With this Kiss
埃まみれの乾いた風。飛び交う機体のエンジン音を掻き消すように、断続的に響く爆音。
目まぐるしい速度で薄型の端末を操作しながら、軍服姿の少女が通信先に言い放つ。
「戦争中に連絡よこすとか、非常識にもほどがあ」
『ねーさんが! ネットのどこにもいませんっ』『まさか部屋で倒れてんじゃ』
秘匿回線と軍事衛星をハックして、少女の現在地も戦況もリアルタイムで把握しているであろう『親友のイタズラ仲間』たちが、それでもわあわあ騒いでいるその言葉の意味を理解するなり、少女は少し離れた位置に放置してあった鞄を引き寄せ、私用端末を取り出す。
目の前の戦況を監視・計測していた全ての処理を、一斉に切り替える。
「……確認した。大丈夫、そういうんじゃない。情報ありがとう。あ、騒ぎにしないように!」
『はいっ』『わかってますっ』
最低限のやりとりで通話を終わらせると、少女は特殊繊維のグローブで口元を押さえて呟く。眉間には深い皺。
「だから携帯端末のひとつも持てって言ったのに……ていうか、一緒に行こうねって言ったのに」
インカムを乱暴に掴んで、相手の応答を待たずに叫ぶ。
「隊長っ、私、抜けますっ」
『ふざけてる状況か、重要戦力が世界情勢より優先することなど』
「『食鉄獣』の生死がかかってます」
通信の向こうで、数人が息を呑む音。
『……ほ、本当か?』
「この情報も必ず内密に。安全確保次第、戻ります。ではっ」
それだけ言うと通信を切り、軍服姿の若い少女は窮屈そうに襟元を緩めると、手元の端末をいつにないスピードで叩き始める。
*
一方。
音速で市街地の上を滑空する小型機の機内。
正六角形の内壁材が敷き詰められた静謐な空間。
流れる景色には目もくれず、機内中央に突っ立ったままのパンダスリッパの少女は、ただじっと一枚のパネルを見つめている。数秒のバッファも含めてきっちりと自動調整された某大学病院の重傷者航空搬送システムが、次々入ってくる入電によって目まぐるしく組み変わっていく。
そこに触れる直前、細い指先が、ぴたりと止まる。
かたわらに浮かぶ別のパネルーー青年のカルテにリアルタイムで追記されていく手術経過。
蒼白な顔をした少女が、何事かぶつぶつとつぶやく。
このシステムに割り込めば、他の患者の搬送を少しずらしてこの機体を病院屋上に着陸させれば、ドアを開けて階段を降りるだけで、すぐに会える。
そして、この少女には、それが容易にできるのだ。
なんの痕跡も一切残さず、誰に咎められることもなく、罪になることもなく。
だけど。
少女は小さく下唇を噛んでーー震えるその手を、下ろした。
自動運転システムが、目標地への到着予定時刻を告げた。
*
とある消防署。
屋上から降りてきた一機の非接触エレベーターに、待機室で筋トレに励んでいた消防士たちが、興味を隠してさりげない視線を向ける。
黒のモッズコートを羽織った寝巻き姿の少女が、真っ赤な顔で、鼻水を啜りながら地上階に降りていくのが見えた。足元はモコモコのパンダスリッパ。
「政府関係者に見えたか?」水分補給をしながら、一人が問う。
同僚数名が小さく首を振る。一人が「迷子かな」と呟いて追おうとしたところでーー彼らのイヤホンから呼び出し音が鳴る。強化装備の電源を入れた消防士たちは表情を引き締めて一斉に部屋を飛び出し、慌ただしく階段を駆け降りていく。
*
吹き込む風に黒のモッズコートのすそがひるがえった。気温に合わせて調整袖が伸びる。
消防署を出た少女の前に広がるのは、なんの変哲もない市街地の風景。
無秩序に行き交う人々。調整されていない剥き出しの日差し。肉声と人口音声と機械音が織りなす喧騒。
新旧入り混じってそびえ立つ高層ビルの隙間を縫うように、優美な曲線を張り巡らせる透明な樹脂トンネルーー低空域レーンを走り抜ける、色とりどりの空走車。
「うう……」
数歩進むなり、道端にあった消火栓にへばりついて、少女がうめく。足元に落ちる小さな影。
「これはVR、これはVR……」
言い聞かせるようにぶつぶつ呟きながら、ポケットから取り出した小さな錠剤をいくつか口に含む。
埃っぽい空気に小さく咳き込んで。
緊張とパニックでほとんど機能していない脳裏の、そのかすかな隙間にふと再生される、いつかの彼女自身の言葉。
『遠隔やバーチャルでできることに対して、無駄にエネルギー使って生身でアクセスすることにこだわる理由がわからん、五感全部完全に再現できてるのに』
飽きるほど繰り返した、しょうもない、たわいのない雑談。
少女のこわばっていた表情の中、口角だけがわずかに上がる。皮肉げに。
とーー
『お困りですか?』
立ち止まったままの少女のすぐ目前、綺麗な電子音声が告げた。
パステルイエローの半球型のロボットが一台、いつの間にか少女の前に佇んでいた。『市街地案内用ロボ』と書かれた看板が胸元に貼り付けられている。ぴこぴこと楽しげに上下する猫耳のすぐ下、よく見覚えのあるつぶらな瞳が、じいと少女を見つめる。
いつぞや、これとほぼ同型の試作機が、少女の部屋を走り回っていたころ。
『人間工学に反する』と麻生がぶつくさ言うのを『いーから』と笑って押しのけたミスズが、そこらに転がっていたマジックで勝手に描いた、ラクガキの顔だ。
少女の手が、ロボに伸びる。
中指と薬指の先を親指と合わせて、指遊びのキツネを形作る。その隠しコマンドーーこれまたミスズがふざけて仕込んだものだーーに反応して、ロボの頭上にポンと花が咲く。風車になっているその花が、ビル風でくるくると回る。
少女は、鼻水をすすって。
「……えへ」
その口元が小さく笑んだ。
*
……まぶたの裏に感じる、白い大きな光。
ゆっくりと浮上する意識に従順に従って、トモリは目を開けた。
ちょうど往診にきていた巡回医療ロボが、すぐ目の前の中空に浮いている。浮遊する黒い半球型カメラと目が合う。青年の脈と脳波と呼吸と顔色に問題がないこと確認すると、さっと飛び去っていく。
青年は見覚えのない白い天井をぼうと見つめた。壁を隔てた先から聞こえてくる、かすかな足音やざわめき。枕元にあるらしい医療機器の動作音と空調音。
鉛のように重い上体を少しだけ起こして、青年は自分の身体を見下ろす。白いシーツの端から覗く、感覚のない左腕と右脚が正しい形状を保ったまま、ガッチリとギプスで固定されているのを見、鼻からゆっくりと息を逃し、大人しく病床に身を横たえた。
点滴のパックが固定された右腕で、両目を覆って目を閉じる。
「……また、か」
火傷を負ったらしい肘付近の皮膚と喉の奥が、ひきつれるような痛みを訴える。
ポーン、と廊下の先からナースコールの音。
菓子折り何買おう、と考えを巡らせる。
ここを退院したらすぐ、有無を言わせずあの部屋に拉致られるんだろう、そんでなんだかんだ言われながら恒例のおやつパーティーが始まるんだろうな、医療機関への搬送は初めてだからいつもよりお小言が多いかもしれないなぁ、などと、動かない身体でぼんやり考えたところで、
スライド式のドアが、かすかに動いた。
ぶるぶる震える細い身体が、小さくうめきながら顔を出す。
青年は思わず部屋中を見回してーー現在地が、少女の自宅のどの部屋でもないことを改めて確認してーー
「網膜投影、じゃないよな?」
ふらふらと歩み寄ってきた少女が、青年の差し出した右手にしがみついて、そのままシーツに倒れ込む。
彼女の後方、ダンパーでゆっくりと閉まっていく扉。
「え、まさか一人で来たのか?」
青年の問いに、返事はない。
うつ伏せのまま、少女の震える手がベッドサイドの端末に伸びる。またたく間に管理者権限を取得して青年のカルテを表示。のそりと身を起こした少女の、いつも通りの冷静な目が術後経過をたどる。
身を起こそうとした青年の左胸の上に、諌めるように、少女の細い手が置かれる。
少女の、ひどく不満そうな声。
「『リアルで顔を見るまで安心できない』なんつう非科学的で非論理的な感情が自分にもあったなんて、ドン引きだわ」
「……はは」
青年が、少女の頭部に手を伸ばしーー
と。
突如ーー窓ガラスが一斉に砕け散る。
けたたましく鳴る警報音。
咄嗟に少女の手を跳ね除け身を起こした青年が、少女の上に覆い被さる。二人がベッド脇の床に落ちる鈍い音。青年の全身に装着されていたチューブやケーブルが次々に切れる。
直後、青年のすぐ背後、ベッドのマットレスに何かが次々と刺さるような音。焦げたような匂い。
廊下の向こうから、悲鳴まじりの喧騒。
闇雲に伸ばした青年の手が空を切る。武器はーーない。
焼けるような痛みに意識を飛ばしかけながら、青年が腕の中に叫ぶ。
「麻生、走れるか、警備室までーー」
青年の患者着を、少女の震える手が掴む。
直後ーー鋭い爆音。
大気が大きく震える。院内から悲鳴と混乱の声。
青年が背中を向けている窓の外でーー黒煙をあげた小型機が斜めに落下していく。
「ーー無事か?!」
防弾ベストを着た無精髭の男が廊下から転がり込んでくる。倒れた棚の影にしゃがみ込むなり、折り畳み式のライオットシールドを片手で展開させ、青年と窓の間に放った。
トモリは僅かに頭部を動かして、数メートル先の距離にいる見知らぬ男をそっと伺う。
肩から下げた多機能遠隔放射兵器にも、ベストにもヘルメットにも、軍属を示す紋章の類はなく、あるのは揃って同じ某大手メーカーのロゴのみ。
トモリの身体の隙間から顔を覗かせた少女がーー男と目が合うなり、さっと引っ込む。その様子に、秒で警戒した顔つきに戻ったトモリが、少女を抱く腕に力を込める。
男が慌てて麻生の名を親しげに呼ぶ。「コラ、紛らわしいリアクションをすな」
患者着の下から、少女のくぐもった声。「うるさいっ、あたしの本能が拒否反応を示す造形で生まれてきたお前が悪いっ」
「……麻生、知り合いなんだな?」
「こんなとこで初めまして。俺ぁ、しがない子会社の運送屋、兼、嬢ちゃんの専属メカニックだよ」男の親指が、自身のベストの胸元に光る某大手メーカーのロゴを示す。「ミスズの嬢ちゃんに感謝しろよ。保護してくれって頼まれたんだ」
と。
「クリア!」「麻生様!」
窓の外と廊下側から同時にいくつもの鋭い声がして、黒い服の武装した男女が部屋に飛び込んでくる。トモリにも見覚えのある顔。幾度か少女の部屋ですれ違ったことのある彼らからの報告を聞くなり、男は棚の裏から立ち上がり、窓の方角を警戒しながら二人に歩み寄る。
「うん、このナリでよく持ちこたえた」
筋肉質の太い腕がひょいと青年を持ち上げる。部屋に入ってきた看護師にひらりと手を振り、その後ろから走ってきた一台の自走式ストレッチャーに青年の身体を乗せる。
それから、白い床の上でゆっくりと身を起こした少女も、片腕で引っ張り上げて、弾痕の残るベッドに座らせる。
「お前、よくここまで歩いてきたなぁ」合成繊維の硬いグローブがわしわしと少女の頭を乱暴に撫でる。「一人で丸腰で出るんじゃねーよ要人サマ。俺に連絡しろよな、普通に運んでやったのに」
男の言葉に、少女は呆気にとられたように口を開いて。
「思いつかなかった」
「ふざけて連絡先消すからだバカ」
「……てゆうか、だって、お前ただのメカニック、」
「メカ屋舐めんな。俺はお前みたいな頭おかしい偏屈野郎の担当なんだよ、僻地やら戦地やらにクソ重い精密機器お届けしてんだよ、そこらの兵隊よかよっぽど慣れとるわ」
診察室への搬送順を調整しているらしい看護師の横、自動応急処置を受けているベッドの上のトモリが、なんとも言えない顔をして、男の、筋肉で大きく盛り上がった両肩を見る。
遠くから、サイレンの音。
***
飛行機雲が一本の線を引く、綺麗な青空の下。
ばたばたとはためく白いシーツ。
「まだ暴れてるんだろ、反政府軍」患者着の青年がぽつりと言う。
「あれくらいは自国で解決しなくちゃ、いつまでも国際兵力をアテにしてちゃダメだよ」
高校の制服を着た中肉中背の少女が、鮮やかな色のアイスキャンディーを美味しそうに食べながら、こともなげに答える。
ゆっくりと歩み寄った青年が少女の横に立つ。病院屋上の錆びたフェンスに両腕を乗せて、眼下に広がる街並みとその向こうの山並みを見つめる。
「お疲れ」
「そっちもね」
互いの袖口から覗く包帯を見合って、二人はそっと苦笑する。
「そろそろ女子高生と恋バナでもしたいころかと思って」
茶化して笑う少女の促すような目線に、青年は表情を緩めて長く息を吐く。
「……なんとも思ってないわけじゃない」
はぐらかすような言葉を、青年が切り出した。
「大人だねぇ」ミスズがからかうように笑う。
「そりゃ、俺だって」言いかけて、口を閉じる青年。
「友織さんのコンプレックスためらいも理解はできるけど。案外ヘタレだよね。あさおの価値観、知ってるくせに」
青年は黙る。少女はふふと笑う。
「あっちが気にしてるのはそんなことじゃないって、もうとっくに知ってるくせに」
ミスズはゆっくりと息を吸って、空を見上げた。
「あさおにとっての生きやすい環境は、他の人とは違うものだからーーそのせいで、他の人と違って、自分には手に入らないものがあることも、あの人は、理性的に考えて、諦めてる」
「……」
「それは例えば、家族からの愛情だったり、多くの人との気安い交流だったり、俗に言う学校生活や会社勤めだったり、それから――生涯寄り添ってほしい人を見つけて、こんな自分に一生付き合ってくれって、その一言を、その人に伝えることだったり、ね」
青年よりも長い付き合いの、無二の親友は、そう言って肩をすくめた。
もし仮に、想った相手がいたとしたって。
一度だって。
伝えたことなんて、ないのだと。
「だからね、たぶん、あさおは、」ミスズは悲しそうに笑って言った。「友織さんのこと、ほんのちょっとでいいと、思ってるんだ」
「なんで――」青年の喉がひきつった。
あれほどまでに、世界にあるほとんど全ての情報を、システムを、膨大なデータを、自由に、ほしいままにできる存在が。
青年は、何度も見てきた。何度も助けられた。
傍若無人で生意気で世間知らずな天才だと、自分とは住む世界の違う存在なのだと。ずっと思っていた。
そういうレッテルを貼らないと、やっていられなかった。
でも、だからこそ、そういう存在には、誰よりも幸せであって欲しかった。
自分には、凡人には、決して手の届かないところで。
フェンスに両腕をあずけ、青空を見上げながら、青年がぼやく。
「分かってるよ、これを逃したら、次はないんだって」包帯だらけの腕をさすりながら、青年は続ける。「もしまた誰かの身に何かが起きたって、今回以上のことが起きたって、今回ほど、あいつが取り乱すことはーーもうないんだろうって、それは分かるよ」
経験が上乗せされれば、あの理性的な天才が感情に踊らされるなんてことは、もう二度とないのだと。
そうだね、と少女もうなずいた。
***
白い建物の正面エントランスの自動ドアが開く。紙袋を両手に持った少年が出てきて、ゆっくりと階段を降りる。脇の花壇に座り飲料缶を飲みながら待ち構えていた友人らしき男女数名がわっと駆け寄って、一人が小さな花束を渡した。
その衛星映像を、イスを左右に揺らしながら、少女は頬杖を付いたままぼーっと眺めている。周囲に散らばる無数のパネルが映す、数多の数値や会議映像や異国語の羅列には目もくれないまま。
真っ白な送迎バスが2台、彼らの前の道路を通り過ぎて、少し先のバス停に停まる。少年と同じように建物から出てきた数人の老人が、慌てたようにバス停に向かう。
建物正面の自動ドアが、また開く。
シッター用アンドロイドに手を引かれた子どもが出てきて、階段をぴょんぴょんと両足跳びで降り、目の前に停まった黒塗りのタクシーに乗り込む。
その後ろーー
イスの背もたれから、少女の背が離れる。
ーー老人に道を譲ってからドアを出てきた青シャツの青年が、階段を降りたところで立ち止まり、眩しそうに空を見上げた。
口元がかすかに動く。顔認識が作動。事前に設定してあるとおり、自動で映像が拡大し、スピーカーがオンになる。
『麻生』
まっすぐに空をーー少女が所有する静止衛星のほうを見上げて、青年の声が、よどみなくそう言った。
青年を拉致るべく無人音速機を操縦していた少女の手元が、ちょっとだけ止まる。
いつだって一方的に巻き込まれる側だった青年が、自らの意思で告げた。
『迎え、よこしてくれ』
*
ドアを開けたトモリが室内に入る。まず見つけたのはーー台所の中央にでんと鎮座している、巨大な自走式クーラーボックス。蓋の開いたそれの中にある、立派なツノを生やした鹿の生首と目が合う。
「ダメですぜんぶ聞いてください、それからですね、そのときにミスズさんがですねっ」
ヤニさがった笑みを浮かべながら早口にまくし立てる上機嫌の大学生。その腕に捕まえられている家主の少女が、
「うっざぁあーい」
大学生の頬を鬱陶しそうに押しのけている。なんとかそこから這い出た少女は、人工大理石の天板にしがみついて半目でぼやく。「ノロケだけ言えなくする外科手術とか開発してやろーか……」
くりっと振り返った黒シャツの大学生が、笑顔で青年を手招き。「トモリさん、退院おめでとうございます。ちょうどいいところに。それ、火、熾してもらえませんか」
「ありがと。いいけど」放られたメタルマッチを受け取った青年は、火鉢の前にあるソファに腰かける。運搬モジュールがせっせと運んでいくキャンプ用品と食材の数々を見送って。「なにこれ、BBQ?」
「そうです、ジビエBBQ。さっき一狩り行ってきました」
「オマエは引き金引いただけ」ぴしゃりと言った少女が青年の元に寄ってきて隣に座る。彼女が示した先に浮遊するパネルには、動体検知結果が重ね合わされた、広大な森林の上空映像。
派手な音を立てて鹿の骨を切りながら、はぁ、と大学生が息を吐く。
「俺はだいたいの範囲を教えてほしいって言っただけなのに、麻生さんが勝手に俺の銃操作して照準まで合わせるから」
「ふっふん」
切り分けられたばかりの山盛りの鹿肉が運ばれていくのを目で追うトモリ。
「退院祝いですよ。好物なんでしょ?」と大学生。
微妙な表情をするトモリ。喜ぶと思っていた大学生がまな板を洗いながら不思議そうに首を傾げる。
「……まじでいつから見てんの」トモリが、すぐ隣で何やら作業を始めた少女の横顔に問う。「記憶の限りで俺が鹿を食う話をしたのは、12歳の家族旅行で食べたときだけ」
「愛ですねぇ」目尻を下げて羨ましそうに呟く大学生。呆れ顔でそれを聞き流して、青年は手元に火鉢を引き寄せた。打ち鳴らされた金属片から飛び散る火花。着火剤に灯った炎が揺めきながら大きく広がり、ぱちぱちと薪が爆ぜる。
「ありがとうございます」
大学生が言うなり、トモリのもとに寄ってきた運搬モジュールが燃え盛る火鉢をひょいとつまみ上げる。
「先に屋上行って焼いてますね。トモリさん、麻生さん連れてきてください」
ひらり、と流行りの手振りダンスのようにかざされた大学生の右手がしれっと描くのは、連合空軍のハンドサインーー『持久戦に持ち込め』。
切り分けたばかりの山盛りの鹿肉を抱えた大学生と、トモリが点火したばかりの火鉢を抱えた運搬モジュールが、部屋の隅の非接触エレベーターで並んで屋上に向かう。
ソファに座ったままの青年が、なんとも言えない顔でそれを見送る。
それから、青年にはさっぱり分からない記号や数列を操作する隣の少女を見、青年は手持ち無沙汰に部屋を見回す。
広いリビングの隅に置かれた、見慣れない移動式のガンロッカーが目に止まる。分厚いガラス越し、レトロなライフル銃が数丁、誇らしげに並んで飾られている。
「あれ、今日使ったやつ?」
顔を上げずに少女が答える。「そ。駄犬の私物」
なぁ、とライフルを見ながら青年が言った。
「俺から会いに来ても、いーんだよな」
数列をなぞる少女の表情が曇る。「なぁにそれ。オマエも合鍵とか言い出すの」
青年が振り向く。「……オマエ、も?」
「駄犬」
「だ……あぁ、あの二人の話か?」
少女はコクリとうなずいて、スリッパを履いた足を前後に動かしながら、うっとうしそうな顔をして。「ミスズが『自力で合鍵作れたらそれあげる』ってゆったらしくて。こないだアイツ、全ヘソクリ抱えて土下座しに来た」
「……あー、目に浮かぶ」口角を上げ、青年が小さく肩を揺らす。「似たようなもんだよ。合鍵、どう思う?」
麻生はちょっと考えて。「この家、ミスズとか、来たいやつは好きに来てる。物理鍵かけてないし」
「じゃあ、あの数字、エントランスで打つやつ。あれ教えてくれ」
少女の鼻にシワが寄る。「今の数字なら教えるけど、あれ変数。オマエが計算するより早く変わる」
「……女子高生がお菓子食いながら鼻歌まじりにポチポチ押してる、あれが?」
「普通あれ暗算でやらんけどな」
「……ええと、なら合鍵はいいや。お前の連絡先教えて」
れんらく?と少女が首を傾げる。「いつでもどこでも、上を見てあたしを呼べばいい」
「頼もしすぎるが、それだと一方向で、お前の返事が聞こえないだろ」
あと俺が不審者、とトモリがぶつくさ言うのに、少女がすっと手を出し。
「端末」
青年がポケットから青い端末を差し出して、数秒後、ぽいと突っ返される端末。
再び何やら忙しそうな作業に戻った少女の、その手元を覗き込んで、青年が問う。「で、今日は何やってんの。携帯端末でも作ってる?」
「そんなんとっくに終わらせた」
「そう」
「し、10万台売れた」
「え」
「し、昨日のアプデで誰でも簡単に『遺構』の入り口までアクセスできるようにした」
「おいハッカー」
そっぽをむく少女。
青年が手元の端末に目線を落とす。新規で増えていた見覚えのない番号を選択して、発信ボタンを押す。
『「……呼出音が鳴らないけど、って何これ」』
部屋全体に青年の声が反響する。
「直通」
「直通すぎだろ。呼び出す間……まぁいいや、これで」
少女の機嫌が変わらないうちに話題を切り上げ、礼を言った青年がそそくさと端末を仕舞う。
少女が放置した一枚のパネルを青年が引き寄せ、そこに娯楽番組を表示させる。暇つぶしにそれを眺める青年を、少女がちらと見て、パネルに映る人気女優を指さして、ねぇと聞いた。
「去年47回デートして秋に別れたあの、そこそこ美人とどっちがいい?」
「……お前ねぇ」
「なに」
くりっと振り向く小さい頭に言う。
「どうしてそう人の古傷をえぐるようなこと、言うかな」
「あたしは事実を述べただけ」
「はぁ……」
んー、と小さく呟いた少女が、人差し指を立て。「んじゃあ、そのあとオマエが頻繁に通い始めたガールズバーの」
「わかったもういい俺が悪かったそれ以上言わないで頼む」
数秒後、何かの作業を無事終わらせたらしい少女が満足げに息を吐いて、大半のパネルを消し、両手を下ろす。細い上体が傾いてーー青年の膝の上に、小さな頭がぽすんと載っかる。
青年の手が、少女の頭に添えられる。
「んへへへ」
少女の口から漏れ出た声に、青年が眉を下げる。
「……酔っ払いみたいだな」
肘掛けに乗っかった少女の両足から、モコモコスリッパが滑り落ちる。すかさず寄ってきた白い子犬が片方を咥え、千切れんばかりに尻尾を振りながら、寝床の方へ引きずっていく。
数秒の間。かすかな空調音。
あのねぇ、と小さな声で少女が呟く。「ドーパミン出てる」
「それは、何より」
青年の膝の上で寝返りをうった少女が、恍惚の笑みを浮かべて両腕を空へと伸ばす。青年の頬にそっと添えられる手。
左手の薬指を折って、小型環状デバイスを嵌めた少女の細い手首が、催促するように、くるりと回った。
作業用BGM:Quizknock Youtube/BUMP OF CHICKEN/GYARI