∞第五話 仲人は夢で縁(えにし)を伝えるー柏餅(かしわもち)ー
「五月五日か」と丸之内陸空。
首都高速湾岸線で千葉方面から都内へと向かっていた。午後六時、ちょうど海岸側には、洋画アニメ映画に出てくる西洋風のお城が、暮れなずむビル群の隙間から見え隠れする場所。そんなテーマパークを見てロマンティックな気分に浸っている二人だ。
「そうね、子供の日。うちのパパもママも嬉しそうだった。恋人のあなたに成田まで送ってもらって。とても機嫌がよかったわ。式場の予約も済んだし、あとは挨拶状の用意ね」
プロポーズを正式に受けていないのになんとなくそこまで話が進んでしまっている二人。もう結婚を承諾したも同然なのだが、心に残るプロポーズも欲しいと思う乙女心の捨てきれない皐月だ。
陸空との会話に恋人の東西皐月はうっとりした瞳で窓の外を見つめてた。黒のセーターに揃いの翡翠のネックレスとイヤリング。明るい緑色が黒に映える。スカートも黒で少し大人っぽい身なりだ。
「ちょっとさ、近所なんだけど知り合いのお店があるんでそこで晩御飯を食べていってもいいかな?」
「ええ、もちろん」
「じゃあ葛西の駅前に車を置いて歩くよ」
陸空の言葉に、
「知り合いとか言って、潮風食堂なんじゃない?」
「ばれたか」と笑う彼。
「了解です。私も一色さんを知らなわけではないですから」
皐月はイヤリングの先端位置を軽く直しながら軽く笑って返事した。
紺のブレザーにハンカチ、タイピンに絹の赤いネクタイと装いは完璧な今日の陸空。彼女の両親と会って彼らの旅行前に空港まで送りがてらのご挨拶だった。その帰り、そのままの服装である。三十歳近い年齢になってようやく結婚の意思が固まった彼だが、実は少しだけこの縁談に不思議さを感じる部分もあった。
結婚予定の報告を兼ねて知人たる潮風食堂に向かう。
湾岸線葛西口で高速道路を降りると一般道を山側に向けて走る。ものの五分としない場所にある大きな螺旋パーキングに車を入れた。
青年実業家とファッションモデルのカップル。いかにもありそうな格好いい二人だが、その出会いは不思議なものだった。特に接点もなかった二人だし、実業家とはいえ大富豪というわけでもない陸空と芸能ネタを持つような目立った特徴もないファッションモデルの皐月だ。でもその出会い、めぐりあわせは、まるでミラクルと言わずにはいられないところもあった。その発端がこれから行く飲食店だった。
時間は少し戻って数年前。
陸空はその日、地下鉄に乗って都内のお得意さんを巡っていた。独立して連絡先が変わったので挨拶代わりの名刺を配りまくっている最中だ。自動改札を抜けるとホームに降りる階段の手前で二の足を踏む老夫婦を目にした。それが九十代で亡くなったはずの祖父母の壮年期である六十歳頃にそっくりだった。
故におおよそ九十歳ごろ、自分の祖父母は両者ともに天に召されたはずなのでこの世には存在しない。既に亡くなってから久しく時間がたっている。所詮は他人の空似である。……にしてもそうとはいえ、どこか彼はその老夫婦に対してなんとも優しい親近感を覚えずにはいられなかった。何がそう思わさせたのか原因はわからないのだが。
持ち前のコミュ力で彼は、「どうかしました?」と老夫婦に尋ねる。目の前には延々と続いている階段がある。たまたまここはエスカレーターのない入口、連絡通路だ。最近はそんなに多くはないのだが、未だたまにそういう出口が残っている駅が存在するのも確かだ。
『杖を突いた年輩男性と和装の年輩婦人にはすこし難がある』
そう思える状況と彼は判断した。
その老夫婦、互いに崖の端にいる心境なのだろう。足腰が丈夫なうちならこれくらいの階段などなんともないのだが、どっぷりと壮年期や老年期に入った夫婦にとって、それは前進を拒む大きな障害物として当事者の前に立ちはだかることも多い。
彼は二人を遠巻きで観ていたが少し考えこむと、思い切ってその次の声をかけた。
「お二人さん。こっちじゃなく、この反対側の改札通路ならエスカレーターもエレベーターもあるからいったん改札を出ましょう。そう遠くないので、五分もかかりません。ご案内しますよ」
事の次第を見ていた若い女性も合流、彼女は気を利かせて、先に改札横の詰め所にいた駅員にその二人の状況を先に教えて改札外にいったん出る了解を得た。
「駅員さんに説明しました。A3出口前の改札ならホーム行きのエレベーターがすぐ右手にあるそうです」と笑顔でいう。臙脂色のワンピースに赤いヒールを履いた二十代中頃の女性。その手際の良さに老夫婦も陸空も脱帽だ。
「ご親切にありがとうございます」
そう言って彼は彼女に一礼をすると、駅員にも小さくお辞儀をして改札の外へと出してもらった。
老夫婦を無事にエレベーターに乗せると彼はお辞儀をして別れた。降りていく籠の中でガラス窓越しに最後まで老夫婦は彼に深々とお辞儀をしていた。
陸空は一人になると階段を使いゆっくりとホームに降りる。するとエレベーターの近くにさっきの若い女性が立っていた。
「いやあ、さっきはありがとうございました」と彼。
「あら、もうおじいさんとおばあさんは乗って行かれたのかしら?」
その女性は軽い笑顔で陸空に訊ねる。
「先にエレベーターに改札階でお載せしたんで、もういらっしゃらないようですね。そのあと私は階段でここに降りてきました」
「あら、そうなんですか」
この場所にさっきからずっと立っていた彼女は少し不思議に思った。エレベーターから人が降りた記憶がない。だが見逃したのだろうと思って深く考えはしなかった。
「まあ、今回はいいことなさいましたね」と女性。
「ええ、お互いにねえ」というと彼も軽い会釈をして到着した同じ電車に乗った。青い帯の東西線は都心から千葉県の東京湾沿いを走って、西船橋までいく路線だ。
妙なご縁でその女性もやはり同じ駅で降りる。ここまで行動が被るものなのか、と彼は思った。ただこれ以上はさすがにしつこいと思われるので、彼女が駅を降りて階下の改札に向かったのを見届けてから改札を抜けた。
「先輩、こんばんは」とその足で潮風食堂の暖簾をくぐる陸空。
「やあ陸空君、久しぶり」
「一杯やりに来ました」と言うといつもの常連メンバーがすでに始めていた。
「おお、始まっていますね。松戸会長」と商店街の会長に声かけをした。
「やあ、陸空くん。こっちに交じりなよ」と上機嫌である。見れば、写真館の主人やおもちゃ屋の奥さんもいる。おもちゃ屋の奥さんは「陸空君。もう鉄道模型やめちゃった?」と少し赤ら顔で笑う。
「いえいえ。なかなか暇がなくて顔を出せずにすみません」
「いいのが入ったのよ。営団線の300形よ」とセールストークの奥さん。結婚当初は電車の形式もわからなかった彼女だが、常連のお客さんに教わりながら、いまでは結構な知識量を誇っている立派な鉄女である。
「おお、あの赤くて白地にくさび型ラインのやつだね。電力断線部分に青紫の非常灯が点くのが懐かしい」と笑う松戸。
「そうよ。そこの駅前の地下鉄博物館にも展示されているわ」とはしゃぐ奥さん。東京メトロの東西線葛西駅には、改札と通りを挟んだ向かいに地下鉄博物館が置かれている。数百円で地下鉄についての知識を教えてくれる手軽なミュージアムである。
軽く皆に愛想を振りまくと向かいのテーブルに陣取って陸空は、メニューを持ってきた零香に、
「上善如水を冷やの枡で。それと焼き鳥セットと焼きおにぎりをください」という。
「はい、かしこまりました」と言って零香は一色に注文を伝える。
すると彼の前にはトレイに載った焼きおにぎり、焼き鳥串五本皿、檜枡の日本酒、そして注文をしていない小さな柏餅が運ばれてきた。
「あれ、柏餅?」と零香に訊ねると、
「ああ、おまけ。今日は端午の節句でしょ」と笑った。そして「よかったら食べて」とにこやかにその場を去った。『そういえば休日になると地下鉄博物館の帰りにじいちゃんがあの和菓子屋で買ってくれたっけ』と小さな過去の幸せ、幼少期の記憶を思い出した。
夕食時のお酒と柏餅の満足感は、家についてからの彼を安眠に導いたようだ。
夢の奥深くで彼を呼ぶ声がする。
「陸空ちゃん。ほらこいのぼり買ってきたわよ」と四半世紀ほど前の南葛西ニュータウン営団公社・マンションの一室である。都心に出やすい立地条件からか、平成時代から徐々に高層マンションが増え始めた葛西。また東西線の場合、地下鉄とはいっても江戸川区に入ると、地下区間はなく、ほぼ高架橋の上を走るので、住民は地下鉄という意識を持っていない人もそこそこいる。特に下り西船橋方面に向かう人たちだ。
両親はこの付近で一番の商業集積都市である船橋で宝飾品の加工業を営んでいたが、子供がいると邪魔になる商売ということで、彼は子供時代の大部分を祖父母のもとで育てられた。初孫ということで祖父母は、その世話を面倒にも思わず、それはそれは愛情をもって育てていた。
祖父母の家はとりたてて裕福というわけではないが、また貧乏というわけでもなかった。ただその家には彼にとって重要となる環境、限りなく心のよりどころとなる自由があった。かしこまり窮屈な思いをして過ごしていた両親との生活と違って、血相を変えて怒るようなこともなく規則正しいおだやかな生活が営まれる祖父母のとの生活が彼には心地よかったのだ。徳の涵養が染み渡る生活というのはこういうことを言うのだろうと成人した頃に彼は思い返すことが多かった。
「明日のお休みはリッ君とばあちゃんと三人で営団線の地下鉄博物館にいくよ」と祖父がいうと彼の夢は無限に広がった。ちょうど幼稚園から小学校低学年の頃だ。展示車両やシュミレーターももちろんだが、お土産コーナーの地下鉄のおもちゃを買ってもらえるのがなによりの幸せだった。銀座線、丸ノ内線、日比谷線の先頭車両を模したおもちゃが彼の玩具箱に増えていく。帰りには潮風商店街の久住書店で子供向けの地下鉄絵本を買って、名月秋庵で季節の和菓子を買って帰るのが習慣だった。その時柏餅も何度となく買った記憶がある。そして和菓子を食べながら買ってもらった地下鉄のおもちゃを眺めて幸せをかみしめるのだ。ひとり遊びだったが全く寂しいと感じたことがなかった。
夢の中の祖父母は、昔と寸分たがわず柔らかな笑みを浮かべていた。
「リッ君、お嫁さんの顔を見れなくてごめんね」と祖母。
「陸空は美男子だからきっといいお嫁さんが来るんだろうな」と祖父。
夢の中でも優しい笑顔の祖父母は「あと、今日はありがとうね。優しい子に育ったね」と静かに手を振って彼の視界から遠ざかっていった。彼の眼にはうっすらと涙の跡が見られる。祖父母の『今日はありがとう』ってどういう意味なんだろう? そんな疑問を夢の中で考えていた。
ふっと目を覚ますと午前八時過ぎ。
「なんか名月秋庵の柏餅を食べたくなったな」とひとりごとをいう陸空。ベッドから自然と起き上がり身支度を整えた。
朝早い中、名月秋庵の店の前に来ると町内の皆が掃き掃除をしている。地域の活動なのだろう。勿論、名月秋庵の娘、季菜子も三角巾にエプロンで竹ぼうきを操り、枯草などを緩やかに掃きだしている。
その和菓子店の隣の家に、昨日のあの彼女がいた。ジーンズにTシャツの軽装、今日はシンプルな服装で家庭用のサンダル、すなわち『つっかけ履き』だ。
「あれ?」と陸空がいうと、あちらも気づいたようで「あら、昨日のご老人に親切な人」と箒と塵取りを住宅の壁面に置いて立てかけた。そして彼女は親し気に「この近くなんですか?」と問いかけてきた。
「そこの南葛西ニュータウン営団公社・マンションに住んでいるんですよ」と陸空が言うと、
「じゃあ南葛西第八小学校出身かしら」と笑う女性。
「はい、そこから中学は第八中です。高校は両国高校で」というと、
「まあ秀才ですね。私は中学から私立なので」とほほ笑む。
「そうでしたか」
「あのマンションってことは、じゃあ浜田あきちゃんとか白浜健ちゃんともお知り合いですか? 私の先輩なんですけど」
「健君とはいまでも乗り鉄仲間ですよ」というと、
「のりてつ?」と不思議な顔をする彼女。
「ああ、一緒に電車に乗りに行くんです。目的が場所じゃなくて、電車に乗る旅行のことです」
「ああ鉄道マニア。そういえば健君は電車大好きな小学生でした。図書委員会活動の委員長でした」と頷く彼女。
「お名前訊いてもよろしいですか?」と陸空。
「ええ、この東西呉服店の娘で東西皐月っていいます。でも住んでいる家はもとの祖父母の家で、両親とは別の家なんです。そこのアパートの奥の向かいの一軒家で元の十条家にいるんです」
「僕は丸之内陸空。十条陽太郎さん宅ですか?」
「祖父をご存じで?」
「うちの祖父の茶飲み友達でした。よく我が家では将棋を指していましたね」という陸空。
「え、じゃあ丸之内海造さんの家の方ですか?」
「ええ、祖父が海造です」
「そっか、なんかご縁がありますね、私たち」
「そうですね」
「じゃあ今度孫世代で将棋を一局いかがですか?」とジョークとも取れる提案をする皐月。
「打てるんですか?」という陸空の質問に、彼女は、
「家にはおじいちゃんの将棋と盤がありますし、小学生の時から相手させられていたのでかなりいける口ですよ、私」と自信ありげな返答だ。
皐月の誘いに、「いつでも誘ってください。電話番号は祖父の代から変わっていませんので……。なんなら今からでも」と陸空。
「本当ですか?」と目を光らせる皐月はどこか少女のような眼差しだった。
「もちろん」と受けた陸空。
こんな出会いと再会を繰り返した皐月と陸空だった。
時は戻り駐車場から歩いてきたのは家の近所。潮風商店街の潮風食堂。
「ご無沙汰だわ。潮風食堂」と笑う皐月。
「この格好で婚約の報告もしちゃおうかなって思ってさ」と陸空。
「えっ」と驚く皐月。覚悟はしていたが、そういう話になってもおかしくない状況だ。
「いいものあげるよ。真ん中に穴の開いているもの」と笑う陸空。
「えー、わかんないなあ。ドーナツ? 五十円玉?」とあくまでとぼける皐月。可愛いものである。ここらあたりは商店街まで道が入り組んでいる場所だ。
「この辺りは昔ながらの道で区画が入り組んでいるのよね」と皐月。地元の人でもたまに迷う街角だ。
「ちゃんとずっとついてきてよね」と陸空。
「うん、わかっていますって」と手をつないで言葉を返す彼女。
暖簾をくぐり、「こんばんは」という陸空。
「今日はさ、結婚式の二次会の場所予約のお願いに来ました」と陸空。
驚いたのは皐月だ。
「ちょっとタンマ。まだ私、プロポーズされてないのに他言するの?」と焦る表情だ。
「ええ? さっきリングならスカートのポケットに入れておいたし、『ずっとついてきてね』、って言ったら『うん』っていったよ」と陸空。
「ええ? あれって物理的な道順の話じゃないの? 何その不意打ち」と皐月。
「ダメなの?」と訊く彼。
皐月は顔を赤らめて「ダメなわけないじゃん」と小声で応える。そして勝手に仕込まれたらしい、ポケットの中から小箱を取り出す。デパートの包み紙に入ったジュエリーケースが出てきた。
そして陸空はなんとあの国民的猫型ロボットがポケットから道具を出す時の言い方をまねて、「うふふふ、えんげーじりんぐ!」と彼女の所作にかぶせてきた。
皐月は「こんなプロポーズがあるか!」といいながらも嬉しそうだった。
そして真顔になった陸空は「結婚して下さい」というと、皐月も「はい」とだけ答えた。
二人が話し終わると一色は厨房の奥から返事する。
「なるほどなあ。陽太郎さんも海造さんもうちの常連だったから、その孫の二人が結婚っていいねえ」
一色の感想に続いて零香も、
「さすが潮風商店街の絆よね。なんか仲人は今は亡き二人の祖父って感じがするわ」と謎めいたウインクをした。
「きっと人知れず彼らの祖父たちの遺言を実行した人がいるのかもねえ……。なんてね」と笑う一色。自分が一枚かんでいて、とぼけている風にも見えなくもない言い方だ。すると店先に飾ってあったミニチュアのこいのぼりが突然風にはためき出した。
「お、つられてこいのぼりも泳ぎ出したね。活きの良いこいのぼりだね」
一色と零香の脳裏には五年ほど前のあの日の陽太郎と海造の会話が蘇っていた。
「もしうちの孫娘とお前んとこの秀才の孫が結婚してくれたら両家は安泰だよな。菩提寺も同じだし元営団線の運転士と駅長の仲だし、なにより南葛西第八尋常高等小学校の同級生の俺らだ。両家が一緒の家になるといいなあ。衣装の白無垢はうちのものを使えるのでお金もかからんしなあ」と柏餅を挟んだトークが繰り広げられていた。
「陽太郎さん、海造さん。よかったねえ」と一色は窓の外で光る月を見上げた。遠くでは地下鉄線の走る音が響いている。夜になると離れていても電車の音は結構響く。
そして窓の外には大きなお月さまが今日の幸せを映すように美しい銀色の光を放っていた。
了




