小康社会人
タチバナが自分が見てきたことから知った現実には、夢や希望のような明るい部分は少なかった。
タチバナの思考過程は厳しいものだった…。
人生の本当の敵は目の前に居ない。
人間社会は映画製作と同じで、大きく成功しても利益分配をほとんどされ無いエキストラ達や裏方スタッフらの方が圧倒的に数が多いものだ。
ティーンエイジャーの頃に青春を潰して偏差値競争に勝ち上がったとしても親の社会の立ち位置が低位であればたとえば医師のような資格仕事であってもよくよく考えれば国の末端としてこき使われる側で生涯を終わるのだ。
人生の敵は不平等さそのものなのだ。
権益所有者は子孫を残すときに自分の財や社会の立場、ノウハウを他に出さずに身内だけに伝え遺すものだからだ。
戦争はそういうものを多少シャッフルして万人にチャンスを与える必要悪だったのかもしれないが、死ぬための若い男の子の兵隊参加でさえ、権益所有者には密かに召集免除の枠が与えられていたのだ。
もともと生まれてきた国、地域、習慣、親の生活水準によって産まれながらに個体の生涯も決まっているので裸同然で暮らし動物を殺したり女の子なら5歳で性器の一部を切り取られるという社会組織の慣習の中で育たなければならなかったとしたらやはりそれまでで、その下で数十年の生命を生きて子孫を遺すのだ。
タチバナは今回まだ30歳になる少し前に一時的な感情で自分から生命を捨てようとしたが、
若い脳はまだまだ生きようとしてもがき続け、飛び込んだ海の中で泳いで水面に浮かび上がってうまく酸素を求めながら漂ってしまった。
‘おい、人が浮いてるぞ’
’助けるぞ‘
‘生きてればいいんだが…’
’救命キットを用意しろ‘
‘引き上げるぞ’
’息をしているか?‘
‘毛布で身体を温めろ’
’若いから助かりそうだ‘
‘マリーナに戻るぞ’
‘救急車は来てるか?’
タチバナはフィッシングのためのプレジャーボートに乗っていた6名の男たちに助けられ、すぐに近郊の救急病院に搬送されて無事に一命を取りとめることができた。
’気がつきましたか?‘
‘なぜここにいるのか、わかりますか?’
’自分の名前は言えますか?‘
白い天井を見ながらタチバナはゆっくりと自分の名前を言おうとしたが、なぜ自分がここにいるのか直ぐに察して、こみ上げてくる嗚咽が邪魔でうまく発音出来なかった。
なぜか生きていて良かったと安堵する感情だけが自分の心を占めていることに驚き、機械的な心拍モニター音がしっかり刻み鳴るのを耳で確認しながらタチバナはゼロからの振り出しに戻った自分を知った。
もう自分には大きな幸せはなくても、不安や諍いのない社会人でいれば良いのだろう…。
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’エミの母です…どういう状況なんでしょうか?‘
‘流産されたようです’
’…?‘
‘胎盤処置が済んだばかりですので少しお待ちください’
’エミが、ですか?‘
‘12週というあたりでした’
’エミが?!‘
‘ご本人は知ってたようですよ’
’え?‘
‘お母さん、レイプケースかもしれません、責めないで聞いてみてらどうですか?’
エミは腰椎麻酔で完全な堕胎オペを受けた後、夜までずっと鎮静剤でうとうとしていた。
目は重くて開かないが、自分がいる病室の中で両親の話す声が響いているのは聞こえている。
’エミはどうなんだ?‘
‘赤ちゃんが出来てて…、体育の授業中に流産を…’
’なんだって?‘
‘エミは分かってたようだ、って’
’誰の子なんだ?‘
‘知らないわよ…’
’なんで母親のお前が分からなかったんだよ‘
‘変わった様子なんて無かったもの’
’恥さらしじゃないか、まだ高2だろ‘
‘学校には言わないようにしてもらってるわよ’
’何なんだ…いったい‘
‘レイプの可能性もあるとか…’
’どこで?いつだよ!‘
‘知らないわよ、騒がないでよ’
’俺は帰るぞ‘
‘ええ、私が居るから、そうして’
’男がいたなんて信じられん、学校には隠しとおせよ‘
‘当たり前でしょ’
エミはこんな時にタチバナに会いたいという気持ちにならないことと、これまで思ってきた彼と赤ちゃんと3人の幸せな新婚生活が突然あり得ない空想になってしまったことが寂しかった。




