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中編

 かつて世界中が「冬までには終わる」と楽観していた戦争は、四年の歳月をかけて、地中海の眩しい青を血の色に塗り替えて幕を閉じた。

 サヴィーナ公国、マルヴェッリ家の屋敷。その風が吹き込むテラスで、ルチアは喪服の黒に身を包み、冷めた紅茶を眺めていた。


「ルチアさん、少し痩せたのではなくて?」


「いいえ、お義母様。少し眠れなかっただけです」


「無理をしないで。戦争のあいだも、終わったあとも、負傷兵の看護に身を尽くして……ずっと働き詰めだったでしょう」


 義母が自身の膝に広げていた編み物を止め、心配そうに声をかけた。ルチアはカップの底に沈んだ茶葉を見つめたまま、小さく頷いた。


「……あの子が亡くなってからもう一年。戦地に発ってからは、四年も経つのね。……結婚してすぐの出征で、あなたたち夫婦が一緒に過ごせたのは、ほんの数週間足らずだった」


 遠い海から吹いた風が、黒いヴェールを揺らす。

 政略結婚だった。海軍少佐だった夫はルチアが望んで選んだ人ではなかったが、心から彼女を案じてくれた人だった。

 出征の朝、夫は「すぐに戻る。それまでどうか元気でいてくれ。……帰ったら、もう少し君の話を聞かせてほしい」と言い残し、アルビオンの潜水艦によって沈められた。

 

「ルチアさん、あなたはもう十分すぎるほど、軍人の妻としても、我が家に対しても義務を果たしました。……だから、もう自由になっていいのよ」


「お義母様、それは……」


「離縁という形をとっても構わない。実家に戻ってもいいし、また別の誰かと新しい人生を歩む道だってあるわ。あなたはまだ二十四歳。この喪服の中で一生を枯らすには、あまりにも若すぎるもの」


 自由。


 ルチアはその言葉を、喉の奥で転がしてみた。

 かつて、海を越えて届く不器用な言葉だけが、彼女にとっての自由だった。けれど、その手紙はすべて暖炉で灰にした。あの日、彼女は自ら翼を折ったのだ。


「セルジオだって、それを望んでいるはずよ。……一度、故郷へ帰りなさい。あそこの海辺の屋敷なら、もうすぐレモンの花も咲くでしょう? ここにいては、思い出すのは硝煙の匂いばかりだわ」


 戦争は終わったのだと人々は言う。けれど、彼女が灰にした言葉も、海に沈んだ彼も、戻ってはこない。何もかもが終わったあとの虚しい思いだけが、霧のように人生を覆っている。


「ありがとうございます。……お言葉に甘えて、一度、あの砂浜を歩いてみようと思います」


 一月後、ルチアは最小限の荷物だけをまとめ、首都の喧騒を離れた。かつてレモンが香り、そしてギルバートとの出会いを運んできた、あの静かな海辺の街へと戻るために。



 ロセッティ家の館に戻ったルチアにとって、打ち寄せる波の音だけが唯一の慰めだった。

 潮の香りが混じった風が喪服の襟元を冷たく撫でて、ルチアは導かれるように、毎日夕暮れになるとあの入江へと足を向けた。


 かつて輝くような白砂が続いていたこの浜辺も、四年間の戦争がすべてを変えてしまった。波打ち際を歩けば折れたマストの破片や、どこの国のものかもわからぬ軍靴の底、錆びた薬莢が足元に転がっている。


「……あんなに、綺麗だったのにね」


 指先に触れる砂は以前よりも荒く、鉄錆の匂いが混じっている気がする。戦争は人々の命だけでなく、彼女が心の拠り所にしていた美しい思い出の景色までも、無慈悲に踏み荒らしていった。


「すべて、なくなってしまったわ。私の誇りも、夫の命も。……あの約束も」


 昨夜の嵐のせいか砂浜はえぐれ、深い底からさらわれたような瓦礫がいくつも打ち寄せられている。

 ふと視線を向けた波打ち際で、一つの「光」がルチアの目に飛び込んできた。


 波に洗われ、濡れた砂に半分埋まった緑色のガラス。それは二人の始まりを運んできたあの瓶と同じ形をしていた。

 かつてギルバートが「僕の国で一番ありふれた酒の瓶だ」と教えてくれた、アルビオンでだけ造られている酒瓶──。


「……まさか、そんな」


 ルチアは息を止めて、その光の方へと駆け出した。

 なりふり構わず砂の上に座り込み、震える手で瓶を掘り起こせば、中には溢れんばかりの紙が詰め込まれていた。


「ああ……ああああ……っ!」


 ──驚かないでください。わたしは今日、神様から不思議な贈り物を受け取ったのです。


 固く封じられた蝋を石で叩き割り、中の紙を引き出す。

 軍の配給品の包装紙、航海日誌の切れ端、破れた地図。それらすべてに、あの懐かしい、無骨で実直な鉛筆の文字が並んでいる。

 それは四年前のあの日、自ら断絶を誓って投げ捨てたはずの思い出の残骸のようでもあり、あるいは、運命が最後に残した悪戯のようでもあった。


 ────


 1915年1月9日


 エンデヴァー港で君の手紙を受け取った。もう半年も前の消印だね。君が結婚したと知った。……おめでとうと言いたい。


 本来なら、この返事さえ書くべきではないんだろう。

 僕たちの商船は軍に徴用され、前線へ物資を運ぶ命令を受けた。明日からこの船には、香辛料の代わりに火薬と砲弾が積み込まれる。


 空がひどく黒い。これが最後の手紙にならないことを祈る。



 1915年5月20日


 サヴィーナはもうレモンの花が咲く頃だろうか。

 僕は今、吐く息が白く凍りつくような北海にいる。


 昨日、船内の一角に小さなネズミが迷い込んできた。船員たちは追い払おうとしたけど、僕はこっそりパンの欠片を分けたよ。


 僕の手はもう君が知っている頃のようには綺麗じゃない。油と硝煙と、もっとひどい汚れで真っ黒だ。それでもこの汚れた手で、君の名前だけは汚さないように書き続けている。


 ルチア、君が花の匂いがすると言っていた温室が恋しい。一度でいいから、そこで君が淹れてくれた紅茶を飲みたかった。

 泥水のようなコーヒーを啜りながら、そんな叶わない夢ばかり見ている。



 1915年11月22日


 海が真っ黒に汚れている。夜の見張りに立つとき、水平線の向こうに火の手が見える。それが君の国でないことを、ただひたすらに祈っている。


 でも、僕が運んでいるのは君の夫を殺すための弾薬かもしれない。こんな僕が、君に愛を囁く資格があるだろうか。

 僕は君の国の兵士に、君が愛したかもしれない男たちに、狙準を合わせなきゃならない。



 1916年6月4日


 一等航海士としての僕の仕事は、今や死体の数を数えることと浸水を止めることになってしまった。

 君がレモンの花の香りのする部屋でピアノを弾いている姿を想像する。その指先が、どうか戦火で汚されませんように。


 仕事中、つい君の国の言葉が出る。“Tira(引け)”──。

 崩れかけたマストを支えるときそう叫んだら、部下たちが不思議そうな顔をしていたよ。

 僕の国の神様は、敵国の言葉で叫ぶ僕を助けてくれるだろうか。



 1917年2月14日


 ルチア。

 今日は僕の国の古い習慣で、愛する人に花を贈る日だ。

 花なんてどこにもない。だから、代わりにこの言葉を贈る。

 

 I’m in love with you.


 君の国の言葉で何と言うか、そういえば最後まで教わらないままだったね。

 教わっていれば、もっと心強く死ねたかもしれないのに。



 1918年6月30日

 

 船が燃えている。

 寄港地なんてもうどこにもない。だから、一番原始的な方法に戻るよ。僕たちの始まりと同じやり方に。


 この瓶が、かつて君が僕を見つけてくれたあの浜辺に届く確率は0に近いだろう。

 でももし奇跡があるなら、一度だけでいい。君に「おやすみ」と「おはよう」を言わせてほしい。

 君が教えてくれたサヴィーナの言葉で、君に伝えたい。

 “Tu sei bellissima”──君は、世界で一番美しい人だ。


 愛している。


 ────


「ああ……ああ……ギルバート……!」


 ルチアは砂の上に突っ伏し、瓶から溢れ出した言葉の欠片を、命そのものであるかのように抱きしめた。

 あんなに冷たく、身勝手な別れを押し付けたのは自分だった。彼の手紙を暖炉にくべ、自分の心から強引に引き剥がし、自分だけが安らかな家庭という平穏に逃げ込んだ。それなのに、彼は。


 彼は地獄のような砲火の中でも、足元に水が迫る沈没船の中でも、たった一人、ルチアという名前を書き続けていた。一度も彼を助けに行かなかった、不誠実な自分を、命が尽きるその瞬間まで愛し抜いていた。


「……ひどいわ……こんなの、あんまりだわ!」


 かつて愛した海。二人を繋ぎ、夢を運んでくれたはずの青い海。それは今や、愛するものすべてを飲み込み、錆びた鉄屑と愛する人の遺言だけを吐き出す、巨大な墓場にしか見えなかった。


 ……神様は不思議な贈り物をくれたのではない。私に一生消えない罰を与えたのだ。


 館へ戻ったルチアは、抜け殻のようになっていた。食事も喉を通らず、ただ窓から見える海を呪うように見つめる日々。ついに彼女は、書斎にいる父のもとを訪ねた。


「お父様。私を……修道院へ行かせてください。私はもう、この海が見える場所には、一刻もいられないのです」


 父は娘のやつれきった横顔を痛ましげに見つめ、ゆっくりと首を振った。


「修道院へ行くのは構わない。だが、ルチア。その前に一つだけ、私を助けてくれないか。我が家が支援している病院には、いまだ帰る場所のない負傷兵たちが溢れている。看護の手が足りなくて、死を待つだけの者もいるんだ」


 ルチアは絶望の淵にいながら、その言葉を拒む気力もなかった。


「……わかりました。そこでの仕事が、私の最後の義務です。一人でも多くの人が……私のように後悔を残さないように務めます。それが終わったら、私は、神様のもとへ行きます」


 これが最後。誰かの傷を癒すことで、自分の身勝手な罪を少しでも贖えるのなら。そしてすべての命を送り出したあと、愛する人を弔える静かな場所へ行けるのなら。


 ルチアは一通の返事も書けなかった無念を喪服に閉じ込め、白い看護衣に着替えた。

 彼女が向かったそこは、かつてレモンの花が香った温室とは正反対の、消毒液と血の匂いが混じり合い、絶えず誰かの呻き声が響く場所だった。

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