照焼と王子様
ページを捲る手が震えているわ。だけど、私は止められない。四年前の私がそこにいた。コクト様は私を見ていたのね。いいえ、それだけじゃないわ。ずっとずっと、四年前からずっと私だけを求めてコクト様が動いていたと、日記は私に教えてくれている。
「コクト様」
涙がいっぱい出て、鼻水もいっぱい出てしまって、白百合姫なんてきっと言えない顔ですわ。
「リリィ……」
愛しい人の声。こんなグチョグチョの顔で振り向いてもいいのかしら? いつもなら、シシーがハンカチを出すはずなのに、肝心な時にいないのね。
「リリィ、私を気持ち悪いと思ったかい? それには、四年前から君に固執する私が記されているからね」
コクト様は、私の背後で小さくため息を吐かれた。首を横に振る。気持ち悪いなんて思っていないもの。あのレネスから、コクト様は私を救い出してくれた。
「固執して、私の妄想の産物まで着させて悦んで、鼻血まで出した私だ。幻滅したかい?」
するわけないわ。コクト様は、私との婚姻が決まってから、ずっと私のためにいろいろ用意してくださったのも、この日記に記されていますもの。こんなに、待ち望んでもらっていたなんて、嬉しいに決まっていますもの。
「顔を見せて、リリィ」
「ズビッ、ズビィ……顔、グチョグチョだもん」
ああ、なんて恥ずかしいの。いい大人が『もん』だなんて言い方しちゃって、いつから私はこんなに子供っぽくなったのかしら?
「……能面を見るより、いいさ。リリィ、私は君の求めた素敵な王子様でないかもしれないが、そうなろうと努力はするよ」
大きく深呼吸して、ゆっくり振り向きました。
「……」
「……」
鼻血止めの布が鼻に突っ込まれた私の王子様。きっとグチョグチョの顔の私。どっちもどっちよね。お互いに『プッ』と笑ってしまったわ。
「リリィ、好きだよ。すごくすごくだ。そして、ずっとずっと好きだ」
「コクト様、私もですわ。す、好きですわ」
とたん、抱きしめられた体。私もコクト様にしがみつきます。気持ちが溢れると、触れたくなるのはどうしてかしら?
「リリィ……もっと触れたい」
ドクン、ドクンと胸が波打つの。言葉が出てこない。だから、しがみつく腕に力を込めたわ。
「リリィ……優しくするよ」
抱き抱えられ、隣室に運ばれましたわ。……ここから、先は言えませんわ。言えませんことよ。私の胸の内の日記に記されているだけですわ。『リリィの秘密の心部屋』にね。
***
「おっ! 王子様、また潜りにきたのかい?」
翌日、もう一度海に来ましたの。旦那様は朝からニヘラァとしております。恥ずかしいですわ。シシーと従者たちの生ぬるい視線がいたいです。だから、海に逃亡してきましたの。そこで、巷の男に声をかけられましたわ。
「ああ、と言いたいところだが、今日は潜らねえ」
旦那様ったら、口調も巷の男風ね。
「おっと、その髪飾りは……とうとう決めたんだな王子様。真珠姫様ですかい?」
私の真珠の髪飾りを見て頷いた巷の男がぺこりんと頭を下げました。
「真珠姫?」
「へえ、そうです。王子様は、真珠姫様のために一等大きく綺麗な真珠を潜って採ってたんですぜ。ここらのもんは、好きな女に大きな真珠を贈るのが慣わしですからねえ。王子様の採った真珠の前までは、俺の真珠が一番だったんですぜ。王子様は、それよりも大きな真珠を採らなきゃならねえって、毎日海に潜ってやした」
「まあ!」
嬉しくって、旦那様を見つめました。旦那様は、真っ赤なお耳になって『言うんじゃねえ』と男を羽交い締めしましたわ。照れているのね。
「王子様の肌色とマッチョな体は、真珠姫のために毎日海に潜ったからですぜ」
「え?」
ドクンとまた胸が熱くなりました。コクト様の照焼色は、私に真珠を贈るためだったのですもの。
「こら、この口はずいぶん軽いな! こうしてやる」
コクト様は男の頬をムギュと掴みました。口が尖っています。可笑しなお顔になっています。けれど、男は口を止めませんでしたわ。
「その真珠の髪飾りは、王子様の手作りですぜ」
コクト様は男の口をつまみました。男は、むごむごと口を動かしてます。とっても仲良しなのね。そう言えば、シシーとの時だってそうだったわ。仲良しがムカつくのです。今ならその意味がわかる。嫉妬よ。要するに、私は……
「コクト様、大好きですわ!」
くるりんと回って、歩きます。日照った顔を海風で冷やしませんと。うふふ、思い出しましたわ。誓いのキスで倒れた私の妄想を。私の熱い思いで、王子様は照焼のように焼かれてしまったのよ。コテッコテの照り具合に。間違っていなかったのですわ。うふふ……
「言い逃げなんてズルいぞ、リリィ。私も大好きだ」
コクト様が腰に手を回して私の耳元で囁きましたわ。
「ひどい人。私は大声で叫んだのに、コクト様はコッソリですの?」
私もあえて囁きました。つま先立ちをし、コクト様の耳元で。コクト様は、ばっと鼻を押さえました。
「リリィ、鼻血が出てしまうではないか。だが、そうだな。私も叫ぼう!」
コクト様は私から離れ、海に向かって大きく息を吸い込んでいます。
「リリィが大好きだぁぁ!」
海に向かって叫んでおります。本当に可笑しな方。振り向いたコクト様の右鼻から、ツゥーと一筋の赤いものが出ておりますが、それさえも愛おしいわ。きっと、私も可笑しな方になっているのね。
「帰りも新鮮な肝が食べたいぃぃ」
「もっと大きな真珠を採ってやるぅぅ」
シシーが海に向かって叫びました。巷の男も叫びました。そして、従者も侍女たちも叫びはじめたわ。可笑しさは伝染するのかしら?
胸が熱いわ。うずうずしますの。うきうきしますの。どうしようもなく、嬉しいわ。この気持ちはレネスでは感じたことのないもの。そう……幸せだと思う。この感情が幸せなのね。胸の前で手をあてます。
「どうしたいだい、僕の子猫ちゃん?」
キラリンと白い歯が輝いてますわ。相変わらずコクト様はうざったいし、暑っ苦しいし、けれどちょっとだけ……胸が疼くのですわ。いいえ、幸せで胸が疼くのですわ!
「僕の子猫ちゃん、胸が苦しいのかい? さあ、僕が診てあげよう」
ひいぃっ。なんですの、その緩んだ顔といやらしげな手つきは! 海辺を走ります。
「きゃあ」と逃げる私。
「待てえ」とコクト様。
「嫌よお」と答える私。
「捕まえるよ! いつだって、どんなときだって、リリィを離しはしない! 幸せにする! だから、私の胸に飛び込んでくれ!」
ああ、なんて方。海ではなくて、ちゃんと私に向かって叫んでます。大きく手を広げ、ニッカリ笑って。私リリィ、コクト様に飛び込みましたのよ。
『白百合姫と照焼王子』終わり
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