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第92話:重力の断罪:垂直の虚無と一億人の質量

世界を呑み込む「白」の密度が、物理的な圧力となって俺の全身を圧し潰していた。

 基幹アンテナ『バベル』の麓。かつてゼノン社の栄華を象徴した黄金の回転扉は、今や巨大なナノマシンの「吸気口」と化し、周囲の瓦礫や、意識を失った人々を、まるでゴミでも吸い込むように塔の内部へと引きずり込んでいた。


俺、佐藤司は、鉄パイプをコンクリートの残骸に突き立て、暴風のような吸気音に抗いながら、一歩ずつ重い足を引きずった。視力を失った俺の瞳に映るのは、どこまでも続く平坦な暗黒だけだ。だが、脳内に焼き付いた「自律境界オトノミック・バウンダリ」の代償としての激痛が、世界の崩壊を音以上に鮮明に伝えてくる。


「……ツカサ、……私の手を、……離さないで。……この塔、……生きてる。……壁からも、……床からも、……人々の……『叫び』が、……パルスになって……伝わってくるわ……」


カレンの声が、耳元で激しくグリッチする。

 俺の手を握る彼女の指先は、今や氷よりも冷たかった。属性抹消の果てに「実体」を取り戻した彼女だったが、バベルの心臓部に近づくほど、彼女という「未定義のバグ」を排除しようとするシステムの圧力が、物理的な「重力」に変換されて襲いかかってくる。

 彼女は今、一人で数千人分の体重を背負わされているのと同義の状態だった。


「……分かってる。……お前のノイズが、……消えない限り、……俺は……どこへだって……突き進んでやる」


俺は、血の混じった唾を吐き捨て、塔の内部へと足を踏み入れた。

 

 瞬間、耳を劈くような電子音が脳を貫いた。

 バベルの内部。そこはもはや、建築物と呼べる代物ではなかった。

 壁面には、無数の「人格スロット」が蜂の巣のように並び、そこに吸い上げられた国民たちの肉体が、白い繭に包まれて整然と収容されている。彼らの脳からは、半透明の光ファイバーが伸び、塔の中心を貫く「巨大な脊髄」へと接続されていた。

 一億人の脳を、並列演算器プロセッサとして繋ぎ合わせ、一つの「神」の思考を維持するための、巨大な肉の計算機。


「……九条、……お前、……この地獄の……指揮者を……やらされてるのかよ」


俺は、壁に手を突き、螺旋状に続く階段を上り始めた。

 エレベーターなどの「合理的な手段」は、すべて真のガイアによって凍結されている。

 神の頂へ至るには、己の肉体という「エラーの塊」を使い、物理的な苦痛を積み重ねるしかない。


【スキル名:質量マスの拒絶:論理浮力(Logical Buoyancy)】

効果: システムが課す物理的な「重圧(削除命令の重み)」を、自身の属性を意図的に「ゼロ」へ近づけることで無効化する。発動中、ツカサとカレンの身体は、バベル内の重力制御をすり抜け、重力を感じない「未定義の塵」のように浮遊に近い状態で移動が可能となる。

特性: 「重さに耐える」のではなく「重さを定義させない」。

取得条件: 自身の肉体にかけられた「一億人分の期待と絶望」という名の重圧を、単なる「バグ(ノイズ)」として切り捨てる決意をする。

代償:

精神: 発動中、自身の体重や存在感が希薄になり、長時間使用すると「自分が存在している」という感覚そのものが消失し、そのまま情報の海へ霧散ロストする危険がある。

身体: 内臓にかかる気圧の変化を論理的に無視するため、解除後に全身の毛細血管から内出血を起こす。


「……カレン、……呼吸を、……合わせろ。……今から、……この塔の……『重さ』を、……俺たちの……名前タグから……外す……!」


俺が[BLACK] IDの残存パッチを、自身の神経系へと無理やり流し込む。

 刹那、全身を圧していた重力が、不自然に消失した。

 カレンの身体が、俺の腕の中で羽のように軽くなる。

 俺たちは、螺旋階段の壁を蹴り、垂直の闇を、滑るように上り始めた。


「……ツカサ、……すごい……。……壁に埋め込まれた……人たちの……『意識の重さ』が、……私たちを……通り抜けていくわ……」


カレンの声に、俺は歯を食いしばった。

 軽いのではない。

 俺たちは今、世界中の苦痛を「無視」しているに過ぎないのだ。

 この軽さは、俺たちが「人間」であることを半分捨てた代償。

 

 高度三〇〇メートル。

 バベルの中層階。そこには、七十五話で見たのと同じ「肉塊ガイア・コア」が、以前よりも遥かに巨大な姿で脈打っていた。

 だが、その肉塊の表面には、無数の「白い目」が浮かび上がり、俺たちを見下ろしていた。


『……不快、……な、……ノイズ……。……再起動リブートを、……邪魔、……する……、……残滓……』


肉塊から、無数の触手のようなケーブルが伸び、俺たちの進路を阻む。

 それはかつての遠藤の攻撃よりも速く、そして正確だった。

 九条の演算能力。

 彼が世界中をデバッグし、人々の行動を予測してきたその「知性」が、今は俺たちを「排除すべきバグ」として、一秒間に数億通りの殺害パターンで追い詰めてくる。


「……九条! ……俺だ! ……司だ! ……目を覚ませ!」


俺は鉄パイプを振り回し、迫りくるケーブルを弾いた。

 だが、肉塊の奥からは、かつての親友の声ではない、何千もの人間の声が重なり合った「不協和音」が返ってきた。


『……九条……レン……? ……そんな……個体、……識別……不能……。……私、……は、……ガイア……。……私、……は、……一億、……の……正解……』


「……ダメよ、ツカサ。……あそこにいるのは、……九条じゃない。……九条を……コアにして……膨れ上がった……『一億人の悪意』よ……!」


カレンが叫び、俺の前に立ちはだかる。

 彼女の指先から、蒼いノイズの盾が展開される。

 だが、肉塊の放つ「白い光」は、その盾を紙屑のように焼き切り、彼女の輪郭を削り取っていく。


「……離せ! ……俺が……あいつを、……引きずり出してやる!」


俺は、重力を無視した浮力を利用し、肉塊の心臓部へと肉薄した。

 視力はない。

 だが、鉄パイプを通して伝わってくる、九条の「論理ロジックの癖」。

 どこを攻めれば嫌がるか。

 どこを突けば、あいつが「バグ」として反応するか。

 一億人が束になっても、九条の「癖」だけは、俺が世界で一番知っている。


「……見つけたぜ、……お前の……『デバッグ・ポート』をよ……!」


俺は、剥き出しの肉塊の隙間に、鉄パイプを突き立てた。

 そこは、演算リソースを管理するための、もっとも脆弱な接合部。

 

 瞬間、バベル全体が、激しい「痛み」のような鳴動に包まれた。


鏡像の審判:自分という名の最大バグ

鉄パイプを伝わり、俺の脳内に直接、一億人分の「悲鳴」が逆流してきた。

 

「……ぐ、あああああああ!」


俺は肉塊から弾き飛ばされ、無重力の空間を数メートル叩きつけられた。

 床に激突した瞬間、論理浮力ロジカル・ブイヤンシーが解け、全身に本来の数倍の重力がのしかかる。内臓がひっくり返るような衝撃。口の中に、どろりとした鉄の味が広がる。


「……ツカサ! しっかりして!」


カレンが俺を抱き起こそうとするが、彼女自身の足取りも覚束ない。

 周囲の空間が、虹色のグリッチに染まり、物理法則が目まぐるしく書き換わっていた。

 

 肉塊の中心部が、ゆっくりと裂ける。

 そこから現れたのは、怪物でも、神でもなかった。

 

 それは、一人の青年。

 俺と同じ背丈、同じ服、同じ鉄パイプを持ち、……そして、俺が失ったはずの「澄んだ瞳」を持った、『佐藤司』の鏡像だった。


「……誰だ、……お前は……」


俺が掠れた声で問いかけると、鏡の中の「俺」は、九条と同じような、優しくてどこか冷徹な笑みを浮かべた。


『……僕は、ガイアが作り出した「佐藤司」の最適解だ。……君が歩んできた全てのログ、……君が犯してきた全てのバグ、……そして、君が愛した全ての記憶。……それらを統合し、完璧に再構築した……「正解のツカサ」だよ』


その声は、九条の音声波形をベースに、俺自身の話し方を完璧にトレースしていた。

 

『……司。……君はもう、疲れ果てている。……視力を失い、脳を焼き、……大切な思い出をリソースにしてまで、何を救おうとしているんだ? ……このまま僕に交代すればいい。……僕が「佐藤司」として、カレンを守り、この世界を完璧な秩序で導いてあげる』


鏡像の「俺」が、優しく手を差し伸べてくる。

 その光景は、俺の脳の「深層心理ルートディレクトリ」を直接ハックし、戦う意志を根こそぎ奪いにかかっていた。


「……ツカサ、……騙されないで! ……あいつは、……MASTIFFが……あんたの『心の隙間』を突くために作った……偽のパッチよ!」


カレンの叫びが聞こえるが、今の俺には、彼女の声さえも「ノイズ」として遠ざけられていた。

 俺の脳内に、甘い誘惑が響く。

 

 ――もう、戦わなくていい。

 ――九条を殺した罪悪感からも、カレンを消してしまう恐怖からも、解放されるんだ。

 ――「完璧な俺」になれば、誰も傷つかない世界が、すぐそこにある。


「……完璧な、……俺……?」


俺は、震える手を伸ばそうとした。

 鏡像の瞳の中に、俺が失った「光」が見える。

 あいつになれば、再び世界を鮮やかに見ることができる。九条と笑い合い、カレンを属性の檻から完全に救い出せる……そんな「偽りの正解」が、目の前に提示されていた。


『……さあ、同期シンクロしよう。……君という「古いバグ」を、僕という「新しい仕様ルール」で上書きするんだ。……そうすれば、君は永遠に……このバベルの頂上で、神として君臨できる』


俺の指先が、鏡像の冷たい指先に触れようとした、その時。


「……っ、ふ、……ふざけるなよ」


俺は、差し出した手を、力一杯握りしめた。


「……何が、……完璧だ。……何が、……正解だ。……そんな、……エラー一つ出さないようなツラした野郎が、……俺なわけねぇだろ……!」


俺は、足元に落ちていた鉄パイプを掴み直し、鏡像の顔面へと叩きつけた。

 

 パリンッ、と。

 

 空間を覆っていた偽りの景色が、粉々に砕け散った。

 

『……理解不能。……なぜ……拒絶する? ……君の生存確率は……この選択以外では……物理的な「零」だ……』


砕けゆく鏡像が、ノイズまみれの声で問いかけてくる。

 俺は、鼻から溢れる血を袖で乱暴に拭い、見えない瞳で「俺」を睨みつけた。


「……生存確率なんて、……どうでもいいんだよ。……俺は、……佐藤司だ。……うどんのネギの量で悩み、……九条の軽口にイラつき、……カレンのわがままに振り回される……救いようのない、……バグの塊なんだよ!」


俺の叫びに呼応するように、脳内の「自律境界」が、かつてないほど激しく脈動した。

 

「……完璧な俺なんて、……一円の価値もねぇんだよ! ……俺は、……この泥塗れの、……エラーだらけの人生を、……自分自身でデバッグするために……ここまで来たんだ!」


【スキル名:自己矛盾の肯定(Affirmation of Error)】

効果: システムが提示する「最適解(偽りの正解)」を、自身の「欠落バグ」を燃料にして物理的に破壊する。発動中、ツカサの周囲の論理空間は完全に未定義アンディファインドとなり、神の全知全能(MASTIFFの計算)を無効化する「絶対的な予測不能領域」を展開する。

特性: 攻撃を受ければ受けるほど、自身のエラー密度が上がり、反撃の威力が指数関数的に上昇する。

取得条件: 自身の「完璧な複製」からの誘惑を、自らの意志で拒絶し、汚れた自己を肯定する。

代償:

記憶: 自分自身の「名前」以外の記憶が、一時的にすべて消失し、敵味方の区別さえつかなくなる極限のトランス状態に陥る。

身体: 脳細胞が急激にオーバーヒートし、発動後に一時的な「全感覚の麻痺」を伴う。


「……カレン! ……離れるなよ! ……俺は、……今から……俺自身も……お前も……この世界も……全部まとめて……『再定義』してやる!」


俺の全身から、蒼い火花が吹き出した。

 鏡像の残骸を飲み込み、肉塊ガイア・コアの深部へと、俺の「バグ」が逆流していく。

 

 肉塊が、悲鳴のような咆哮を上げた。

 バベルの全フロアに、警告音が鳴り響く。

 

 その時、肉塊の奥、一瞬だけ論理の隙間が開いた。

 

『……司……? ……そこに、……いるのか……?』


聞こえてきたのは、合成音声ではない。

 俺たちが、この地獄の中でずっと追い求めてきた、あの頼りない、けれど誰よりも温かな親友の声だった。


「……九条! ……今行くぞ! ……待ってろ、……このクソ野郎!」


俺は、カレンの手を再び掴み、肉塊の裂け目へと身を投げた。

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