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第85話:垂直の叛逆:高度300メートルの仕様変更

バベルの内部は、静謐な狂気に満ちていた。

 地上での暴動も、蒼い空のノイズも、この塔の厚い壁の中までは届かない。

 聞こえてくるのは、巨大な冷却ファンが空気を切り裂く重低音と、数万台のブレードサーバーが吐き出す、電子の囁きのような廃熱の音だけだ。


「……エレベーターは、……止まっているわ。……九条が、……最後に言っていた通りね。……『神に近づくには、……自分の足で、……苦労しなさい』って」


カレンの声が、高い吹き抜けに反響する。

 俺たちは、非常用の螺旋階段を、一歩ずつ上り始めた。

 全盲の俺にとって、この登攀は文字通りの「手探り」だった。鉄の手すりの錆びた感触。階段の一段一段が、俺の膝に「存在の重み」を突きつけてくる。

 

 自律境界オトノミック・バウンダリの代償により、俺の肉体はシステム外の異物として、強い反発を受けていた。一歩上るごとに、肺が焼け、心臓が爆発しそうな鼓動を打つ。


「……ツカサ、……無理をしないで。……私のリソースを、……あんたの心臓に、……流し込んであげるから」


「……バカ、……よせ。……お前のリソースは、……お前自身の、……輪郭を保つのに、……使え……」


俺は、荒い息を吐きながら、カレンのノイズの手を強く握った。

 彼女の存在確率は、今や10%を切っている。俺の脳内投影でも、彼女の姿は一瞬ごとに消え、また不規則なブロックノイズとして再構成される。彼女はもう、人間ではなく、意志を持った「現象」に近い存在になりつつあった。


高度三〇〇メートル。

 塔の中層階、ゼノン社の「新経営陣」が集まる管理フロア。

 そこには、九条や遠藤のような「狂った天才」たちは一人もいなかった。

 いたのは、MASTIFFという神を失い、それでも自分たちの特権を維持するために、震える手でキーボードを叩き続ける、ただの「臆病な官僚」たちだ。


「……だ、誰だ! ……侵入者か!? 警備ロボットはどうした!」


一人の男の声。

 俺の「盲目の反響ブラインド・エコー」には、彼の波形が、恐怖と自己保身でぐちゃぐちゃに歪んで見えた。


「……掃除屋は、……もういない。……あんたたちが、……必死に守ろうとしているこの塔も、……もうすぐ、……ただの……鉄くずになる」


俺は、鉄パイプを床に突き、一歩、前に出た。

 鼻から、どろりとした熱いものが溢れる。

 全盲の瞳。

 だが、今の俺には、彼らがどれほど脆弱な「規約」の上に立っているのかが、痛いほどよくわかった。


「……鳳凰院、……カレン様!? ……な、なぜ、……あなたが……!? あなたは、……死んだはずだ! 属性は、……完全に抹消されたはずだ!」


カレンの「亡霊」を目撃した男が、椅子から転げ落ちる。

 鏡に映らない令嬢。

 彼女の存在そのものが、彼らにとっての「不条理」であり、論理の崩壊だった。


「……私は、……鳳凰院の娘なんかじゃないわ。……あなたたちが、……ゴミとして捨てた、……一億人の……バグの欠片よ」


カレンが、コンソールへ手をかざした。

 彼女の指が、キーボードをすり抜け、物理的なスイッチを無視して、論理回路を直接かき乱す。


スキル名:亡霊の監査(Ghost Audit:Zero Logic)

効果: カレンが物理的なコンソールに「ノイズ」として干渉し、管理者権限を無視して、システムの「設定ファイル(Config)」を直接書き換える。相手のパスワードや認証を必要とせず、システムの「脆弱性」そのものに自身の無を注入する。

特性: 攻撃ではなく「仕様の変更」。

取得条件: 属性抹消された者が、自身の存在の不安定さを逆手に取り、デジタルと物理の境界が曖昧な「基幹アンテナ」に接触する。

代償: カレンの自我の一部が、システムログに吸い出され、発動後に一時的な言語喪失ボイス・エラーを引き起こす。


「……っ、ぐ……ァ……」


カレンの身体が、激しく明滅する。

 フロアの全モニターが、一斉にエラーを吐き出し、経営陣たちの悲鳴が上がる。


「……や、やめろ! ……意識統合が、……再起動できなくなる! ……国民を、……管理下に置かなければ、……この国は……!」


「……管理なんて、……必要ねぇんだよ」


俺は、男の襟首を掴み、力任せに壁へ押し付けた。

 視力はないが、彼の心臓の鼓動が、俺の手に伝わってくる。


「……人間は、……バグを出しながら、……エラーを吐きながら、……それでも……生きていくもんなんだ。……あんたたちの、……綺麗な正解パッチなんて、……誰も望んでねぇんだよ」


俺は男を放り捨て、カレンの隣に立った。

 彼女の腕は、もうほとんど透き通って、俺の脳内からも消えかけている。


「……カレン、……あと少しだ。……最上階、……アンテナの直下。……そこで、……フェニックスを……空に放つぞ」


「……ぅ……あ……」


カレンは言葉を失っていた。

 だが、彼女は力強く、俺の袖を掴んだ。

 その感触だけが、俺を、この垂直の地獄で繋ぎ止めていた。


背後で、管理フロアが次々と停電し、闇に包まれていく。

 俺たちは、再び階段を上り始めた。

 目指すは、蒼いエラーの空へ最も近い場所。



バグたちの巡礼は、ついに、神の喉元へと手をかけた。

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