六話
場所を変えようというアザールの提案に、ルーチェは素直に従った。
アンブルは、今はアザールの腕の中ですやすやと眠っている。
心なしかルーチェに抱かれていた時よりも安らいだ表情に見えた。
「パパが抱っこしてくれてるって分かるのかな」
隣から覗き込みながら、ルーチェはくふくふと含んだように笑った。
「……ルーチェ、一つ言っておかないといけないんだが、アンブルは俺の子どもじゃないんだ」
「えっ、こんなにそっくりなのに……?」
驚いたルーチェは二人を交互に何度も見やった。
お揃いの真っ黒な髪を見るに、てっきり実子だと思い込んでいた。
(そういえば瞳は赤っていうよりも橙っぽいかも……)
アザールはキリッとした凜々しい瞳と眉をしているが、アンブルはどちらかというと垂れた柔らかな顔立ちだ。
それだって、まだ赤ん坊だからかなあ、なんて思っていた。
そもそも、アンブルがアザールの血を引いているのなら、産んだのは誰だという話だ。今更そんなことに気づいてしまった。
(アンブルはようやく首がすわった頃だし、この短期間で奥さんがいなくなるわけないもんね)
ということは親戚なのかな。
首を捻ったルーチェに、アザールはふっと小さく笑った。
その顔がずいぶんと複雑そうだったので、ついルーチェは息が詰まった。
喜びだったり、悲しみだったり、いろんな感情がない交ぜになったような顔だ。
「……アンブルは俺の兄貴の子どもなんだ」
「お兄さんの?」
「ああ。公爵家だって本当は兄貴が継ぐはずだったのに……当主になって、アンブルも生まれてすぐだ。兄貴も義姉さんも突然馬車の事故で亡くなった」
残されたのはアンブルだけだ、と抑揚のない声で告げられて、ルーチェは言葉をなくした。
次の瞬間、しくしくと痛むような悲しみに襲われた。
両親を失ったアンブルや突然兄を失ったアザールが気の毒でならなかったのだ。
老衰などと違って若いうちの不慮の事故がどれだけ家族の心に衝撃を与えるか。ルーチェはよくよく理解していた。
リオンの両親であるイエオスやナンシーもそうだった。
馬車の事故で突然帰らぬ身となった。
そのときのショックは、今でも思い返すたびにルーチェの心臓を冷たく突き刺すほどだ。
「兄貴は俺とは違って真面目な優等生なんだ。でも、のほほんとしてて人が良いからどこか抜けてるようにも見える。義姉さんも同じように穏やかな、ちょっと平和ぼけしてそうな人でさ。二人に任せておけば公爵家も領民たちだって安泰だ……って俺だけじゃなくてきっとみんな思ってる」
語る口ぶりは軽やかで、けれどその深紅の瞳が見つめる先は空虚に見えた。
無意識に彼の背中に腕が伸びる。――が、くるりとこちらを向かれて空振りに終わった。
(あ……)
「さあルーチェ、奥のソファに」
気づけば応接室まで来てしまっていたらしい。
エスコートに慣れていないルーチェは見よう見まねで差し出された手に自分のものを重ねてソファまで誘導された。
アザールが向かいに腰かけたとき、計ったように侍女のメイリーがやってきてティーカップを二つローテーブルに置いた。
「ありがとう、メイリー」
にこりと微笑んだ彼女は静かに頭を下げて去って行った。
今日一日付き添ってもらったので、ルーチェは彼女のお茶の腕前を十分に知っていた。
(ちょっと目をすぼめてるのが不思議だけど、優しい良い子なんだよね)
わくわくしてティーカップを手にすると、かぐわしい紅茶の香りがふんわりと鼻を抜けていく。
そろりと口に含めば、渋みとすっきりした味わいが広がって思わずため息が漏れた。
「おいしい……」
「気に入ってもらえたようでよかった。侍女長のルイからも改めてメイリーを評価するように伝えておくよ」
「ええ! ぜひそうして」
美味しい紅茶とともにたわいもない会話を重ねていた二人だったが、不意にアザールが生真面目な顔になった。
ただでさえ綺麗な姿勢が、より胸を張るようにまっすぐになる。
和やかな空気に、緊張感が走った。
ルーチェもそっと唇を引き結んで向き合った。
「今後の話を進める前に、まず俺はきみに謝りたいんだ」
「謝る?」
「ああ。俺がきみに求婚したのは魔力の扱いに長けるエルフなら、アンブルの世話も出来るんじゃないかと考えたからなんだ。目先の楽さにつられ、そんな打算的な意思できみに求婚してしまった……すまなかった」
真摯な光を持った赤い瞳は、一度も逸らされずにルーチェを見据えていた。
アザールの頭が深く下がる。
誠実が形を作ったような態度から繰り出される正反対な言葉がちぐはぐでおかしく思えた。
(わざわざ謝るようなことでもないのに)
そもそも一度も会ったことのない相手と結婚するのだ。当然そこに愛情はない。
ならば、なんらかの『打算』があってしかるべきだ。
それなのに、アザールは自分のそんな考えを恥じ、それがルーチェへの無礼だと正面から謝った。
真摯なアザールの様子に、ルーチェはようやく人心地つけたような気分だった。
この人となら、うまくやっていけそうだと思えた。
「アザール、頭を上げて。あなたはそう言うけど、とくに恋や愛……結婚なんかは打算がないなんてことはあり得ないでしょう」
グレオラ家は代々子どもは多くはなく、後継の男児一人のみということも多かった。
その中でときおり女の子も生まれていたが、ルーチェの知るこの二百年では二人だけだ。
関わった子どもたちは全て記憶に残っているが、とくにその二人は強烈にルーチェの記憶に刻まれている。
その一人であるカーラ・グレオラは、他家の三男に一目惚れして押しかけ結婚したほどには直情的な性格だった。
彼女は未来の旦那となる男性に初めて会った日から夢見心地な目をして、相手がどんなにハンサムだったかを切々と語ってくれた。
そんなカーラにルーチェは聞いたのだ。
――ねえ、一回しか会ったことがないのに結婚したいの?
カーラは目をキラキラさせながらぽっと頬を赤くして「だってあんな素敵な顔を眺めて生活するなんて絶対幸せだもの」と言ったのだ。
これも一種の打算というやつだろう。
それをアザールに話すと、彼はずいぶん訝るような顔をした。
「……きみが身近にいてそれ以外の人間を綺麗だと思えるのか?」
「えっと、綺麗なものは綺麗なんじゃない?」
そこにルーチェは関係ないと思う。
「いや、生まれたときからそばにいるからこそ見慣れてしまうのか……」
(うーん……なんか思ってたのとは違う感じになっちゃった)
着眼点が違う気もするが、言いたいことは伝わっているはずだ。
「まあそういうことだから、アザールは気にしないで欲しいな。……それとも気の迷いだったから、やっぱり結婚はなしにしたい?」
「そんなことはない! きみに求婚した時点で、俺はきみの長い寿命の果てまで不自由はさせないと決めているんだ」
安心して欲しい。
そう力強く言われてルーチェは微苦笑した。
なにもそこまで責任をとる気でいなくてもいいのに。
「きみが気にしないというなら、この話はここまでにしよう。今後の俺たちの結婚生活の話なんだが――きみには申し訳ないが結婚式はアンブルの世話が落ち着いた頃……せめて一年ほど経ってからと思っている」
「求婚状にも書いてあったね。結婚式は準備もずいぶんと大変でしょう? 私はべつに式をしなくてもかまわないけれど」
「それはだめだ。きみを公爵家に迎えることを世間に示す大事なものだし、なによりみんなにきみが家族になったことを示す大事な儀式だ」
ルーチェの立場を慮ってくれているその気遣いが嬉しかった。
「……ありがとう、アザール。そう言ってもらえると嬉しい。楽しみにしておくね」
真剣な、ともすれば怒ってるようにも見えるアザールは、顔をほころばせたルーチェ相手に虚を突かれたように固まってしまった。
ゴホン、とわざとらしい咳払いが落ちる。
「それと、これが一番大事なことなんだが……」
「ええ。なあに?」
もったいぶったようなアザールにルーチェは首を傾げて促した。そんなに聞きにくいことなのかな。
「……きみは、この結婚を強いられているわけではない、よな?」
「え……?」
「手伝いに来ていた向こうの使用人たちはきみの結婚をずいぶんと悲しんでいたと聞いたんだ。最近グレオラ家は大変だったろう? もしなにか事情があって追いやられるようなことがあったんじゃないかと……」
「ふふ。心配してくれたんだね」
たしかにあの子たちすっごく泣いていたからなあ、とルーチェは思い返した。
グレンヴィア家からの求婚状に、男爵夫妻はあそこなら安心だと喜び、ほかの者たちは絶望に染まった顔をしていた。
正式に決まってからは、ルーチェに不自由がないようにとしっかり準備してくれたが、心は納得がいってなかったのだろう。
荷運びを終えて馬車に乗り込むという時に、一人、また一人と泣き出して、最後は全員まとめてルーチェが抱きしめてあやすような羽目になってしまった。
(そういえばアンネもすごく泣いてたな)
アンネの実家はグレオラ領内でもひときわ大きな商団で、ルーチェの結婚騒動のもろもろのときは商団の手伝いでたまたま屋敷にいなかった。
アンネがルーチェの結婚を聞いたのは公爵家に出発する前日のことで、彼女は普段の落ち着いた聡明さも殴り捨てて顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。
「行かないでよルーチェ! 私たちとずっと一緒だって言ったじゃない! リオンが知ったらどんなに悲しむと思う!?」
痛いほど抱きついてきた腕の強さを思い出して胸が痛んだ。
最後は逃げるようにして置いてきてしまったのだけが悔やまれる。
もう泣いていないだろうか。
心配になって、でもリオンがいるから大丈夫だと心を振り切った。
「大丈夫だよ。私は私の意思で結婚を決めたんだもの」
「それならよかった。でも、それならどうして急に結婚しようと思ったんだ?」
「それは……」
誤魔化すことは簡単だ。
でも、真摯に頭を下げてくれたアザールに、なによりこれから共に生活する人にやましいことはしたくなかった。
「……グレオラ家のみんなは、私のことを本当の家族みたいに大事にしてくれた。本当に、大事にしてくれていたの」
ルーチェの微笑みに悲しみが混ざる。
アザールは静かに傾聴の姿勢をとった。
「ついこの間まで知らなかったんだけど、今までずっとグレオラのみんなは私に莫大なお金をかけて居心地のいい世界を作ってくれていたみたいなの」
「まさかそれがきっかけで?」
「ええ。みんなは私のためなら当然だって言ってくれたけど、大事な人たちにこれ以上負担をかけたくなかった」
今は安定している財政も、いつどうなるかなんて誰にも分からない。
なにより万が一のことがあったとき、きっと優しいあの子たちは現状を維持できないことにルーチェに申し訳なく思うはずだ。
今までがお金をかけていた分、その心苦しさもよりいっそうだろう。
そんな思いはさせたくない。
語り終えても、アザールはどこか釈然としない顔をしていた。
なんなら首を捻って不思議そうな気持ちを隠しもしない。
「どうかした?」
「いや、きみのその言葉は本心だろう。でも、こうして反対を押し切って結婚まで成し遂げられたきみなら、それこそ叱りつけて節制させることだって出来たんじゃないかと思ってな」
ぱちりと目が合って、ドキリとした。
深い赤い色が、まるでルーチェの心の奥底を覗き込んできたように思えたのだ。
「なにかほかに理由があるんじゃないか?」
それは問い詰めるようなものではなく、ルーチェを心配したような優しい問いかけだった。
凜々しい眉が不安げに下がっている。瞳はまるでルーチェの動揺を一つだって見逃さないように真剣だ。
(いつもそうやって話を聞き出すのは私の役目だったな……)
グレオラ家ではいつだって年長者として母のように、姉のように、みんなの挙動を見逃さなかった。
そんなルーチェがまさか聞き出される側になるなんて。
(……少し、嬉しいかもしれない)
とくりと心臓が小さく温かく跳ねた。
ずっと張り続けていた緊張の糸が、ふっと緩んだ気がした。自然とため息が漏れて、ゆっくりとした瞬きのあとに観念したように笑う。
「……アザール。あなたはさっき、私の長い寿命の終わりまで不自由はさせないって誓ってくれたでしょう?」
「ああ。それがどうした?」
緊張で少しばかり鼓動が早くなった。
深呼吸をしてから、ルーチェは自分の胸元にそっと手を当てた。
「そんな心配はしなくても大丈夫。私は、みんなが思うほど長くは生きないだろうから」




