後編
「十四番病床の彼を頼む。感染は抑えているが、予断を許さない状態だ」
軍医にそう告げられ、ルチアは衝立で仕切られた部屋の隅へ向かった。
そこに横たわっていたのは、戦火という化け物に焼き尽くされたような患者だった。ひどい火傷が体の半分を覆い、膝から下を失った左足は、戦争という無慈悲な刃の鋭さを物語っている。
ルチアは無言でバケツを置き、湯に浸した布を絞った。感情を殺し、単なる機械のように包帯を替える。自分もまた、海の底に消えたあの人への贖罪のために、この場所で擦り切れて死ぬのだと言い聞かせながら。
「……No, let me go. ……I promised her」
ルチアの手が、ぴたりと止まる。
今、この男は何と言ったのか。それは、このトリエステでは決して聞くことのない英語。かつて、海を越えて届いた手紙の中にだけ存在した、あの懐かしい音。
ルチアは動揺を押し隠し、かつてギルバートと文通をするために必死で覚えた、あの拙い言葉を喉の奥から絞り出した。
「……You’re safe now.(あなたは安全です)」
男の体が目に見えて硬直する。包帯に覆われていない右目がゆっくりと開かれ、虚ろな瞳が信じられないものを見るように、声の主を探して動く。
「……Safe? Where……where am I?」
「Trieste……It's Trieste」
ルチアはかつて手紙で何度も綴った言葉を、祈るように繰り返した。トリエステ。二人の辞書の始まりだった場所。
「Don't worry. When you get better……you can go home. To where you belong.(心配しないで。体が治ったら、国に帰れます。あなたの故郷へ)」
「……Home? ……I have no port left to return to.(故郷か。……僕にはもう、帰る港なんて、どこにもないんだ)」
「港……?」
その言葉の響きに、ルチアの心臓が不規則な音を立てて波打った。このイギリスの兵士は、海で戦っていたのだろうか。
男は震える右手を伸ばし、虚空を彷徨わせた。その指先は節くれ立ち、重油と硝煙に焼かれている。かつて彼が手紙に書いた通り、決して綺麗とは呼べない手だった。
……あの人と同じように。この人も、帰る場所を失くしてしまったの?
それからというもの、ルチアは空いた時間さえあれば、十四番病床の彼のもとへ通うようになった。
彼が口にするのは英語とフランス語、そして断片的なイタリア語だけ。共通語のフランス語は上の教育を受けた者だけが習う言葉だ。女性ならなおさら、限られた家の娘にしか許されない。
意思疎通ができる看護婦が自分しかいないという事実は、ルチアにとって格好の口実になった。
「今日は外がとても暖かいですよ。この街の海はトリエステ・アズーロと呼ばれる、とても美しい色をしているの。一度見たら、きっと忘れられないくらい。元気になったら見てほしいわ」
ルチアはかつて二人で夢見たあの青を思い出しながら言った。戦争に汚される前、世界で一番美しかったあの入江の青。
男は包帯に覆われていない方の右目をゆっくりと閉じ、遠い記憶を辿るように、乾いた唇を震わせた。
「……Oceano infinito」
その囁きに、リネンを替えようとしたルチアの手がふと止まる。かつてギルバートが手紙に綴っていた、自分の教えたあの言葉と重なったから。
けれどルチアはすぐにその動揺を抑え、そっと窓の外へ視線を逃がした。この世界で“果てしない海”を夢見る船乗りなんて、きっと星の数ほどいる。
「ええ。そうよ。果てしない海……」
ルチアは窓越しに広がる、淡い午後の光が煌めく波を見つめながら答えた。
すると背後からベッドの軋む音が聞こえ、男の掠れた声が静かに病室の空気を揺らした。
「……あなたは、僕を見ると、時々寂しそうな顔をするね。何か……取り戻せないものを、探しているような。あるいは、失くした誰かを見つめているような」
ルチアは言葉に詰まり、視線を落とした。
図星だった。自分はこの人の傷を癒しているのではない。この人を通して、自分の身勝手な罪を贖おうとしているだけなのだ。
あんなに酷いさよならを告げたのに、最後まで自分を想い続けてくれたあの人に、せめて何かを返したくて。
「……Forgive me.(許してください)」
ルチアはフランス語ではなく、彼の国の言葉で小さく呟いた。
それが目の前の男に向けたものなのか、それとも海の向こうにいる“彼”に向けたものなのか、自分でも分からなかった。
「いいんだ……僕も、同じだから。……お互い様さ。この場所じゃ、せめて幻でも見なければ、息もできないだろう」
男はゆっくりと身を起こした。まだ痛むはずの体を引きずるような動きに、ルチアは慌ててその背中を支える。
彼の瞳が、窓の外を捉えた。そこにはどこまでも穏やかで、残酷なほどに輝くトリエステ・アズーロの海が広がっている。
「Oceano infinito. 昔、ある人からこの言葉を教わったんだ。……世界で一番美しい女性から」
その掠れた響きが鼓膜を震わせた瞬間、ルチアはその場に愕然と立ち尽くした。リネンを整えようとしていた指先は、極寒の海に投げ出されたかのように凍りつき、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうになる。
「その方は……」
かろうじて絞り出した声は、喉の奥でひどく震えていた。彼女は縋るような思いで、その答えを、あるいはその否定を求めて問う。
「その方は、今もどこかで、あなたの帰りを待っているの?」
男は窓の向こうをただ静かに見つめていた。その横顔に刻まれた生々しい火傷の痕が、光に照らされて、彼が潜り抜けた地獄の深さを物語っている。
「いや。……彼女はきっと、僕のことなんて忘れて、別の幸せの中にいるはずだ。……それが正しい。僕のような男が、彼女の人生をこれ以上、引き止めてはいけなかったんだ」
男は自嘲するように力なく笑い、シーツの上に投げ出された手を固く握りしめた。その拳の震えは、彼が押し殺してきた未練の重さそのものだった。
「……でもね、看護婦さん。僕は往生際悪く、この海に運ばれてきたんだよ。寄港地なんてどこにもなくなったけど、ただ、あの日彼女が拾ってくれた瓶と同じように、僕という抜け殻を、この街の砂浜まで運んでくれと……神様に、それだけを縋って」
ルチアの視界が、一瞬にして白く弾ける。心臓が一度だけ、跳ねるように大きく脈打つ。喜びも、驚きも、そんな生易しい言葉では到底足りないような衝撃が駆け巡り、彼女の魂を根底から揺さぶった。
──この瓶が、かつて君が僕を見つけてくれたあの浜辺に届く確率は0に近いだろう。
あの日、砂浜で拾い上げた瓶。涙で文字が滲むまで読み返した最後の手紙の一節。それが今、目の前の男の唇から、生きた震えを伴って溢れ出したのだ。
──でももし奇跡があるなら、一度だけでいい。君に「おやすみ」と「おはよう」を言わせてほしい。
鼻腔を突く重油の匂い、焼き付いた硝煙の記憶、そしてボロボロになった半身。
すべてが、あの日届いたはずの遺言と、残酷なほどに重なっていく。海に沈んだと思っていた遺言は、形を変え、肉体を持って、今、彼女の目の前に帰還した。
「……ギルバート?」
その名を唇に乗せたとたん、せき止められていた歳月が溢れ出した。それはかつて入江の風に預けたはずの、あまりに愛おしく、あまりに痛切な調べ。
男の身体が、魂の深淵を揺さぶられたかのように大きく震えた。包帯に覆われていない方の瞳が、信じられない奇跡を映し出す鏡のように、激しく揺れながらルチアを捉える。
「どうして、あなたが……その名を……」
ルチアは震える指先を、彼の節くれだった右手に添える。重油と火薬の匂いが染み付いたその手は、かつて手紙に綴られた通り、もう綺麗とは呼べないかもしれない。けれどルチアにとっては、どの宝石よりも尊い、生き抜いた命の証だった。
「……。驚かないで、ください……」
溢れ落ちた涙が、彼の手の甲に温かな真珠となって、ひとつ、またひとつと吸い込まれていく。ルチアはかつて彼から受け取ったすべての慈しみを手向けのように言葉に乗せ、揺るぎない想いで紡ぎ出した。
「私は今日、神様から……一生かかっても償いきれないほど、不思議な贈り物を受け取ったのです」
彼女の瞳に宿る、波間のような煌めき。それを見つめる男の瞳からも、一筋の雫が、火傷で引き攣れた頬を伝って流れ落ちた。
「……ルチア?」
「そうよ。あなたのルチアよ、ギルバート。……ごめんなさい、私、あなたを一人で置いていったのに」
ルチアは彼の胸にそっと額を預け、その肩を抱きしめた。病衣越しに伝わる鼓動は、幾千の波に揉まれ、戦火に焼かれてもなお、彼女の名前を刻み続けてきた命の音だった。
ギルバートの右手が、震えながらルチアの髪を愛おしそうに辿る。壊れやすい花びらに触れるような、祈りに満ちた手つきだった。
「……本当に、君なのか……? 僕は、僕はまだ海の底で、君に許される夢を見ているんじゃないのか……?」
「夢じゃないわ。見て、ギルバート。窓の外を見て。私たちが約束した、トリエステ・アズーロの海よ。あなたが辿り着いた、ここがあなたの寄港地なのよ……!」
ルチアは彼の頬を包み込み、窓の向こうに広がる、黄金の夕陽に照らされたトリエステの海を指し示した。
水平線と空が溶け合うその青は、かつて二人が夢見た理想郷そのものだった。
「“Tu sei il mio unico amore”……。あなたは私の、唯一の愛。……愛しているわ、ギルバート。愛している、愛している……!」
二人の辞書の最後の一行に記せなかった言葉を、ルチアは何度も、彼の傷だらけの胸に刻みつけるように繰り返す。
死の静寂を振り払うように、柔らかな潮騒が二人の辞書の頁を、光の中でゆっくりとめくり始めていた。
◆
1920年、初夏。トリエステの海辺に建つ屋敷の庭園は、眩いばかりの光に包まれていた。純白のレモンの花が咲き乱れ、アドリア海から上がる青い波しぶきが甘やかな香りと混じり合い、風となって頬を撫でていく。
テラスの車椅子の上で、ギルバートは照りつける太陽に目を細める。彼の左半身に刻まれた傷跡は今もその凄惨な過去を物語っていたが、その瞳に宿る光は凪いだ海のように穏やかだった。
「ギルバート、紅茶が入ったわ」
ルチアがドレスの裾を揺らしながら、彼の傍らへと歩み寄った。ギルバートは微笑み、彼女の手をそっと引き寄せてそばの椅子へ座らせる。
「なあに?」と微笑む彼女を見つめながら、彼はジャケットの胸ポケットから、小さくも気高い輝きを放つ銀の指輪を取り出した。
「……ルチア。僕の指は、もう前みたいに器用ではないけど」
彼は震える手つきで、彼女の左手の薬指にその輪を滑らせる。
「でも、君の名を呼ぶための声と、君を抱きしめるための腕だけは、神様が僕に残してくれたんだ。もう君を一人で砂浜に立たせたりはしない。一生、君のそばにいたい」
指輪が陽光を浴びて、トリエステ・アズーロの海と同じように澄んだ光を散らす。ルチアは溢れ出す涙を堪えきれず、彼の手を取って頬に寄せながら、何度も、何度も頷いた。
「うれしい。……綺麗ね、ギルバート。どんな海の色よりも」
ルチアはレモンの花と潮の香りに包まれながら、彼の頬にそっと唇を寄せる。ギルバートは彼女が持っていた辞書を膝の上に広げ、その最後の一行、かつて空白のまま残されていた場所に、新しいペンを走らせた。
“Porto sicuro”──帰るべき港、安らぎの場所。
ルチアはその文字を愛おしそうになぞり、彼の肩に頭を預ける。
辞書の頁をめくるのは、もう冷たい冬の風ではない。レモンの香りを孕んだ、輝くようなトリエステの夏風であった。
本作は元々サヴィーナ公国とアルビオンという架空の国を舞台した物語を、実在の歴史的背景である1910年代のオーストリア=ハンガリー帝国とイギリスの設定へと置き換えたものです。
本作の舞台となったトリエステ(Trieste)は、第一次世界大戦終結まで、現在のイタリアではなくオーストリア=ハンガリー帝国の主要な港湾都市でした。
アドリア海に面した美しい港は、内陸国であったオーストリアにとって最大の海の玄関口であり、軍事的・経済的な最重要拠点でした。しかし劇中でルチアが語ったように、第一次世界大戦の勃発によってその運命は暗転します。
1914年、サラエボ事件をきっかけに始まったこの戦争は、ルチアが住むオーストリア=ハンガリー帝国と、ギルバートの故郷であるイギリスを敵国同士へと引き裂きました。地中海や北海は潜水艦が潜む危険な戦域となり、多くの商船が軍に徴用され、海の藻屑と消えていきました。
1918年に戦争が終わり、オーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、トリエステはイタリア王国へと割譲されることになります。
1920年、帝国の崩壊と共に激動の時代を迎えたトリエステで、二人が見下ろしたアドリア海の青は、きっと言葉では言い尽くせないほど眩しかったに違いありません。どれほど地図が書き換えられ、国境線が変わろうとも、打ち寄せる波だけは変わらない。そんな想いを込めてこの作品をリライトしました。




