第82話:残滓のゆりかご:鳳凰院別邸の亡霊たち
視界を奪われた世界は、驚くほど多弁だった。
杖代わりに使っている鉄パイプがアスファルトを叩く硬質な音。風に流される砂塵が頬を撫でる微かな摩擦。そして、隣を歩くカレンの足音――それはもはや靴が地面を踏みしめる音ではなく、電子のノイズが空間を劈く、歪な共鳴音として俺の脳に届いていた。
「……ツカサ、もうすぐよ。……かつて私が、……お父様に内緒で、……自分だけの宝石箱を隠していた……鳳凰院の別邸跡。……今は、……ただの石ころの山にしか見えないけれど」
カレンの声が、重く沈んだ空気の中で微かに震えている。俺の腕を掴む彼女の指先は、時折、俺の皮膚をすり抜けて神経に直接冷気を流し込んでくる。存在定義という綱渡りのようなハック。俺が彼女を「人間」だと信じ続ければ彼女は形を保ち、俺の意識が途切れれば彼女はこの世からログアウトする。全盲の俺にとって、彼女はもはや視覚的な存在ではなく、脳内に直接焼き付けられた「生存の脈動」そのものだった。
「……宝石箱か。……中に入っているのは、……一億人をバグらせるための……最悪なパッチ(劇薬)なんだろうな」
「……失礼ね。……鳳凰院の娘が隠すものは、……いつだって……最高級の不条理よ」
カレンが短く笑った。その笑い声の残響を追いかけるように、俺たちは瓦礫の山を越え、かつての栄華の残骸へと足を踏み入れた。
そこは、情報の死臭が漂う場所だった。
かつての別邸を覆っていた最高級のセキュリティ・ナノマシンは、MASTIFFの崩壊に伴う過負荷で全てが「蒼い結晶」へと変質し、庭園の木々や噴水を無機質な彫刻へと変えていた。空を覆う蒼いエラー画面から降り注ぐ光が、その結晶に乱反射し、全盲の俺の瞼の裏にさえ、鋭い「痛み」としての残像を焼き付けてくる。
「……佐藤様。……お嬢様。……お待ちしておりました」
瓦礫の陰から現れたのは、サカモトだった。
俺の脳内にある「盲目の反響」が、彼の存在を捉える。だが、以前のような「ゼノン社の技術者」としての整った波形ではない。その波形は、幾度も肥料にされかけ、脳を焼かれた者特有の、断続的で、今にも消え入りそうなノイズに満ちていた。
「……サカモトか。……地上の空気は、……地下よりも……少しはマシか?」
「……皮肉なものですね。……空気は綺麗になりましたが、……世界を支えていた『ロジック』が消え、……人々は、……自分の名前さえ、……どう名乗ればいいのか……戸惑っています。……自由とは、……重すぎるパッチのようですね」
サカモトが案内した先は、別邸の地下に隠されていた、物理的なバックアップ・シェルターだった。
そこには、かつてゼノン社を追われた者たち、肥料にされる運命から俺たちが救い出した「旧カレン派」の生き残りたちが、数十名も集まっていた。彼らは、動かなくなった端末を抱え、あるいは古びた紙の図面を広げ、暗闇の中で身を寄せ合っていた。
俺が部屋に入った瞬間、そこにあるすべての「気配」が、俺たちに向けられた。
期待、恐怖、そして信仰。
鏡に映らない令嬢と、神(MASTIFF)を殺した全盲のデバッガー。
彼らにとって、俺たちはもはや人間ではなく、新しい世界の「仕様(規約)」そのものとして映っているのだろう。
「……ツカサ。……みんな、……あんたを待っていたのよ。……世界をどう書き換えるのか、……そのコードを……あんたが持っていると……信じて」
カレンが俺の腕を離し、民衆の方へと一歩踏み出した。
俺の視界は真っ暗なままだ。だが、彼女が歩くたびに、空気中のナノマシンが蒼く発光し、彼女の「ノイズの輪郭」を可視化していく。
「……聞きなさい、鳳凰院の亡霊たちよ!」
カレンの声が、冷たいシェルターの中に響き渡る。
「……神は死んだわ。……あそこにいる機械の番犬も、……空を覆う監視の眼も、……もうあなたたちに『正解』は教えてくれない。……これからの世界は、……一文字、一文字、……自分たちの手で……エラーを出しながら書き上げる……最低な……自由の戦場よ!」
民衆が、ざわめく。
彼女の言葉は、希望ではない。むしろ、救いという名の甘い麻薬を奪い去る、残酷な宣告だった。だが、その残酷さこそが、地下の掃き溜めでうどんを啜ってきた俺たちには、何よりも真実に聞こえた。
「……サカモト。……フェニックスの最終フェーズを始める。……一億人の脳に焼き付いた……MASTIFFの残響を……全部消去して、……一人一人が……自分勝手にバグれるような……OSを配るぞ」
「……了解しました、佐藤様。……ですが、……そのためには……地上に一箇所だけ残っている……基幹アンテナ『バベル』の物理制御を……奪う必要があります。……あそこには、……まだ……」
サカモトが言葉を濁した瞬間、シェルターの防熱扉が、内側から激しく叩かれた。
物理的な衝突音ではない。
それは、システムそのものが「矛盾」を検知した時に発する、凄まじい論理エラーの衝撃波だった。
「……九条? ……いや、違うな」
俺は、鉄パイプを強く握りしめた。
脳内のノイズが、かつてないほど「白く」塗りつぶされていく。
喜怒哀楽を失い、一度は俺たちの手で「解放」したはずの、あの男の波形が、扉の向こう側で脈打っていた。




