1.亡国の幻影
「おのれ、おのれっ……!」
テメニア王は怨嗟の声を絞り出しながら、何度も何度も、玉座の肘掛けを固く握った拳で打ち付ける。
彼の震える拳からは、真新しい羊皮紙が顔を覗かせていた。
もはや領土らしい領土はここ、首都サイメルを残すのみとなり、弱体化著しいテメニア王家――。
今となってはその王家を凌ぐ力を持つ、城下の豪商たちからの書簡だ。
その書簡は、一応は嘆願書という体裁を取ってはいたものの、実質は命令書と何ら違いはない。今のテメニア王に、兵站どころか兵そのものを握っていると言っても過言ではない、彼ら豪商の要求をはね除ける力など、あるわけがないのだ。
テメニア王家と国家を解体すること――それが豪商たちの要求だった。
貴族ですらない一市民が、文面はどうあれ、傲然と、王に向かってその座を放棄するよう言い渡しているのだ。テメニア王は、文字通り怒りのあまり腸が煮えくり返る思いだった。
いや、彼の怒りの矛先は書簡の送り主だけではない。それは国をここまで追い詰めた、東西の隣国に対しても向けられていた。
――ミルドアークとアザンティは、彼らがすでに忘れ去っていようとも、テメニアとその源流を同じくする民だった。ともに『守護者』としての使命を帯びた民であるはずなのだ。
それが今や、同族を裏切り、食い物にし、挙げ句は崇高な使命さえも忘れ果てて、守り抜くべき聖地であるサイメルを蹂躙しようとしている。到底、許せるものではなかった。
「父祖らが永きに渡って守り抜いてきた使命を忘れ、私利私欲に走る、獣にも劣る愚者どもめが……! おのれ、おのれぇ……ッ!」
「お父様……」
投げかけられた声に、王は毒気を抜かれたようになって顔を上げる。
そこには、二人の年若い王女が、父の苦悩そのままの悲痛な表情で立ち尽くしていた。
「お前たち……」
「お父様。彼の者どもがそれを望むというのなら……くれてやりましょう。破滅と、絶望を。私たちは……そのためとあれば、いかなる苦難にも耐える覚悟はできております」
王女はそれぞれが、王の両の手にすがるようにしてひざまずくと、その美しい瞳で――決意の宿った瞳で、真っ直ぐに父の顔を見上げた。
「お前たち、それは……!」
「お父様。テメニア王家が滅びれば、誰が厄災を見守る役を担うと言うのでしょう? 役目を忘れ果てた二つの国も、裏切り者の商人どもも、その存在を知ったところで、決して我らのように父祖の意を受け継ごうなどとは思わないでしょう。
いえ、それどころか……己の野望に何とか利用できはしないかと、禁をも恐れず近づこうとするに決まっております。
それならばいっそのこと……教えてやればよいではありませんか。彼らに、自分たちがいかに愚かであったかを。我らの役目がいかに崇高であったかを。そして、この怒りがどれほどのものかということを――!」
「お姉様のおっしゃる通りです、お父様。何をためらうことがありましょう? 彼らが望んだことではありませんか。
それに、我が国の民は、我ら王家に殉ずるのが古来より定められた役割。何者に遠慮することもありません。我らが使命の上に成り立つ恩恵を忘れた愚か者たちには……報いが与えられて然るべきです。
きっと――我らが祖も、こうしたときのためにと、『鍵』を残しておられたに違いありません。愚か者たちに裁きを下すは、我ら守護者であるべきだと――!」
「……お前たちの言う通りだ。我らが厄災を見守り続けてきたのは、彼ら、祖を同じくする兄弟たちの安寧のためのはず。それが、その者たち自身の手で砕かれると言うのなら、彼らが望むまま、報いを与えてやらねばなるまい。
だが――『鍵』は二つ揃わねば役目を果たせぬ。城の一体だけでは不充分だ、遠方の祠に封じられたもう一体が必要だが、もはや時間が……」
王は歯噛みする。
厄災の二つの『鍵』は、安全のため、うち一つが王族のみが知る別の場所に保管されていたが、それが今はかえって裏目に出ていた。
そんな父に、王女たちは揃ってゆったりと首を横に振ってみせる。
「申し上げたはずです、お父様。私たちは、いかなる苦難にも耐える覚悟と。
そう――我らがテメニアの無念を知らしめ、愚か者たちに、その行いがいかに愚かであったかを思い知らせるためならば……たとえ、何年かかろうとも……!」
「お前たち……」
王はそこで気が付く。
娘たちの瞳に宿るものが、決意という言葉だけで語るにはあまりにも強く色濃い、狂気にも似たほの暗い炎であることを。
だがそれは同時に、彼の心底を映し出した鏡でもあった。――誰でもない、王本人もまた、同じものを宿していたのだ。
王はそっと娘たちの頭に手をやって抱き寄せ、血を吐くようにして声を絞り出す。
「――分かった。我が眼が、そのときを見ること叶わずとも……!
使命を忘れた愚者どもに、裏切り者どもに――破滅と、絶望を!……『悪行』を!」
――地下都市の果て。
彼方にうっすらと浮かぶ、王城らしき威容を見上げながら、アザンティ王国子爵、オルフェは小さく首を振る。
それが、かつてサイメル一帯を治めていた亡国、テメニアのものでないことは明らかながら、滅びた都市の城というイメージが、連想を呼び起こすのか――。
寝物語に何度も聞かされた光景が、まるで見てきたかのように脳裏を過ぎっていた。
(その果てに、あなたがたは何を見出す気でいたのか――)
「……若様!」
先を調査しに行っていた兵士に呼ばれ、オルフェは何事もなかったように顔を上げた。
「どうした?」
「あちらに見える、王城らしき場所に続く橋は、完全に崩落していましたが……その手前、もとは中庭だったと思われる場所の先に、礼拝堂跡らしきものを発見しました」
「……ふむ。中はどうだった?」
「奥に、それらしい部屋が。恐らくは、『鍵』が必要かと――」
「分かった。――では、向かうとしよう。皆を集めよ」
「はっ!」
兵士は一礼すると、オルフェの前を離れる。
続いてオルフェは、背後にたたずむ、フードを深く被った少女を振り返った。
「……聞いたな? 行くぞ」
はい、と抑揚のない声で応える少女。
その様子にオルフェは、彼女と会ってから何度目になるか分からないため息をつく。
「お前に心があったなら……どんな恨み言を言ってくれるのだろうな。
あるいは、そうしてくれたならば、私は……」
そう口に出してから、バカバカしいと、続く言葉を呑み込み、オルフェは歩き出す。
親鳥に続くヒナのように、少女もまたその後に付き従った。




