは弁当箱を閉じる音や椅子を戻す音が重なり始める。
麻美もその音に気づいたように顔を上げ、ゆっくり弁当の蓋を閉めた。
使い終わった割り箸を袋へ戻し、空の箸箱と一緒に片づけていく。
私は何か言おうとしたけれど、上手く言葉が出てこない。
手伝うと言えば止められる。
でも、何もしないまま見送ってしまっていいのだろうか。
麻美は弁当袋を持って立ち上がると、私の方を見た。
「……ごめん」
何に対しての「ごめん」なのか分からない。
隠していたことなのか。
心配を掛けたことなのか。
それとも、私の気持ちに応えられないことなのか。
私は少し迷ったあと、小さく首を横に振った。
「……ううん」
その言葉が今の私の精一杯だった。
私の言葉を聞いた麻美は、それ以上何も言わずに弁当袋を抱えて教室の出口へ向かっていく。
いつもなら最後に何か一言くらい言ってくれるのに、今日は振り返ることもなく、その背中が扉の向こうへ消えてしまった。
私は何も出来なかった。
麻美が誰から何をされているのか、何も分かっていない。
このまま放っておくなんてできない。
しかし、もし私が勝手に動いて、そのせいで麻美がもっと嫌な思いをすることになったら。
さっき袖を掴まれた時の感触を思い出すと、簡単には立ち上がれない。
ふと、自分の制服へ目を落とすと、麻美が掴んでいたところに、小さな皺が残っている。
指先で伸ばしてみても、すぐには元に戻らない。
『須藤君のこと。もういいの』
最初にそう言った時、麻美は笑っていた。
でも、今ならはっきり分かる。
あの時の笑顔も、何でもないように話そうとしていた声も、全部無理をしていたものだったと。
そんなに簡単に好きじゃなくなれるなら、あんな顔はしない。
私が知っている麻美は、須藤君と少し話せただけで嬉しそうに笑う子だった。
その気持ちが、なくなったとは到底思えない。
麻美は須藤君を諦めたんじゃない。
まだ好きなのに、自分から諦めようとしている。
何年も隣にいた私には、その確信だけはあった。
お読み頂きありがとうございます。




