EP〜藍色の竜編〜 第一話 モーネの旅立ち
ーー村は眠っていた。
周囲を険しい山で囲まれ、日の出は遅く夜が早い。
板と藁を組み合わせた簡素な作りの家から、点々と灯りがもれている。
その中でも一、二を争う草臥れた家のひと部屋で、白髪混じりの長髪を後ろへ束ねた男と、月のような色をした銀色の髪の少女が向かい合っていた。
「なあ、モーネ」
「どうしたの? お父さん」
テーブルの上で、蝋燭がかすかに揺れる。
月明かりを頼りに過ごす親子にとって贅沢な代物は、もう間もなく燃え尽きようとしていた。
まだ幼い少女はそんな炎を見つめながら、燃え尽きる前の儚さに目を細める。
対して、父親はジッとモーネの瞳を見据えたまま、絞り出したかのような声で伝えた。
「……しばらくお別れだ」
「えっ……」
じりじり、と蝋燭が大気を焦がす音が、閑寂な室内で右往左往する。
壁をつたい、床を跳ね、やがて窓から月へと向かうように。
父親の声が、モーネの耳へやけに残った。
ーー翌日の朝。
モーネが古びた布団から顔を出すと、父親はどこにもいなかった。
テーブルに置かれた一枚の絵には、この世界で信仰されている神が描かれている。
その横に書き置きが一つだけ、書き殴ったような字で記されていた。
『神の御加護がありますように』
モーネは薄汚れた紙を手に取り、父親の作品に目を通した。
「……綺麗だな」
窓越しに届く朝陽がまるで神の慈悲を表しているかのようで、モーネは書置きをそっと棚にしまった。
♦︎♦︎♦︎
「ゴッソさん、ご飯できましたよ」
「ああ。ありがとう」
鬱蒼とした森の中、唯一の光が辺りを照らしている。
少女は湯気の立ち上るシチューを木の器へ注ぎ、隣に座る精悍な男へ差し出した。
ゴッソは温かい食事なんて、もう何日も口にしていなかった。
ゴッソはスプーンを手に取り、大きめに切られた野菜を口へ運ぶ。
シチューの甘さ、野菜の甘さ、絶妙に効いた塩加減が、喉から胃へ流れていくと体の芯へ染み渡った。
「……うまいな」
「えへへ。でしょう? 得意料理なんです」
宝石のような翠の瞳が、嬉しそうに輝いた。
「モーネは、ずっと自分で料理を?」
十五歳にしては料理がうまいな、と感心する。
ゴッソは熱々のジャガイモを口の中で転がしながら、モーネに尋ねた。
「そうですね。お父さんがいなくなってから、ずっと」
「そうか……」
「あ、でも! 隣に住んでたディアーさんは、よく晩ごはんを一緒に食べてくれましたよ!」
つとめて明るく、モーネは笑ってみせた。
ゴッソは言葉に詰まり、淡々とシチューを口へ運ぶ。
森の静けさのせいか、爆ぜる焚き火がやけにうるさく感じた。
「そろそろお洗濯したいですね」
瞳の色と同じ厚手のワンピースは、ところどころほつれている。
悪臭とまではいかないが、気になる程度の汚れが付着していた。
「もう少し歩けば川があるだろう。そこで洗うといい」
「うーん……水が出る魔道具でもあればいいんですけど」
「それはとても高価だろうな」
「我慢するしかありませんね……」
がっくりと肩を落とし、垂れ下がった頭を軽く撫でたゴッソは、見張りは任せて眠るように促した。
モーネは薄く微笑むと、ゴッソの隣でマントを広げ、無造作に寝転がる。
「おやすみなさい。ゴッソさん」
「ああ。おやすみ。モーネ」
りんりん、と虫が鳴く。
(ああ、そういえばこんな夜だったな。モーネと出会ったのは。)
ゴッソは爛々と輝く星空を見上げ、つい数日前の出来事を思い返した。
♢
「じゃあ、行ってくるね! ディアーさん!」
「……本当に行くのかい?」
「うん!」
早朝から、モーネは隣の家を訪ねた。
何年も世話になった恰幅の良い女性へ、旅立ちの挨拶をするためだ。
「……ちゃんと帰ってくるんだよ」
「お父さんを見つけたら、必ず」
モーネの瞳には強い意志が宿っていて、まるで娘のように思ってきた存在を慈しむように、ディアーはそっと抱きしめた。
少しばかり身を委ねていたモーネは、やがて背を向けて村を出る。
一度だけ振り返り、いつまでも手を振っているディアーへ頭を下げ、鼻を啜って顔を上げた。
いくつかの山を越えていくと、小さな町がある。
モーネの住んでいたエルアール村から、少女の足では数週間はかかるかもしれない。
ましてや、大きなたすき掛けの鞄と背中にキャンバスを背負っているのだから、ペースは他人よりも遥かに遅かった。
さらに、モーネの視界いっぱいに広がる景色や、足下で凛と咲く草花なんかに目を奪われてたびたび足を止めてしまう。
山の麓につくころには、すっかり陽は落ちてしまった。
「……綺麗な月だなぁ」
満月のおかげで歩けないほどではなく、モーネは逡巡して歩き始める。
しかし山へ入ってすぐに後悔した。
「……暗い」
頭上を塞ぐ木の葉が月の光を遮り、灯りがなくては足元が見えない。
何年も踏み固められた道だが、木の根が伸びていて罠のように足を引っかける。
「なにか松明になるものは……」
鞄を漁り古びたシャツを一枚取りだして、調理用に持っていた油を染み込ませたモーネは、それを手頃な木の枝に巻きつけて火をつけた。
ディアーが持たせてくれたものの中にマッチがあってよかったと、モーネは胸を撫で下ろした。
ぼうっ、と辺りが照らしだされ、彼女は迷うことなく歩きだす。
やがて別れ道に差し掛かり、どちらへ向かおうか悩んでいると、地面に引きずったような跡を見つけた。
「魔物かな……」
念の為に魔除けの聖水をひと振り自分へ浴びせ、忍足でその跡を追う。
すると道を別つ大樹の裏で、項垂れてみじろぎひとつしない男が転がっていた。
「ひどい怪我……薬を塗らないと……」
何年もかけて作った治療用の軟膏を、目に見える範囲で塗っていく。
傷口へ触れるたび、男は痛そうに呻き声をあげた。
「すぐ効きますからね」
村の薬師秘伝の軟膏は、みるみる傷口を塞いでいく。
念の為にと、モーネは魔除けの聖水をあたりへ撒いた。
ディアーが持たせてくれた高価なものだが、人助けに使うならば許してくれるだろうと惜しみなく。
「では、私は行きますね」
返事はない。
ぺこり、と頭を下げ、モーネは再び山の道へ戻って行った。
山の中腹へ差し掛かり、月は頭上の真上にきていた。
「このあたりで休もうかな」
山道から逸れた土の上へキャンバスと鞄を置き、薪を集めて火をつけた。
一人での生活が長かったおかげで、ひと通りのことは自分でできる。
「ふぅ……」
残り微かな魔除けの聖水が入った瓶を指先で摘んで振り、モーネはため息をついた。
町まで持つかどうか怪しい。
けれど、あのままだと男は魔物に襲われていただろう。
世界には魔力を蓄積し、変異した動物がうようよしている。
人々はいつからか、それを魔物と呼び出した。
魔物には最大の警戒を、というのが冒険者の常だが、モーネはそんなことも知らなかった。
ひとつ目の山を越え、二つ目を下っていく途中で、魔除けの聖水は無くなってしまう。
「とりあえず火を焚かないと……」
なるべく死角になる場所を選び、モーネは薪を集めて火をつけた。
村を出てから四日が過ぎ、本来ならとうに町へついているころだ。
モーネはなるべく眠る時間を減らして、警戒と移動に当てているつもりだった。
だが、道のりは険しく、舗装されていない道は速度を上げて歩けない。
小柄な少女の足では、思っていた以上に辛い道のりだった。
しかし、モーネは俯かなかった。
転んでも、木の枝に頬を切られても、表情に影を落とすことはない。
新鮮だった。
生まれ育った平和な村ではなく、危険が傍に潜むこの瞬間が。
ぱちぱち、と割れていく薪と、ゆらめく炎を見つめていると、不思議と心が落ち着いてくる。
「あの人……無事かな?」
先日見かけた男は無事に山を降りれただろうか、と薪をくべながら考えていると、がさがさと茂みが揺れた。
『グルルル……』
低い唸り声がする。
腹の底を叩くような恐怖が湧いてきて、モーネは思わずキャンバスを手に取った。
体を隠すように前へおき、可能な限り身を潜めて息を殺す。
「ハァハァハァ……」
心臓の音がやけにうるさく、モーネは短い呼吸を繰り返していた。
じろり、と闇の中から何かが覗いている。
モーネの頬をひとすじの汗が伝った。
♢
「うっ……ぐっ……」
男は呻き声をあげた。
虫の声だけが響く静かな夜だった。
「生きて……いるのか……」
兵に追われ、魔物と戦い、たくさんの血を流して転がったはずなのに、体を見渡すと傷は塞がっている。
「……この匂いは」
鼻を動かし、あたりに広がる独特のハーブを煎じた香りが、誰かが魔除けの聖水を撒いてくれたことを教えてくれた。
「……酔狂なやつもいるもんだ」
薄汚れた服を払い、体に異常がないか見渡す。
黒いコートや、麻のズボン、革の胸当てに血が滲んでいるものの、大きな傷はない。
「治療したうえに、聖水まで撒いていくとはな……聖女でも通ったか?」
そんなわけないか、と男は鼻で笑った。
都を追われた自分を助けるものなんて、よほどのイカれた金持ちか聖女ぐらいだろうと理解している。
「ん?」
足元にカビの生えたパンが転がっていた。
ずいぶん長いこと気絶していたらしい。
男はパンを拾い上げると、気にした様子もなく口へ運んだ。
戦場では当たり前の食事だった。
「……まずい」
口に残った後味を吐き捨てて、男は山道へと歩いていく。
地面をよく観察すると、小さな足あとがあった。
身長は百五十センチにも満たない、小柄な人間の踵の後。
「……本当に聖女か?」
他にめぼしい跡は残っていない。
「……礼でもしにいくか」
男は背負った長剣の柄を一度握りしめたあと、空を見上げて息を吐いた。
足跡の方向から、山をいくつか越えていくつもりなんだろうと考え、無造作に走り出したその速度は常人の域を遥かに越えている。
流れるような景色、かすかに残る血の匂い。
どこかで転んだのか、傷をおったのか。
足跡の主は、そんなに遠くまで行っていないはずだ。
「……ニ、三時間ってとこか」
あらゆる戦場を駆け抜けてきた経験が、自然と目的までの時間を教えてくれる。
夜が深まるにつれ、視界は悪くなっていくものの、夜目が効く彼には関係なかった。
「……煙か」
もくもくと木々の隙間から立ち上る煙が、人がそこにいるのだと教えてくれる。
さらに、魔物特有の肉が腐ったような臭いが鼻をついた。
「馬鹿が」
男は走る速度をさらにあげた。
まもなく襲われるであろう、足跡の主を救うために。
♢
「だ、誰かいるの……?」
自分の周囲を這いずる音に、耐えきれなくなったモーネは恐る恐る問いかけた。
物言わぬ影は、次第に数を増やしていく。
一つ、二つと、音の数が増えていく。
「うぅ……」
やがてモーネは立ち上がり、キャンバスを背負って駆け出した。
恐怖心に押し潰されそうになったからだ。
『グルアァァァァッッ!!』
「来ないでっ!!」
文句だけを残し、彼女は草木を掻き分けてがむしゃらに走る。
走る、走る、走る。
太ももの筋肉が悲鳴をあげても走った。
「なっ……」
やがて開けた場所にでると、熊のような魔物が待ち構えていたかのように腰を据えていた。
『グルゥ……』
にたり、と口を歪めたそれは、不自然に伸びた犬歯を見せつけ、ゆったりと身を起こす。
そして、じわりじわりとモーネへにじり寄った。
「だ、誰か……」
『グガアアアアッ!!』
「……たすけて」
両手を広げて立ち上がった魔物が、獲物をとらんと右手を振るう。
鋭い爪が、モーネの鼻先へ届く瞬間だった。
『ギ……?』
「……ったく。俺に聖水なんぞ使うからだ」
鉛色の長剣が、魔物の体を左右に断ち割ったのは。
血を吹き出して崩れ落ちる魔物。
雨のように赤い液体を浴びながら、男は精いっぱいの笑顔を作ってモーネを覗き込んだ。
「ありがとな。お嬢ちゃん」
それは戦場で決して見せることのなかった、ゴッソの柔らかな笑みだった。
♢
「……町まで送ったあと、どうするかな」
健やかな寝息を耳にうけ、ゴッソは視線を移した。
艶のある髪をひと撫ですると、まるで娘がなにかのように錯覚してしまう。
死を覚悟していたはずなのに、こんなにも穏やかな気持ちになれるとは思ってもいなかった。
「父親を探す、か」
途方もない話だ、とゴッソは火に薪を投げ入れた。
便りもない、あてもない、人脈もない。
そんな場面に自分が陥ったなら、どうするのだろうか。
数秒考えてみたが、「死んだことにする」以外の答えは浮かばなかった。
ふと、モーネの鞄から丸めた画用紙が飛び出ていることに気づく。
ゴッソは夜のおともに、興味本位でそれを手に取った。
「……上手いな」
広げてみると、この森で見つけた草花や小鳥、風景の絵が描いてある。
芸術に疎いゴッソには、さながら名画のように思えた。
「画家、か」
画家の多くは貴族にかかえられ、莫大な援助を得て活動している。
彼自身、貴族の屋敷でいけ好かない自画像を何度も見てきた。
そのせいか、画家に対して嫌悪感を抱いている。
あるものは名声を、あるものは権力を。
絵を描くことが手段となっている人間ばかりだった。
「お前もそうなるのかな?」
いまだ純白の少女が、願わくば違う道を歩んでほしいと、ゴッソはもう一度だけモーネの頭を優しく撫でた。
ーー翌朝。
「ふあっ……おふぁようございます」
「おはよう。紅茶でも飲むか?」
「ふぁい」
寝ぼけ眼をこすりながら、モーネは寝起きの猫のように体を伸ばした。
久しぶりにゆっくりと眠れたのか、昨晩より顔色がいい。
沸かしていたお湯をコップへ入れ、紅茶のティーバックを落としたゴッソは、起き上がったモーネへ手渡した。
「ほら」
「ありがとうございます。んー……ゴッソさんが淹れてくれた紅茶は美味しいですねー」
「ティーバックなんだから誰が淹れても一緒だ」
「そういう意味じゃないんですよ。もうっ」
遠回しに感謝を述べたつもりだが、ゴッソはしらっとした顔で紅茶を啜っている。
誰かと一緒に飲むのが美味しいのに、と胸のうちでため息をつきながら、大きな体へ隠れるように隣へ腰を下ろした。
「今晩には町へ着きますかね?」
「明日だな」
「……私の足が遅いからですよね」
「関係ない。俺には予定もないしな」
「……そうですか」
モーネのペースで歩いていると、山をひとつ越えるだけで丸一日を費やしてしまう。
くわえて、モーネは気になったものを長時間見つめてしまう癖があり、その時間は紅茶を数杯飲み干せるほどだった。
「そろそろ行くか」
「はいっ!」
ゴッソは焚火を消し、モーネは鞄をかけキャンバスを背負った。
「持とうか?」
「いえ。大丈夫です。これがないと落ち着かないんで」
布にくるまったキャンバスを首を捻って見つめたあと、モーネは穏やかに笑った。
「画家の命ってやつか」
「画家……じゃないですよ。私」
「違うのか? あんなに上手いんだから、てっきりな」
「あーっ!! 見たんですねーっ!」
「す、すまん。つい気になってな」
「恥ずかしいなーっ。もうっ」
頬を膨らませ、ゴッソが勝手に自分の絵を見たことを責めたあと、モーネはくるりと振り返り問いかけた。
「どうでした? 私の絵」
「ん……俺には芸術はわからんが、上手いと思うぞ。それに、感情が伝わる」
「感情?」
「ああ。描くことが好きだって感情が」
「えへへ……」
モーネは照れくさそうに感想を伝えるゴッソに満足したあと、前を向いて歩き出した。
ゴッソはその歩調にあわせ、ゆっくりと後を追う。
「ゴッソさん」
「ん?」
前を歩いていたモーネに呼ばれ、ゴッソは少し足を速めて隣へ並んだ。
「私、ただの絵描きなんです」
「絵描き……ね」
「はい。描きたいものを描くだけの、絵描きです」
「絵描きのモーネ、か」
「あはは。なんかそれ、いいですね」
「だったら俺はなんだ?」
「んー……都落ちのゴッソ?」
「……それはやめてくれ」
「あははっ」
「ふっ」
二人の会話が弾む。つい先日出会ったばかりなのに、まるで昔からの知り合いのように。
互いの命を救った縁が、二人の間を静かに繋いでいた。




