司教と司祭
アテナス内にある行政区と呼ばれる区画には、王城を含む王国政府に関する重要な施設が密集して建てられている。
行政区は街の中央から見るとアテナスの面しているシナイ湖の方にあり、特に王城は湖の上に張り出すような形で建てられている。
そのために風の無い日には、シナイ湖の湖面に王城が映り込んだ非常に美しい光景を見ることができる。
その王城内の一室で、一人の男がデスクで執務に勤しんでいた。
きれいに揃った黒髪を撫で付けた、神経質そうな目つきの男だ。
白を基調としたその服装にあしらわれた意匠から、彼が宗教関係の人間であることがわかる。
細身の眼鏡に白い手袋を身に着けた品性を感じさせる姿は、いかにも身分の高い人間という雰囲気だ。
彼自身だけでなく部屋の内装や調度品の質の高さからも、王城の中でも重要な人間として扱われていることがわかる。
彼の名はアレクセイ・マグヌス。
国王の直轄地であるこの地区一体における教会の責任者だ。
役職は司教であり、この街で司祭を行っているエレナの直属の上司である。
アレクセイは室内に備え付けられた本棚と机を何度か往復しながら、机の上に積まれた書類の山を次々と処理していく。
彼の事務処理能力の高さにより、うず高く積まれていた書類はみるみるうちに片付けられていった。
書類の山が最初の二割ほどの高さになった頃、室内にドアをノックする音が響く。
「アレクセイ様、エレナです。入室してもよろしいでしょうか」
「ああ、あなたですか。お入りなさい」
外から聞こえた声に答え、アレクセイは顔を上げて手に持っていた書類を置く。
アレクセイの返答を受けて入ってきたのは、今日大聖堂で礼拝を済ませてきたエレナだ。
「執務のお邪魔をして申し訳ありません。少々お時間をいただけますでしょうか」
「構いませんよ。ちょうど一息入れようと思っていたところですから」
そう言いながら執務用の机を立ち、応接用のスペースへと移動する。
今日は特に訪問を受ける予定はなかったはずだが、と思いつつアレクセイは向かいの椅子を勧めながら要件を問う。
「それで?今日はどういった要件でしょうか」
「はい。本日の礼拝の後、とある方からアンデッドの情報提供がありました。つきましては、その討伐に向かう許可をいただきたく思います」
目の前に座ったエレナからの『アンデッド』という言葉に、アレクセイの眉がピクリと反応する。
「……一応聞いておきますが、確かな情報ですか?」
「情報提供者の身元は不明です。しかし本人が同行して案内すると言っている以上、完全な嘘とは考えにくいかと」
「その者の仲間が待ち伏せをして、あなたを襲う算段をしているという可能性は?」
「聞いている場所からすると、武装した集団が滞在するとは考えにくいかと。それに、そこまでして襲う価値が私にあるとは思えません」
(そうとも言い切れないと思いますがね)
アレクセイはそう考えながら、エレナを見る。
彼女のような若く見目麗しい女性の体を好きにしたいという男は、そこら中にいくらでもいるだろう。
教会の司祭という立場の人間を襲うことのリスクは常識的に考えればわかることだが、人というのは時に信じられないほど愚かな判断を下すものだ。
そしてエレナ自身の性質として、アンデッドがいるという情報があればその出処が多少怪しくても行動に移そうとするのではないか、という懸念もあった。
「……まぁいいでしょう。それで、その場所とは?」
「王都から見て東にあるタマイラ山脈の麓に広がる森の中。そこにあるギルドにも未登録のダンジョンだそうです」
「ほう、あのあたりは確か……」
「はい、先日メディス家が国王から買い受けた領地の中です」
「なるほど、そういうことですか」
アンデッドが潜むという場所がどこかを聞いて、アレクセイは合点がいったという風に頷いた。
あの貴族が国王から買い受けた私有地であれば、武装した人間がおいそれと踏み込むことはできないだろう。
誰も見えている虎の尾を踏むようなことはしたくない。
それにこのあたりは国王の直轄地であることもあって衛兵の数も多く、国内の他の地区と比べても治安が良い。
これらのことから武装した人間が集団でたむろしているようなことは無いだろうと、エレナは考えているのだ。
そして、貴族の私有地であるということが示す意味はそれだけではない。
「つまりアンデッド討伐という名目があるとはいえ、貴族の私有地内に武装して踏み込む以上は私の承諾が必要だと考えたわけですね?」
「はい、ご推察のとおりです」
状況を把握したアレクセイは、指先で軽く眼鏡に触れながらメリットとデメリットを考える。
メディス家はこの国の中でも最も有力な名門貴族だ。
教会勢力と表立って対立しているわけではないが、互いの影響範囲がぶつかって多少の小競り合いが起こることはある。
メディス家であっても教会の言うことは簡単に断れないということを周囲に示すためにも、ここらで武装した人間を踏み入らせて文句を言わせなかった、という事実を作っておくのは悪くないように思える。
それに私有地にアンデッドがいたという事実があれば、脅しの材料にはならなくとも牽制程度には使えるかもしれない。
無論アレクセイは、エレナにそのような意図があるということを伝えるつもりはない。
考えをまとめて彼女の方へ視線を戻すと、威厳のある口調で結論を告げる。
「いいでしょう。エレナ司祭、その地にアンデッドの討伐へ向かうことを許可します。かの貴族については、私の方で話を通しておきましょう」
「ありがとうございます、司教様。では早速明朝、情報提供者と共に街を出立いたします」
そのまま一礼して部屋から退出しようとしたエレナの背中を、アレクセイは呼び止める。
「ああ、最後に一つだけ」
「なんでしょうか」
「以前から言っていることですが、あまりやりすぎないようにお願いしますよ」
「……はい、理解しております」
アレクセイの言葉に、ドアノブに手を掛けたままのエレナは背中越しに少し間を空けて答える。
エレナのその様子を見てアレクセイはふっと息を吐く。
理解しているとは言いつつも、内心ではわだかまりを感じているのがあからさまに見て取れた。
部下になった時から分かっていたことだが、彼女は隠し事が下手すぎる。
「まだ、アンデッドが憎いですか?」
「教会の人間として、アンデッドを憎むべき存在と考えることは大きく間違っていないと考えております」
「それは、まぁそうです。ですがあなたの場合は経歴が……そう、少し人と違いますからね」
アレクセイははっきりと言及しなかったが、何の話をしているかはエレナにも伝わっているはずだ。
少しだけ身を固くしたのが後ろ姿からもはっきり分かる。
「あなたの村に起こったことは、当時の教会の人員不足を考えると防ぎようのないことでした。あなたの弟のことも……」
「それも、理解しております。そのことで教会を恨んだりはしておりません」
アレクセイの言葉を遮るように、エレナは少し早口で言う。
上司に対しては無礼とも思える行為だが、彼女の事情を知っているアレクセイは特にそれを咎めることはしなかった。
エレナ・フローレンスの生まれた農村は、もうこの世には存在していない。
彼女が子供の頃、アンデッドの王とも言われる種族である吸血鬼の襲撃によって壊滅した。
遅れて駆けつけた教会の人間が生き残った彼女を農村の跡地で発見し、保護された彼女はそのまま教会の中で生きてきた。
「あなたの働きによって、この地区内におけるアンデッドによる死者は激減しました。それは賞賛されるべきことです。しかしあなたの働きが少々、そう、行き過ぎたものにならないかと懸念する者が教会内にいることも、また事実です」
「……はい」
「どうでしょうか。今回のことが終わったら、しばらくアンデッドの討伐から離れてみては?最近はこの地区のアンデッドの活動もだいぶ落ち着いてきていますし、祈りと奉仕の中に身を落ち着けるのもまた、聖職者の大事な生き方です」
「……お気遣いありがとうございます。ですが、私はアンデッドと戦い続けたいと思います」
そう言うとエレナはドアノブから手を離し、アレクセイの方へと向き直る。
「それだけが、生き残ってしまった私が教会にいる意味なのです」