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第84話:虚空の巨塔:バベルへの巡礼

蒼いエラーのエラー・ブルーから、実体のないノイズの雪が降っている。

 視力を失った俺の瞳には、かつて九条が見せてくれた華やかなネオンも、ゼノン社の威厳あるビル群も映らない。ただ、耳に届くのは、遠くで鳴り響く暴動の怒号と、機能不全に陥ったドローンが墜落し、アスファルトを削る不快な金属音だけだ。


「……ツカサ、見えたわ。……雲を突き抜けて、天を刺している……絶望の塔。……あそこに、……全ての『終わり』と『始まり』が隠されているのね」


カレンの声が、冷たい風に乗って俺の耳を打つ。

 俺は、杖代わりに使っている鉄パイプを強く握りしめた。彼女のノイズの腕が、俺の腕に絡みついている。その感触は、今や皮膚を通した触覚ではなく、俺の脳の「存在定義アンカリング」の階層を直接揺さぶる、微弱な電気信号に変わっていた。


「……バベルか。……神への反逆の象徴に……最後は相応しい名前だな。……サカモト、……周辺の警備はどうなっている」


俺の後方で、息を切らしながらサカモトが答える。


「……地獄そのものですよ、佐藤様。……MASTIFFという脳を失った……ゼノン社の親衛隊たちが、……自分たちの拠点を守るために……『物理封鎖パッチ』を周囲一帯に敷いています。……近づくもの全てを……未定義のゴミとして……粉砕する気です」


脳内にある「盲目の反響ブラインド・エコー」を研ぎ澄ます。

 前方の空間から、凄まじい「圧力」が伝わってくる。それは物理的な風圧ではない。システムがその領域の「存在」を極限まで硬化させ、異物を許容しないという、論理的な拒絶の壁。


遠藤から受け取ったメモリーチップが、俺のポケットの中で、まるで心臓のように熱を帯びていた。


「……遠藤の遺したこの鍵が、……どこまで通用するか。……カレン。……お前の『無』が必要だ。……俺の観測を、……一瞬だけ……攻撃ハックに回す」


「……ええ。……私を、……あんたの弾丸にして。……鏡に映らない令嬢の……最後のわがままを、……あの塔にぶつけてあげる」


俺たちは、バベルの結界へと足を踏み入れた。

 その瞬間、全身の毛穴から血が吹き出すような、凄まじい重圧が襲いかかる。

 MASTIFFの残滓が、俺たちの「属性」を照合しようとして空振りし、そのエラーの反動が衝撃波となって俺の脳を焼く。


スキル名:境界突破:虚数回廊(Void Corridor Walk)

効果: 属性抹消されたカレンを先頭に、全盲のツカサが「背後霊」のように重なることで、システムの監視網と物理的障壁の「隙間」を0.1秒単位で縫うように移動する。対象範囲内の物理法則(摩擦、慣性、重力)を、一瞬だけ「未定義」として無効化する。

特性: ステルスではなく「存在そのものをエラーとして滑らせる」移動。

取得条件: 自身の肉体限界(鼻血、意識混濁)を自覚したハッカーが、存在が希薄化したパートナーに、自身の命(観測)を完全に委ねる。

代償: カレンのデジタルノイズ化がさらに加速し、一時的にツカサの脳内からも彼女の信号が消失する。ツカサの「平衡感覚」が完全に破壊され、発動後に立ち上がることが困難になる。


「……そこよ、ツカサ! ……右前方の、……データの歪み! ……あそこだけ、……法の目が、……死んでいる!」


カレンの叫びに従い、俺は鉄パイプを突き、瓦礫を蹴って跳んだ。

 視界は真っ暗だ。

 だが、俺の脳内には、カレンが切り裂く「虚無の道」が、蒼い閃光となって焼き付いている。


バチィィィィィィン!


耳を劈くような電子音が響き、俺たちの背後で、数秒前までいた空間が、親衛隊の放った高出力レーザーによって結晶化し、砕け散る。

 存在しないものを撃とうとしたシステムが、自らの出力を制御できずに暴走しているのだ。


「……ハァ、ハァ……。……入り口まで、……あと、……少しだ……」


俺は口の中に溜まった鉄の味を吐き捨てた。

 脳が、熱で溶けそうだ。

 だが、カレンのノイズの温もりが、俺を「佐藤司」という個体から零れ落ちるのを、必死に食い止めていた。


バベルの足元。

 そこには、かつての地上の栄華を象徴する、黄金の自動扉があった。

 今やその扉は、絶え間なくスパークを上げ、侵入者を拒む鉄の顎と化している。


「……サカモト、……チップを。……遠藤。……あんたの『正義』を、……俺に貸せ……!」


俺は、遠藤の血の染みたチップを、扉の横にある、剥き出しの管理者用ポートへと叩き込んだ。


――一瞬、世界から音が消えた。


蒼いエラーの空が、一瞬だけ、真っ白にフラッシュする。

 遠藤の残留思念が、管理者権限の亡霊となって、バベルの門を内側から食い破った。


「……開いたわ。……ツカサ。……地獄への入り口が、……鳳凰院の娘を、……招待しているわよ」


俺は、重く開く扉の向こう側から吹いてくる、オゾンの冷気を感じた。

 ここから先は、もう戻れない。

 一億人の空を書き換えるための、垂直の巡礼が始まった。

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