第65話 学園長が語るヒロインの怪しい行動。ヒロインに下った罰。
猫が好きすぎる学園長はそのあとすぐにザバァ――と青き聖水の湯から自力であがり、流れるようにハナの前に跪こうとした。
『己を苦しみから救い出してくれた猫』に心からの感謝を伝え、『重すぎる猫愛』も伝え、『できれば愛でさせてほしいという想い』を伝えたいと思ったのだ。
だがヤンデレ二人が『ハナと〝美おじさん〟の接触』を許すはずもなく、彼がボディーガードに囲まれているうちに、悪役令嬢ちゃんは別の部屋へにゃーんと移されてしまった。
◇
面倒だが話し合わぬわけにもいくまい。ということで、彼らは最上階の応接間に集まり、学園長がおかしくなった理由を聞くことにした。
――そこには『学園長を正気に戻す方法をさがす旅』にでていた学園長秘書の姿もあった。
しかし話し合いの前にと、ヤンデレ達は学園関係者達にいくつかの誓いを立てさせた。
ハナの能力を他言しないこと。
ふたたび様子のおかしい人間があらわれたとしても、ハナ個人を呼び出そうとしないこと。
千代鶴シオン、桔梗院カナデ、彼ら、またはどちらかに話を通すこと。
ハナに話しかけるな。見るな。ふれたら殺す。
その他にも『聖水に丸一日放り込んでも駄目だった場合だけ連絡しろ』など細かな誓約はいくつかあるが、大抵は『ハナに近付こうとするな』というヤンデレらしい内容である。
可愛い猫に嫌われたくない。聖なる猫の力を借りたい。
二つの思惑を抱えた学園関係者たちはヤンデレ御曹司達を刺激しないため、その条件をのむしかなかった。
年齢不詳の学園長がグラスに入った水を口に含み、長いまつ毛を伏せる。
にこにこと愛想のいい笑みは消え、眉間には皺が寄っていた。
「…………」
二十代の青年にも見える男は嫌そうな顔で水を飲み込んだあと、少しのあいだ瞳を閉じ、ソファの背凭れに身をあずけていた。
焦げ茶色の髪を鬱陶しそうにかきあげた学園長が、気分を切り替えるようにため息をつく。
応接室であるというのに、この場の人間の前にはミネラルウォーターが入った未開封の瓶と中身のないグラスしか置かれておらず、彼はそれについて最初に謝罪した。
――美しい猫様のグラスは美しいクリスタルグラスのブランド品、特注のお猫様用だった。彼女の分だけ飲み物の種類も豊富である。
「……すまないね、みっともないところを見せてしまって。しばらくの間は色の付いた飲み物を見たくない気分なんだ」
「君たちも自分で注いだほうが安心できるかと思ってね」そういって苦笑したあと、ほんの一瞬、学園長の視線が猫のほうへ動いた。
ヤンデレ様の瞳が暗くなる事案だ。
「弱っているフリはやめろ。ハナの気を引こうなどと余計な真似をするつもりなら、こちらの質問にだけ答える人形にしてやってもいいんだぞ」
『拷問してほしいのならそう言え』
俺様なカナデ様は神経の太そうな男の白々しい演技を鼻で笑った。
だがヤンデレ婚約者がピリピリするほどハナちゃんは学園長の言葉の意味を理解していなかった。お兄様の腕の中で本物の猫のようにゴロゴロゴロゴロ……と喉を鳴らしている。
「〝色のついた水の名前〟を口にするのも嫌なくらいには弱っているんだけどね。でもたしかに、今はそんなことを言っている場合じゃないか……」
ドレスシャツにスラックスという、休日の青年じみた格好の男はもう一度深々とため息をついてから話し出した。
「君たちが既に知っていることも、隠す意味がほぼないことも解ってはいる。でも一応立場があるからね。生徒の個人情報は伏せさせていただくよ」
「にゃーん、お兄にゃーん」
「ハナ、学園長を倒すのは少しだけ待ちなさい」
「なんて美声だ! ……褒めるのもだめなのかい? 分かった、話を続けるよ。とある生徒が教師に提出した書類が私のところへ届いたのは……何日前だったかな?」
学園長は振り返り、ソファの後ろに立つ神経質そうな副学園長に尋ねた。
「今日から四日ほど前かと」
「もうそんなに経つのか……。あのときはすぐに却下したんだ。内容はありきたりなものだったけど、許可する理由がなかったからね」
この場にいる人間は全員、書類の内容が『スズランサロン』に関するものだと分かっていた。理解していないのは真面目な話ににゃーん、にゃーんと可愛らしい文句を言っている猫だけである。
「それがなんでこうなってしまったかというと……私はときどき学園内をひとりで歩いていることがあってね。もちろん仕事でだ。猫を探しているとかではないよ。攻撃するのはやめてくれないかな」
「続きを」
堅物なきぼくろイケメン教師アヤメが無駄に色気のある声で場を仕切る。
学園長は「いまのは私のせいではないね」と真面目ぶって頷くと、少々複雑そうな顔をした。
「細かい事情は省くよ。そのときに、ひとりの生徒が声をかけてきた。決まった道を歩いているわけではないから偶然だと思いたいが……」
「それがあの不審者か」
お兄様がクールな声で呟いた。
彼の幼い猫は寝てしまっていた。
猫入りブレザーから寝言が聞こえる。「お兄にゃーん……」
「……不審者か。確かに不審なところだらけだ。しかし私の立場ではそうは呼べないな。こんなことになってしまったが、生徒を信じたい気持ちはあるからね。……それで『敷地内のガゼボで自分の入れた紅茶を飲んでほしい』とお願いされたんだ。『サロンで出す予定だった自慢のオリジナルブレンドです』『駄目になってしまって悲しい』『一杯でいいからどうかお願いします』と。丁寧に頭を下げられてしまって……」
「それで飲んだの? 学園長って馬鹿なの?」
ずっとつまらなそうに話を聞いていたサクラは隠すことなく冷笑した。
普段は爽やかな仮面をかぶっている彼は、『信用できない人間が用意した飲食物など、たとえ土下座されても口にしない』という、実にサディストな御曹司らしい価値観を持つ男だった。
女生徒に泣きながら懇願されたとしても『なに? 俺を毒殺したいの?』と笑顔で尋ねるだろう。
断り切れなかったのか。はなから生徒のお願いを断るつもりがなかったのか。それとも毒では死なんという自信でもあるのか。
迂闊な学園長はそれを飲み終えるころに意識が朦朧となり、その後もぼーっとしたまま過ごしていたせいで、いくつかの書類に確認せずにサインをし、そのなかにたまたま諦めの悪い『某サロン』の申請書がまぎれていた、というのが今回の事件のあらましらしい。
生徒との会話内容はおぼろげだが、何かを強要されたり、高圧的な態度をとられたりといったことはなかったという。
そして許可した覚えのないサロンには足を運んでいないと。
これは副学園長が見張っていたせいだろう。
『とある生徒』から『あやまって香水瓶をひっくり返したと思しき招待状』が届いたが、学園の生徒に対して平等に愛情を注ぐべき学園長が『個人的な招待』に応じるはずがない。
そのため届いた物品は厚手の透明ポリ袋へ入れ、一枚では不安だったのでそれを三度ほど繰り返し、厳重に封をしたあと鍵付きの『学園生のポエム入れ』にしまった。
と、神経質そうな顔の副学園長は神経質そうな表情で、己の神経質な行動について語った。
「監視カメラの映像は調べたのか」
カナデは婚約者の美しい猫手をブレザーの中へ隠しながら副学園長に尋ねた。
寝ている間ににゅ……とはみ出してしまったようだ。
「ざっと調べてはみたが……君たちも知っての通り、この学園は迷宮のように広い。外部からの侵入には厳しくとも、内部の人間が毒物でもないただの紅茶を入れる程度では、セキュリティは反応しない」
彼らはそのあともいくつかの問答を繰り返した。
しかし学園側としては毒、あるいは『とある生徒』が悪意あるまじないを故意に使ったという明確な証拠が見つからぬ限りは動けないという。
調査は続けるが、それは『犯人を捜して罰すること』に比重を置いたものではなく、生徒達が安全な学園生活を送るためのもの。
彼らはあくまでも『学園生を護る』立場の人間であり、犯罪者と確定したわけでもない生徒の未来を奪うわけにはいかないと、そう考えているのだ。
◇
どうやら学園関係者達は『怪しさ百二十パーセントのスズラン』を積極的に罰するつもりはないらしい。
おかしな術にかかったことは否定しないが、そのすべてが『鵯スズラン』という生徒の企みであるとは思わない。
彼女の持ち物が原因で問題が起こったのだとしても、それが彼女の悪意で、周囲の人間を害するつもりがあったと決めつけるのは早計である。
と、術から解放された今も、『怪しいにもほどがあるオリジナルブレンドティー』を飲ませるために授業に出ずに彼を張っていた馬鹿者を信じてやるつもりらしい。
間違ってはいない。むしろ生徒を護る大人の立場としては正しい。
〝学園長の発言〟というものの重さを考えればなおさら、『あいつの茶でおかしくなったんだからあいつが犯人だ』などと軽々しいことは口にできないだろう。
悪い事ではないが、学園長は邪悪な人間をあぶりだすには向かないようだ。
とにかく今は様子のおかしい生徒達をまとめて『心優しい猫様からいただいた青きホット聖水』につけ、『もとの状態に戻してから』個別に面談をし、『心のケアをしつつ』事情を聞いてみるので『とある生徒』を締め上げるのは待ってもらいたい。
そう言って、『今のところ香水からも紅茶からも毒物は検出されていない』と聞かされた学園長は千代鶴シオンと桔梗院カナデに深々と頭を下げた。
かくして『学園に通う生徒への無償の愛』を粉砕するのが面倒になった彼らはにゃーん、にゃーんと目を覚ました可愛い猫様を連れて部屋をあとにし、カナデ様の専用ルームへと話し合いの場を移したのである。
――約十分後、学園長室で発見されたヒロインが処罰されることなく解き放たれるが、放課後になる前に『スズランサロン跡地』で泡を吹いて倒れているところをイケメンに発見されるというプチ事件が発生する。
そのためそれ自体が彼女にとっては鞭で打たれるより百倍つらい罰となった。
カツオの一本釣りのごとく鞭で『活きの悪い女生徒』を救出したイケメンは、現場に到着した保険医にこう伝えたという。
「オゾン発生器を使用中だと注意書きのある部屋を勝手に開けたらしい。瀕死のカニのように泡を吹いているのもそのせいだろう。馬鹿が。自業自得だ。――知っているか? 俺とお前の仕事が増えているのはこの女のせいという噂がある。本当だとしたら泡すら吹けぬほど厳しく躾けてやる」
※訳:殺す。
◇
「すっごい面倒なタイプ。あれは絶望したら極端な方向に走る人間だね。猫だけ連れて無人島に引っ込むとか。猫だけ残して人類を滅ぼすとか」
と、サディストなサクラ様は心底嫌そうな顔で学園長について語った。
ついでに爽やかな笑みを浮かべ『まぁでも〝締め上げる〟っていうのがどの程度のことを指すかは人によって見解が異なるし、ほどほどにつつくぶんには問題ないよね』と人でなしのようなことも語ったが、これはヤンデレ達も同じ意見なようで、とくに反対はされなかった。
そんな彼らが反応したのは、サクラの次の発言に対してである。
「あの不審者のことはこっちでも見張っておくけど、それよりどうするの? 今度の演習。泊まりだよね。ハナって野営……キャンプとかしたことある?」
「貴様、まさか弱々しいハナと野蛮な行事に参加し、あわよくば――などとふざけたことを考えているんじゃないだろうな……」
カナデが低い声で言いがかりをつける。
――現在高等部三年生の彼は当然『野蛮な行事』に数え切れぬほど参加しているが、それとこれとは話が別らしい。
彼の『傾国の美少女であり、傾国の美猫でもあり、特別な力まで持ち、あらゆる組織と〝とんでもないおじさん〟から常時狙われている弱々しい婚約者』が、野郎と泊りがけのイベントに? そんなこと、させるわけがない。
野営地など、彼の弱々しい婚約者をテントに連れ込もうとする男どもが雑草なみにわさわさしているに決まって――
自身の婚約者から『――』な話を聞かされてしまったカナデの頭に突如、ハナを攫う『うすぎたないおじさん軍』約十万人が浮かぶ。
己の闇を抑えきれなくなった彼は、震える片手で目元を隠して言った。
「……猫に演習は必要ない。弱々しい生き物は家の中で護られていればいい」
「にゃーん、にゃーん! お兄にゃーん!」
「ハナ、今のは侮辱ではない。お前は野営などしたことがないだろう。そもそも、キャンプが何か分かっているのか?」




