三話
ルーチェたちはまだ夏の暑さが残るころ、首都へと向かうリオンの馬車を見送った。
元々乗り気でなかったリオンは出発の直前まで「あと一日ぐらいはいられる!」とルーチェに縋りついていたのだが、同じく見送りに来ていたアンネに「次期当主がこれじゃあ……」なんてわざとらしく嘆かれ、そこからは売り言葉に買い言葉な態度とともに元気に出発していった。
これ以上日を伸ばすと式典に間に合わないとイーファスとマリーに叱られたのも効いたのだろう。
リオンが出発してから数日と経たず、入れ違いのようにガンス男爵夫妻と十歳になるという娘のスルエラがやってきた。
たった三年だけの限定的な滞在だから、三人は本邸の中でも広間に近い客室の一部を改装して与えられているらしい。
あくまで外部の人間なのだと牽制の意味も込められていると、メイドたちが噂していた。
本邸の奥に部屋を構えるルーチェと三人は、滅多なことでは顔を合わせることはなかった。
しっかり顔を合わせたのは、男爵一家がやってきた初日に挨拶をした一度きりだ。
四十前後の中年の男女と、リオンやアンネよりも少し幼い女の子。
初めて見るエルフに驚いてか、彼らは言葉もなくしてぽかんとルーチェを見て目をしばたたかせていた。
(ガンスさんたちはお仕事をしに来てるんだもん。私が邪魔したらいけないし……)
なにより知らない人と生活するのは、小さい子どももいるだけに神経質になるだろうと気遣ってのことだ。
そのため、エリオやリオンたちがいた頃は食堂で一緒に食事をとっていたが、ルーチェは最近はもっぱら部屋ですませていた。
(……それに、なんだかみんなは私が三人と会うことが嫌みたいだし)
面と向かって言われたわけでも嫌な顔をされているわけでもない。
ただ、廊下などで遭遇しそうになると、それとなく会わないようにルートを変えられている。
さすがに同じようなことが何度も続けばルーチェも気づく。
なぜみんながそんなことをするのか見当がつかない。きっとルーチェの考えが及ばないだけで、なにかあるんだろうとは思う。
別に動きを制限されることもなく、自由に屋敷の中や庭を行き来できるから不便もなかった。
アンネもできるだけ顔を見せに来てくれるし、メイドの子たちが一緒に食事をとってくれることもあって淋しい思いもしていない。
その日も、ルーチェは庭園でお茶をするために若いメイドたちと部屋を出た。
和やかに談笑しつつ外へ向かいかけ――。
「いったいこれはどういうことなんだ!」
急に響いた声に意識を掴まれた。
怒鳴るような罵声は、まずグレオラ家では縁遠いものだ。
思わずメイドたちと目を合わせてから背後を振り返る。
声の出所は奥にある執務室のようだ。聞き慣れない男性の声――多分ガンス男爵だ。
「ルーチェ様、行きましょう」
「ええ……」
庭のほうに促され、でもどうにも行く気になれない。悪いとは思いつつ、呼びかけに上の空で返してしまった。
ルーチェの意識はすっかり奥の執務室に強く向けられていた。
直感とでもいうべきか。なぜか聞かなければならない気がしたのだ。
いつだって呼びかければ優しく返してくれるルーチェの珍しい態度に、困ったメイドたちは顔を見合わせた。
と、また鋭い声が響く。
「どうしたらこんな法外な金額になるの!? しかもこれがずっと――何代も前からですって!?」
ヒステリックな女性の声。これは男爵夫人だろう。
「それらは全て領地の運営とは関係ありません。男爵様たちには関係のないことです」
拒むような冷たい声がイーファスのものだとルーチェは最初気づかなかった。
だって彼はいつも男性にしては柔らかい声で穏やかに話すのだ。
少なくともルーチェの前ではそうだった。
今度こそルーチェは足を向けた。
もちろん庭ではなく、反対の執務室へ。メイドたちも小声でルーチェを呼びながら慌てて後を追いかけてきた。
執務室に着いて開いていた扉からそろりと中をのぞく。
思った通り、男爵夫妻が書類を片手に離れたところに立つイーファスに詰問していた。
「いったいこの屋敷のどこにこんなお金がかかってるんだ」
「首都の一等地を買って豪邸を建ててもこんな金額にはならないわよ」
「それらは全て領民からの税収ではなくグレオラ家の個人資産です。あなた方が気にすることではありません」
一切取り合わないイーファスの頑固さに、夫妻も苛立ちが増しているようだ。どんどん顔が険しくなっていく。
(……そんなに大きなお金なの?)
聞いているルーチェも息をのむようなヒリヒリした緊迫感。
貴族である二人があれほど動揺するのだから、見たこともないような金額なんだろう。
今更だがルーチェは足を運んだことを後悔し始めていた。家のお金の話であるなら、これは自分が聞いていい話ではない。
及び腰になったルーチェを、これ幸いとメイドたちがすかさず庭のほうに促す。ルーチェも今度ばかりは素直に従おうとした。
けれど――。
「それらはすべてルーチェ様がここで快適に過ごしていただくための予算でございます」
しびれを切らしたような少しばかりうんざりしたイーファスの声に、足を戻すしかなかった。
「ルーチェ様」
「いけません」
さっきよりも強くメイドたちが制止してくる。早く行きましょうと急かす彼女たちの表情はひどく硬かった。
つまり、ルーチェには聞かせたくない話なのだ。
(イーファスの話は本当なんだ……)
貴族の二人があれほど驚愕して困惑するような金額が、自分のために使われている。
しかも何代にも渡ってずっと――。
言葉をなくしていたのはルーチェだけじゃない。男爵夫妻も同じだ。
目の前にある見たこともない金額が、まさかたった一人のために使われているなんて信じられない。
さっきまでの激しい追及ぶりは消沈し、理解できないという困惑が彼らを支配していた。
「おかしいわよ。たかが一人のためにこんなお金を……? ずっと?」
「最初に言ったはずです。あなた方には関係ないことだと」
「だが、妻の疑問も最もだ。国の英雄のためというのなら、なぜグレオラ家が負担を強いられねばならない。国の予算でやるべきだろう」
「もちろんその中には王家からの予算も含まれています。また、グレオラ伯爵家は強いられているのではありません。代々家門の者が自ら望み、ルーチェ様のためを思ってその予算を決定しています」
イーファスの堂々とした態度は、当然のことだと言わんばかりだった。
いや、彼は真にそう思っているのだ。
王家からの予算も含めたその膨大な金銭が、ルーチェのために使われることは当然なのだと。
初めて知る事実にルーチェの頭から血の気が引いていく。
気分の悪さを覚えて思わず口元を手で覆うと、傍にいるメイドたちが心配そうに慌て始めた。
彼女たちの中にルーチェや夫妻のように動揺している者はいない。――みんな、知ってたんだ。
「いまさら英雄の世話役を降りられないのなら、どこかの家と結婚してもらえばいいんじゃないか? そうしたら円満にほかの家に押しつけることが出来るだろう」
「……あの方への無礼は慎んでください」
「それじゃあグレオラ伯爵家ともあろうものが、いつ死ぬかも分からない長命のエルフにこれからも奉仕し続けるというの!?」
「おやめください!」
聞いたこともないイーファスの怒気に思わず顔が上がる。
びくりと震えた身体を小さくしていると、傍にいるメイドたちも冷たい目で中の夫妻を見ていることに気づいた。
(みんな……?)
見たこともない、怖い顔をしている。
「……あなた方にはきっと分かりません。ルーチェ様が心穏やかにこの屋敷で笑って生活してくださっていることが、どれだけ私たちに喜びと平穏をもたらすか」
――ルーチェ、あなたは私たちにとって『永遠』なのよ。
不意に、過去の幻影が耳元で囁く。
それを振り払うように、気づくと執務室に飛び込んでいた。
驚く夫妻とイーファスの視線を受けながらルーチェは青い顔で言った。
「……私、結婚します」
背後からメイドたちの悲鳴が上がり、すぐに恐ろしいほどの静寂が部屋に広がった。
◇
屋敷中を震撼させたルーチェの結婚宣言からあっという間に一週間が経った。
日が暮れ、夕飯も入浴も済ませたルーチェは私室の椅子にかけてたいそう困っていた。
窓の向こうでは夜が少しずつ深さを増し、月や星を強く瞬かせている。
夏も少しずつ遠ざかる今、涼しい夜風にあたりながら星たちを眺めるのはきっと気分がいいだろう。
そんな現実逃避をしながらも、ルーチェは目の前で膝をつくイーファスに向き合った。
「ルーチェ様、これはあなたが気になさることではないのです。だからどうか、この屋敷を出て行くなどおやめください」
年を取るしゃんとした立ち姿を誇るグレオラ家の使用人筆頭。
そんな彼が項垂れる姿にはルーチェも申し訳なさが先立つ。
(……子どもの頃と同じ顔ね)
グレオラ伯爵家の使用人たちの多くは世襲制で代々仕えてくれている者が多い。
そのためイーファス含めほとんどの顔ぶれは赤ん坊の頃――それこそ母親のお腹にいる頃からルーチェは知っている。
両親が屋敷内で職務に当たっている間、子どもたちの多くはルーチェと一緒に過ごす。
イーファスは昔からしっかりしていたが、それでも子どもらしく我儘を言う時にはこうして泣きそうな顔で静かに訴えかけてきたものだ。
「イーファス」
いつものように優しく呼びかければ、ゆっくりと顔が持ち上がった。
乱れた髪をそっと撫で付けてあげる。ほんのり期待の宿った目に「ごめんね」と謝れば、みるみるうちに涙が溜まってしまった。
「ルーチェ、お願いだから……せめて坊ちゃまが、リオン様が戻られてから話をしましょう」
(それじゃあ絶対に反対されちゃうじゃない)
いや、イーファスはそれが狙いなのだ。
あの日の執務室でのルーチェの宣言は瞬く間に屋敷中に広まった。
もちろんお茶会は中止になってルーチェは部屋へと戻された。
そこからが大変だ。
話を聞きつけた使用人たちがルーチェのもとに押し寄せたのだ。
初めは根も葉もない噂だと思っていた彼らの顔も、ルーチェが本気だと気づけばすぐに真っ青になった。
みんなは決まって同じことを言った。
考え直してください、と。
若いメイドたち、料理番、庭師……この屋敷で働く数多の使用人たち。
今のイーファスのように、今日一日だけでも何人もの使用人が代わる代わるルーチェの前に縋っていった。
昨日も、その前の日も。この一週間はずっとそんな感じだった。
みんなからの想像以上の反対に、言い出しっぺである男爵夫妻は怯んだようだった。
しかし、なにも分からないルーチェが助言を乞えば、相手探しを手伝ってくれるという。
さすがに身売りのようで気が咎めたのか、夫婦の床事情なんかは気にせずに嫁げるところを探すと約束してくれた。
魔法を目当てにされると困ると言えば、じゃあそれも条件に加えましょうと夫人は快く受け入れてくれた。
夫妻のグレオラ伯爵家を思う気持ちは本物なのだと思う。
彼らはただ、憧憬する本家に金食い虫のルーチェをいつまでも居着かせておくのが心配なのだ。
といっても、夫妻の手助けもリオンが来てしまっては全て水泡に帰してしまう。
(だからごめんね……)
この一週間、身を切るような思いでみんなの懇願を拒み続けてきた。みんなの涙を、縋る手を拒むたびに心臓が押しつぶされそうに痛む。
子どもの時みたいに「ルーチェ」と呼ばれて、敬語を崩して素を見せられて……本当だったらその手を取って抱きしめてなんでも叶えてあげたい。
それでもルーチェはどれだけ心が痛もうが一度決めたことを覆しはしない。
なんせ自分の理念に反すると思えば、故郷の森を飛び出して人間を助けるほどの頑固者なのだから。
例えルーチェ相手であっても女性の部屋に遅くまでいることを良しとは出来なかったのだろう。
しばらくすると、イーファスはすごすごと帰って行った。
さすがにこの時間ではこれ以上誰かが訪ねてくるとは思えない。
ようやく肩から力を抜いたルーチェは少し気だるげにベッドまで向かった。
ポスンと背中から倒れ込む。長い金髪が一瞬宙を舞って寝台に広がった。
「どこにお金がかかってたんだろう……」
エルフ社会では基本物々交換が主流で、金銭というものに馴染みがない。
ラシアの森に住んでいたころ、食事というと森にある木の実を適当に食べていたし、服だって自分で作っていた。
ほとんどが自給自足で、ほかの物資というと人間との交易で得たものが配布されるぐらい。
人間社会に疎い自覚はあったが、さすがになにかを得るのにお金が必要なことは分かっていたつもりだ。
(本当に『つもり』だったみたいだけど……)
森へ帰れないルーチェをこの家に誘ってくれたのは当時のグレオラ家の当主だが、最初のうちはやはり世話になることに気が引けていた。
家計の足しになればとみんなからの評価の高いこの金髪を売ろうとしたこともあったが、総出で泊められてしまった。
――心苦しいと言うのなら、子どもたちの相手をしてくれないか? 私たちは忙しくてあまり時間を取ってやれないから淋しい思いをさせてしまってるんだ。
子どもたちと関わる時間が増えたのはそれからだ。
そのときのルーチェは自分にも出来ることがあるのだと嬉しかった。よく考えれば当時の人々が気遣って言ってくれたのだと分かるのに。
(よく考えればわかったろうに……私ってば馬鹿だな……)
食事はみんなと同じものを食べていたし、個別に金銭がかかるなら家財や衣服だろうか。
全て用意されたものを使っていたから、それらがいくらだったのかルーチェには分からない。
イーファスの口ぶりからみるに、庭園の管理にもずいぶんお金を使っていそうだ。
エルフは自然と暮らす種族……ルーチェもテラスで庭を眺めながら静かに過ごすのが好きだった。
そんなルーチェことを思ってお金をかけていても不思議じゃない。
現に、ルーチェが住むようになってからグレオラ家の庭園は年々広さを増して花々の種類も増え続けている。
(庭ってお金かかるんだなぁ)
今さら知ってしまった。
そして、知ったからには看過できない。
イーファスもマリーも、みんなが気にすることじゃないと言ってくれた。
ルーチェのためのそのお金が原因で伯爵家が困窮することはないと。
(そういう問題じゃないよ……)
誰が好き好んで大事な子たちに苦労をさせたいと思うものか。しかも、今はほかにも悩みの種があるというのに。
考え込むうちにゆっくりと眠気が押し寄せてきた。
(もう寝よう……)
明かりを消そうと思ったルーチェは起き上がり、ふと思い立って部屋の隅にあるランプへ手を伸ばす。
くるりと指を振れば、独りでに明かりが消え、部屋はあっという間に暗闇に飲み込まれた。
今しがた魔法を使った自分の手のひらを、ルーチェは意味深に見下ろしてそっと目を閉じた。
公爵家から求婚状が届いたと男爵夫妻から聞いたのは、その翌日のことだった。
まさか夫となる人が自分と目を合わせるやいなやぶっ倒れるなんて、そのときのルーチェは思ってもいなかった。




