目が覚めたらもふもふ。ただしドブネズミを舐めんじゃねえぞ
チッ、と脳内で舌打ちの音が響いた。
「おいおい……冗談だろ、おい」
それが、俺――前世は東京の薄暗い地下道で人間サマの罠や消毒液を鼻で笑い、しぶとく生き抜いてきた「ドブネズミ」の、新しい人生(ネズミ生)の第一声だった。
視界に入ってきたのは、頼りないほど小さくてピンク色をした、短い四肢。
触ってみれば、ゴワゴワとしたドブ底の戦闘服(剛毛)ではなく、絹のように柔らかい、もふもふとした灰色の毛皮。
鏡がないから正確には分からねえが、手のひらに収まる極小の愛玩動物――ジャンガリアンハムスターってやつだ。
「おいおい、東京のドブ底を舐めんじゃねえぞ。なんで俺が、人間にカゴの中で飼われてひまわりの種を齧るだけの、マスコット人形にならなきゃいけねえんだ?」
人間のペット(ケージ)に閉じ込められ、ドブネズミとしては駆除対象にされてきた前世の記憶が、強烈な拒絶反応となって脳裏をよぎる。カゴの中でぬくぬくと生きるなんて、ドブ底のサバイバーとしてのプライドが許さねえ。
だが、状況を把握しようと周囲を見回した瞬間、俺のその怒りは別の方向へと跳ね上がった。
――カゴ(ケージ)なんて、どこにもなかった。
頭上にあるのは、湿った土と、地上からグロテスクにのびて蠢く『迷宮植物の根』が複雑に入り組んだ、薄暗い天井。
そして俺の周りには、同じように灰色の毛皮をまとった野生のハムスターたちが、数十匹ほど、身を寄せ合ってガタガタと震えていた。
彼らの視線の先を見る。
キチ、キチキチキチッ……!
土の壁に掘られた極小のトンネルから、ヌッと姿を現したのは、俺の体長の三倍はあろうかという、禍々しい漆黒の甲殻を持った巨大な「ムカデ」だった。
前世の東京の台所で見たやつとは次元が違う。高酸素濃度か魔力か知らねえが、明らかに「正統進化」を遂げた、肉食の化け物だ。
「ヒィッ……!」
「逃げ、逃げろ……!」
周囲のハムスターたちが、情けない悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。中には腰を抜かして、ただ食われるのを待つように丸まっている奴までいた。
ただの餌。
捕食者に怯え、ただ食われるためだけに生殖し、数を頼みに生き延びるだけの、哀れな野生の弱者。
その情けない姿を見た瞬間、俺の頭の中で何かがパチンと弾けた。
「――あ? 何をガタガタ震えてやがる、このマヌケどもが」
気がつけば、俺は逃げるどころか、巨大ムカデの目の前へと一歩、踏み出していた。
「前世じゃよぉ、人間サマが仕掛けた粘着シートも、毒エサも、殺鼠剤も、全部ハックして生き延びてきたんだ。百戦錬磨のドブネズミ様が、たかが虫ケラ一匹にビビって背中見せるわけねえだろ」
キチィッ!?
生意気な獲物の接近に、巨大ムカデが頭部の凶悪な顎を鳴らす。
だが、俺の目には、そのムカデの動きがひどく大雑把に見えた。
東京の厨房で、時速数十キロで迫ってくる人間サマのホウキや、殺意の塊のような猫の爪に比べれば、ただデカいだけの虫の突撃なんて、止まっているも同然だ。
「サイズが三倍? 結構なことじゃねえか。的がデカくて助かるぜ」
フッと鼻で笑い、俺はもふもふの体を信じられない角度で捻った。
ハムスターの体は驚くほど柔らかい。骨がないんじゃないかってレベルで伸縮する。その性質を、前世の戦闘経験で瞬時にハッキングする。
迫り来るムカデの牙を紙一重でかわし、側頭部を駆け上がり、その背後へ。
「虫ケラが文明人の真似事してんじゃねえよ。ドブ底の戦い方ってやつを、教えてやる」
俺は、自分の口内に仕込まれた『前歯』に意識を集中させた。
ジャンガリアンだろうがドブネズミだろうが、ネズミ目の牙は一生伸び続ける最強の天然ドリルだ。しかも、今の俺の牙は、地底の妙な環境のせいで、異常な結晶質を帯びて硬化している。
標的は、ムカデの甲殻の継ぎ目――一番柔らかい首の皮膚。
「死ねッ!!」
ギチリ、と肉に牙が食い込む嫌な感触。
そのまま、前世で何百本の電線を噛み切ってきたアゴの力を全開にして、一気に顎を引いた。
ブシャァッ!!!
紫色の毒々しい体液が、俺の灰色の毛皮を汚して吹き出す。
頭部を半分以上引きちぎられた巨大ムカデは、数秒間だけ激しくのたうち回り、やがてピクピクと痙攣して動かなくなった。
静寂が、泥の回廊を支配する。
さっきまで逃げ惑っていたハムスターたちが、信じられないものを見る目で、返り血(虫液)を浴びた俺を遠巻きに凝視していた。
俺はムカデの死体の上に立ち、口の周りの汚れを前足で乱暴に拭いながら、呆然と突っ立っているもふもふ達を見下ろした。
「おい、そこの腰抜かしてるお前。……そう、お前だ」
「ひ、ひゃいっ……!」
「この虫の死体、まだ肉が新鮮だ。植物の根っこばっかり齧ってねえで、生き残りたきゃこれを食って、さっさと体(腸内環境)に虫の栄養を取り込め。今日から、俺がこの群れのボスだ」
誰も逆らう者はいなかった。
ただの餌だったもふもふの群れが、一匹の「ドブネズミの魂」によって、地底を揺るがす最悪の覇王軍へと変貌していく。
その記念すべき、最初の第一歩だった。




