第十話 共鳴前夜
文化祭前日。
朝から校内は騒がしかった。
廊下を歩けば、どこかのクラスが段ボールを運んでいる。
ペンキの匂い。
笑い声。
テープを剥がす音。
どこを見ても、“文化祭前日”だった。
なのに。
その全部が、少しだけ遠かった。
◇
「そこ曲がってる!」
「いや真っ直ぐだろこれ!」
「曲がってるって!」
陽花と陽太の声が教室へ響く。
蓮は脚立の上で苦笑していた。
「どっちでもいいから早く貼って〜」
「雑」
「今さら?」
小さい笑い声。
教室の空気は、久しぶりに少しだけ明るかった。
朝倉が戻ってきた。
それだけで違う。
空いていた席に鞄があるだけで、教室がちゃんと教室に見えた。
白峰は窓際で黒布を切っている。
顔色はまだ悪い。
でも昨日よりはマシだった。
「白峰さん」
陽花が隣へ寄る。
「文化祭終わったらさ」
「なに」
「みんなで打ち上げしよ」
「急」
「だってせっかく仲良くなったし」
「私は行かない、人多い」
「え〜......じゃあ、少人数!」
「変わってない」
陽花が笑う。
その笑い方が、少しだけ頑張ってる感じだった。
「朝倉くんも来るよね?」
「え、俺?」
「来ないの?」
「いや、行くけど」
蓮は少し笑った。
「……普通に楽しそうだし」
その瞬間。
ジジ、と照明が鳴る。
一瞬だけ教室が暗くなった。
すぐ戻る。
誰も何も言わない。
でも。
蓮だけが少し固まっていた。
◇
昼休み。
購買前は人で溢れていた。
「焼きそばパン二個確保!」
「なんで二個」
「食わにゃあやってられんのですよ、ぐへへへ」
「言い方」
陽花は笑いながら歩く。
その横を、急に一人の男子生徒が通り過ぎた。
ふらついている。
目の焦点が合ってない。
そのまま壁へぶつかった。
「……っ」
周囲の空気が止まる。
男子生徒は数秒固まって、
「……あれ?」
とだけ言った。
そのまま去っていく。
「最近ああいう人増えてない?」
陽花が小さく言う。
「寝不足じゃない?」
蓮が返す。
でも笑ってなかった。
白峰は黙ったまま立っていた。
『痛い』
『やめて』
『怖い』
声。
最近ずっと増えてる。
しかも。
今は校内全体から聞こえる。
頭の奥が重い。
「白峰?」
陽太が顔を覗き込む。
「……平気」
「平気な顔じゃない」
「御影くん最近そればっか」
「だってわかるし」
白峰は少し黙る。
そのあと、小さく視線を逸らした。
たぶん、今も聞こえてるのだろう。
◇
放課後。
《沈黙病棟》は、ほとんど完成していた。
黒布で覆われた入口。
薄暗い通路。
赤い文字。
化け屋敷っぽい。
「完成じゃない?」
陽花が満足げに言う。
「まあ、私やればできる子なんで」
「自分で言うな」
蓮が笑う。
その時。
ガン、と壁が鳴った。
全員が振り返る。
何もない。
でも。
窓ガラスが小さく震えていた。
ビリ、と空気が軋む。
蓮の笑顔が止まる。
「……朝倉?」
陽花が小さく呼ぶ。
蓮は俯いたままだった。
「ごめん」
掠れた声。
「最近ちょっと……抑えきれなくて」
また窓が震える。
今度は教室後ろのポスターが揺れた。
『嫌だ』
『怖い』
『逃げたい』
白峰が耳を押さえる。
ノイズが増えてる。
教室全体へ広がっていく。
「朝倉くん、大丈夫?」
陽花が近づく。
「来んな」
反射みたいな声だった。
空気が震える。
床が軋む。
蓮自身が、一番怯えた顔をしていた。
「……っ」
頭を押さえる。
「やばい」
その瞬間。
陽太は反射的に前へ出ていた。
「御影!」
陽花が叫ぶ。
その声も無視して、陽太は蓮へ近づく。
その瞬間。
ピタ、と空気が止まった。
震えも、ノイズも。
全部、静かになる。
蓮が顔を上げた。
目が揺れていた。
「……なんだよ、それ」
掠れた声。
「ほんと意味わかんねぇ」
陽太自身にもわからない。
でも、昔からだった。
近くにいると落ち着くって言われる。
暴走が止まるって言われる。
理由は知らない。
その時だった。
「……まずいですね」
教室入口。
桐生詩乃が立っていた。
生徒会副会長。
いつもの気だるそうな顔。
でも。
少し青ざめている。
「桐生先輩?」
陽花が振り返る。
桐生は笑わなかった。
教室の空気が軋んでいる。
見えない何かが、ずっと揺れている。
吐き気みたいな感覚が胸の奥に広がっていた。
「……会長呼びます」
珍しく短い声。
そのまま廊下へ出ていく。
蓮が小さく息を吐いた。
「……俺、帰るわ」
「え?」
「今日はもう無理」
陽花が何か言おうとする。
でも蓮は笑った。
「大丈夫」
その笑顔が、一番危なかった。
◇
生徒会室。
外は雨だった。
窓ガラスへ雨粒が流れている。
九条透は机へ向かったまま資料を見ていた。
その時。
コンコン、と軽いノック。
「会長、生きてます?」
桐生だった。
片手にコンビニ袋を持っている。
「……入れ」
「失礼しまーす」
気の抜けた声。
桐生は机へカフェオレとサンドイッチを置いた。
「またコーヒーだけだったでしょ」
「問題ない」
「問題ある人の顔なんですよねぇ」
九条は返さない。
桐生はそのまま向かい席へ座る。
「……朝倉くん、かなり危ないです」
「わかっている」
「白峰さんも」
九条の指が止まる。
沈黙が続く生徒会室には、雨音だけが響いていた。
「会長」
少しして、雨音を遮ったのは桐生の声だった。
「無理しすぎです」
「していない」
「してます」
即答だった。
九条は小さく息を吐く。
「……桐生」
「はい」
「お前も無理をするな」
静かな声。
桐生は少しだけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
「それ、そのまま返します」
一瞬だけ。
九条の表情が少し柔らかくなる。
その時だった。
ガッ、と突然窓が鳴った。
雨じゃない。
外側から叩かれたみたいな音。
桐生の顔色が変わる。
「……来てる」
小さい声。
空気が歪んでいる。
校舎全体が軋み始めている。
その瞬間、ドアが開いた。
重い音と共に現れたそれは、濡れた黒コートを纏い、雨よりも冷たい目でこちらを睨んでいた。
異能対策課特別制圧班班長《いのうたいさくかとくべつせいあつはんはんちょう》、神代黎司、その人だ。
「九条の息子」
低い声。
「準備はしておけ」
桐生の肩がわずかに強張る。
神代の近くは、空気が死んでいる。
本能的にわかる。
「……まだです」
九条が返す。
「もう始まっている」
神代は即答した。
「共鳴は臨界目前だ」
部屋の空気が冷える。
「暴走が始まれば即座に処理する」
桐生が僅かに俯く。
九条は静かに言う。
「まだ、生徒です」
神代は無表情のまま返した。
「だからどうした」
「っ......」
「《世界歪曲災害》を繰り返す気か?」
窓の外で雷が光る。
一瞬だけ部屋が白く染まった。
「甘さは必ず壊れる」
神代はそれだけ言い残し、生徒会室を出ていった。
ドアが閉まる。
静寂の中で、桐生が小さく息を吐く。
「……ほんと苦手です、あの人」
九条は窓の外を見たまま、
「俺もだ」
と、小さく言った。




