5.揺籃に眠る者
――ゆっくりと、一歩一歩。
ピュティアは、見渡す限り一面の白い花に包まれた、揺籃の中央を貫く一対の古木へと近付いていく。
名も知らないはずの白い花に愛しさを覚え、一対の古木がまるで手を取り合うように絡み合った枝葉のベッド――球体の中心に位置するその真の揺籃に近付くたび、どうしようもないほどの懐かしさが彼女の心に湧き上がる。
そして、繋いだ手の先にいる……姉妹であり、他人でもある、もう一人の自分。お互いになにを聞いたわけでも、聞かれたわけでもないが、すぐにそうだと理解できた、自分の片割れ――その存在も、心を安らかにしてくれた。
しかし、それを嘲笑うかのように、恐怖心もまたふくれあがっていく。
地の底から手を伸ばす亡者のような、気をゆるめればたちまち心を食い尽くすだろう、果てない恐怖。
――いや、ピュティアにとっての真の恐怖は、自らが食われることではなかった。亡者のたずさえた、大きく無慈悲な死の鎌の先に、彼も――アルファートもいることが、何よりも恐ろしかった。
「そのまま進め。忘れるな、お前たちの役目を。――その存在意義を」
背後から投げかけられる声。
その声が、決して逆らうことを許されない王家の血筋によるものだと、二人揃った彼女はついに理解していた。自分たちはそのように『作られた』のだから、と。
しかし……そうして従ったその先に待ち構えているのが、確かな破滅であることもまた、彼女は知っている。
揺籃で眠る者のそばへ戻りたいという思慕の念と、そこへたどり着いてしまえば禁断の扉に手をかけてしまうという恐怖から来る拒絶――。
心の奥底で相反する二つの感情はしかし、逆らえない命令によって、結局一つに溶け合っていく。
募りゆく思慕がもたらす安らぎは、せめてもの慰めなのか……実際の出会いは当然ながら、これまで彼女は対等の存在に出会ったこともない。だがしかし、彼女はそこに眠る者の正体に気付いていた。
……いや、思い出した、という方が正しいだろうか。
「ただいま……」
ついに揺籃へとたどり着いたピュティアたちは、ともに膝を折る。
古木がその手で抱くかのような――そんな風に優しく編まれた枝葉のベッドに横たわるのは、純白のワンピースをまとった、美しい黒髪の少女。
――もう一人の、ピュティアだった。
「……お母さん」
万感の思いを込めて、そっと祈りを捧げるように両手を組み、彼女はその言葉を初めて口にした。きっと特別な意味があると信じていたその言葉を、自らの中から。
――願えば、何とかしてくれるだろうか。
願えば、何とかできるだろうか。
自分がどう変わろうと、彼だけでも救うことができるだろうか……。
「アル……」
母への思慕の祈り、『悪行』という名の厄災を解放する、巫女としての祈り……。
それらとは別の祈りを秘めて、彼女はその名を口にする。応える者はなくても、自らに呼びかけ、せめて、それだけでも失わないようにと。
「……え……」
だから――それに応える声が聞こえたとき、彼女は初め、幻かと耳を疑うことしかできなかった。しかしその疑念を吹き消す確かな力をもって、彼女が求めてやまなかった声がもう一度、上方から降ってきた。
「ピュティアーっ!」
――その瞬間だけは、命令も、役割も、母への思慕も、何もかもから彼女は解き放たれていた。祈りを止め、弾かれたように水の壁の一部分を見上げる。
その部分に、白い花を蹴散らし、下方へ向けて勢い良く水飛沫が上がった。
そしてその中から現れたのは――
「――アル――!」
どこまでも透き通る青い空を、そのまま身にまとったかのような騎士だった。
見覚えのある、しかしもう二度と見ることはないと思っていた、蒼穹の輝きを放つ騎士だった。
「……まさか、ここまで追って来るとはな……!」
眉間に皺を寄せながら、ユタンは忌々しげに吐き捨てる。
一方、荒々しい音を立てて透明な床に着地した断罪騎は、絡鎧を解いて霊子界に帰還し、本来の姿に戻ったアルファートがゆっくりと立ち上がった。
「アル……!」
「待っていてピュティア。必ず――必ず助けてみせるから……!」
ピュティアの目を見てうなずいたアルファートは、間に立ちはだかるユタンを、真っ直ぐに睨み付ける。
「そこをどけ――!」
「それはできない相談だな、少年。しかし……よくもここまでしつこくすがり付いてくるものだ」
呆れたとばかりに唇の端を歪めるユタン。
「あくまで『悪行』を解放するつもりか。それが多くの人を危険にさらすと知りながら!」
「……何? なぜお前が、その名を――」
「私が話した、ユタン。私たち二人が、協力して『悪行』と呼ばれる厄災を解放しようとしている、その事実だけは」
二人のちょうど中間にいたオルフェの答えに、ユタンはわずかながら困惑の色を見せた。
「……どういうことだオルフェ。まさか、お前が彼を手引きしたと言うのか?」
「半分はそう言えるかも知れないな」
「何を考えている……! 我らの使命を忘れたのか!」
「いいや。使命は私にとっても絶対だ、違える気はない。
ただ……それに疑問をもつ自分もいた。だから、その自分の可能性を、彼という存在に預けてみた。……それだけだ」
オルフェは目を伏せ、静かな声で答える。
「怖じ気づいたということか?――よもや、同胞のお前がそんな腰抜けだったとはな!」
「……腰抜け、か。そうだな……そうなのだろう、私は」
浴びせられた罵声に憤るでもなく、ただ受け流すオルフェの姿に、ユタンは腹立たしげに鼻を鳴らした。
「……フン。ならば、お前はそこでただ見ているがいい。
私は一人でも、母上たちの――テメニア王家の宿願を果たしてみせる……!」
一度オルフェをぎろりと睨み付けて、ユタンはあらためてアルファートに向き直った。
「少年……では、これも聞いたか? あの娘たちは人間ではない――人形だと」
「人形、だって……?」
「そうだ。遥かな過去、我々の祖先によって『悪行』を解放するためだけに作られた、魂を持たず、齢を重ねることもない、わずかばかり感情めいたものをもっているだけの人形にしか過ぎないのだ、あれは。
ああして二人に分けられているのも、いざというとき誰か一人の独断だけで事を成すことができないようにという、安全上の理由しかない。作られたそのとき、数百年もの昔から、あれはそういう存在でしかないのだ。それが存在意義なのだ。
……だのに、お前はなおも命を賭けてまで、あれを救うと言うのか?」
「――そうだ。
テメニア王家が、どれほどの無念を抱いて滅んだか……一個人に過ぎないぼくなんかには知る由もないよ。
けれど……復讐のためなんかに、あの子たちの命を利用させてたまるものか。
――どうやって作られたかも、どういった目的があったかも関係ない! その命をどう使うか……そこにわずかでも感情が、意志が――魂があるのなら! 決めるのは誰でもない、あの子たち自身だ!」
双剣を抜き放ち、切っ先を鋭くユタンに向けるアルファート。
その熱弁を、ユタンは憤りの込められた嘲笑で迎えた。
「そうだ、お前などには分かるまい……! 我らが母が、祖父が……そしてテメニア王家が、どれほどの屈辱と無念に沈んだかなど。
これは正当なる報復だ。そして、それを実行する私のために身を捧げることこそ、道具としての使命だ。そこに意志など必要ない……!」
「……道具? 道具だって? なら――!」
アルファートは顔をしかめる。
そこには怒りばかりでなく、哀れみにも似た悲痛なものが混じり合っていた。
「なら、あなたは何だ! ピュティアをそのためだけに作られた道具だと言うのなら――あなたもまた道具じゃないか!
王家の血筋と、母親によって作り出された……復讐のための道具に過ぎないじゃないか!」
アルファートの言葉は、今度こそユタンの逆鱗に触れたらしかった。
ユタンの表情が、ついにこれ以上ないほどの憤怒へと塗り替えられる。
「貴様……! 母上は私を信じ、愛するからこそ、この崇高な使命を託して下さった。そう、己の命を断ってまでだ! それを道具と……我らが血の絆を道具だと愚弄するか!」
「血は絆のすべてじゃない! ピュティアがそれをぼくに教えてくれた! あなたが道具だと蔑むあの子がだ! なのに、あなたはそれすら理解できないのか!」
「……黙れ! くだらん戯れ言を……! そもそも貴様のような凡俗に、我らの絆を理解してもらおうなどとは思っていない。できるはずもないのだからな!」
言い放ち、ユタンは顕現した自らの貌霊を絡鎧する。
その姿は、長剣と長槍を携えた、紅の甲殻を全身に纏う魔人『徹刃紅』と化した。
「母上を愚弄した罪の対価には軽いが――その命、手ずから引き裂いてくれる!」
「……その怒りこそが、あなたの真意だと言うのに――っ!」
徹刃紅に対抗して、アルファートもまた自らを断罪騎と化す。
そして睨み合うのもわずかのこと――。
紅と蒼の二つの貌霊は、互いに咆哮を轟かせて地を蹴った。
*
「さて……どうだ? まだシステムは生きていると思うが」
木立の中にひっそりと建つ、祠のような石窟――。
その中の階段を下りきった先、大きく広がる鍾乳洞を臨むテラスらしき迫り出した場所にたどり着いたワイズは、先に来ていたらしいケイナに話しかけながら、テラスの正面中央に立つ。
石を切り出して作ったらしい扇形のテラスには、鍾乳洞に向けて等間隔に、同じく石造りに見える椅子が三つ並んでいた。
「はい、大丈夫なようです」
どう見ても座り心地が良くは見えないその椅子、中央のものに座っていたケイナは、立ち上がってワイズに席を譲る。
その見た目に反して、椅子の材質は石ではないらしい。適度に弾力のある柔らかさで、腰を下ろすワイズを受け止めた。
ワイズはさて、とつぶやきながら、テラスの端、手すりのように外側へ反っている磨き抜かれた箇所に両手をかざす。
その途端、石材と掌の間の中空に、整然と区切られ、あるいは並んだ、大小さまざまな光の欠片が現れた。
「……ふむ、私の認証も問題ない。隔離領域内にも処理室を設けておいたのは正解だったな。――ケイナ、私の権限で使用許可を出す。お前はそちらでサポートを頼む」
「分かりました」
ワイズの指示するまま、ケイナは向かって右側の椅子に座り、同じように手をかざす。
仕掛けは自動的に身長差に対応するのだろう、彼女の手に最も適した場所に、やはり光の欠片が現れた。
「しかし幾千年もの時を経て、また電子網を利用することになるとはな」
「この方法で大丈夫なのですか?」
「直接霊子界に干渉するのは危険だからな。電子網を経由しての干渉なら、こちらに被害が出ることもない。反応速度は落ちるが、彼のサポートなら果たせるだろう。
……私が以前のように光鍵を淀みなく操作できれば、だが」
冗談めかしてそう言いながら、ワイズは目にも止まらぬ速さで次々に光鍵に触れる。すると、広がる鍾乳洞の闇に投影されるように、いくつもの映像が宙に浮かび上がった。
「ふむ、このままでは不鮮明すぎるか?
……しかし、かつての世界では文明の極致として、この上ない利便性を誇っていた電子処理というのも、霊子界への直接干渉に慣れるとどうにも不便極まりないな」
「ではマスター、まずは状況把握のために、各種監視機能の復旧と再設定を優先する方向でかまいませんか?」
「頼む。寝る子をあやすうち、子守りも釣られて眠ったのだろう。
しかもまだ寝ぼけていると見える、完全に起きるまでは少し手間だな」
ワイズに従って、ケイナも光鍵の上で、小さな手を縦横に踊らせる。
「……マスター、うかがってもよろしいですか?」
「無論、かまわん。――答えるかどうかは私次第だが」
操作の手を休めることなく、二人は言葉を交わす。
「わたしにはまだXナンバーを解放する手段が分かりません。同素体の二人を、一体どう使うのですか?」
しばしの間を置いて、ワイズはその問いに答えを返した。
「……いいか。マクロファージXナンバー……後の世に『悪行』と称されたそれは本来、霊子界上に人々に害悪をもたらす危険な真言が刻まれた場合、速やかにその真言と影響を受けた構成真理を自ら吸収、消化して、無力化することを目的に生み出された、一種の抗体プログラムだ。
しかし同時に、実験的な試作型ゆえ、わずかながら持たされた自立性により、貌霊に近い性質も備えていた。
その後、Xナンバーの暴走事故が起きた際、設計者のミカは、本質が貌霊に近いというその性質を利用して、貌霊として魂に刻みつけた上で、自らの死をもって暴走を休止させた。
それは逆に言えば……だ。ミカ本人の構成真理に限りなく近く、そして彼女と同じように貌霊を持たない者ならば、言うなればミカを偽ってXナンバーと接触し、休止命令を取り消し――解放することができる、ということになる」
ワイズの言葉に、ケイナは一瞬手を止めて彼の方を振り返った。
「ま、待って下さい、マスター。人として魂を持って生まれた者は、その認識の可、不可にかかわらず、何らかの貌霊を刻んでいるはず。なのに、同じように貌霊を持たない者、と言うことは、まさか……!」
「映像が復旧した。――見ろ、ケイナ」
答える代わりに、ワイズは宙に映し出された映像の一つを指差す。
それは、枝葉のベッドに横たわる、ピュティアと同じ容姿をした少女の姿だった。
「彼女がミカ・クラリック。マクロファージという抗体プログラムの基礎設計者。
そして――機械よりも近い位置から人間をサポートするため、姿形、そして構成真理ともに人を模して生み出された、人に限りなく近い人ならざるもの『擬人形』――その試験的に作られた数体の初期個体のうちの一つにして、初めて、人造物でありながら感情のみならず魂の芽生えにまで到達した最高の完成体。
……そう。いわば、お前の姉だ」
「ミカ博士も擬人形……。わたしの、姉……」
「古代テメニアの研究者は、Xナンバーの守護者という役割を果たす中で、封印の仕掛けに気付いたのだろう。そして、当時まだわずかながら廃れずに残っていたかつての――我々の世界の技術を応用し、恐らくはミカそのものを参考に、彼女のほぼ完全なコピーとなる擬人形を、二つに分けて生み出したというわけだ」
「……そういうことだったんですね。すぐに説明して下さらなかったのも……」
「お前のことだ、予測するかも知れないとも踏んだが……どちらにせよ、実際にミカを見せてからの方が理解しやすいと思ってな。……もとより、ここへ来た当初の理由はXナンバーの様子見と同時に、お前をミカに引き合わせることでもあったのだから。
しかし――」
「どうしました?」
ふと手を止めたワイズに、ケイナは小首をかしげる。
「あらためてミカを見て思った。彼女が基礎設計者としての責任を取った――と言えばそれまでだが、いかに我らでも危険とは言え、もう少し早く――せめてアイオンの世界改変によってこんな地の底に取り残されることになる前に、揺籃に揺られての泡沫の眠りなどではなく……もっと確かで、静かな安息を与えてやるべきだったのかも知れん」
「……マスター」
「――さて、時間はあまりない。作業を再開しろ、ケイナ」
わずかな感傷を振り払うように強い調子で言って、ワイズはまた光鍵の操作に没頭する。
ケイナもそれにならって光鍵に向き合うが、後ろ髪を引かれるようにもう一度だけ――自らの姉だという、静かに眠る黒髪の少女を見やった。




