日常
夏の暑さというものは、容赦なく体を照りつける。遠くで泣いている蝉の声で暑さがさらに増した。
「暑いよー」
三雲は、黒いソファーの上で仰向けにぐたーっと寝転がっていた。年齢は十五歳で、一般的には中学生の少女。それがだらしない姿を晒していた。長い栗色の髪を広げ、手と足がソファーからはみ出し、タンクトップの腹部がきわどい位置までめくれている。しかしそれを直す気力さえもなかった。
この部屋――事務所にエアコンはない。数ヶ月前に壊れてそのままだ。
小さなビルの二階に構えられた事務所は十四畳ほどの広さで、床も壁もコンクリート。真ん中に来客用の机と二人掛けのソファー二つと、奥に所長席の代わりのパソコンデスク。あとは本棚が二つ置いてあるだけの殺風景な部屋だった。窓はパソコンデスクの後ろに二つあるだけで風通しは絶望的に悪く、日当たりは最高に良かった。
隣には住居スペースとなっている部屋もある。エアコンがきちんと作動する他、小さくてもキッチンはあるし、シャワーも完備している。
だが昼間のうちはずっと事務所の方にいた。エアコンの効かない部屋で、来ない客を延々と待ち続けているのは、現在節電中だからだ。環境のためではなく、単純にお金がないからである。
そんなわけで、百円ショップの風鈴と古い扇風機の稼働音だけで、暑さをしのいでいる。
「むー、暑いよー!」
「うるせえ」
三雲が叫んだ瞬間、辞書が飛んできた。
「ごふっ」
そのまま三雲の腹部にクリーンヒットする。
「暑いとかいうな、余計暑くなるだろうが」
この事務所の主、辰海咲哉はそう言った。年齢二十一歳、男。机の上に足を載せ、何かの本を読んでいる。足の横には分厚い本が並び、その中の一冊が飛んできたようだ。一番薄い(それでも辞書なので重量がある)のが飛んできたのは、手加減ではなく、単に一番上にあったからだろう。下のほうの分厚い国語辞典が飛んでくる可能性もあった。
「むー! だからって辞書を投げるのはひどいと思うな!」
三雲はガバッと起き上がり、抗議した。
「じゃあ、三雲。お前が棚に隠してるマンガを外に投げるか?」
「いえ、いいです、ごめんなさい」
抗議はあっけなく失敗した。まさか隠していたことがばれているとは……棚のマンガに罪はない。
「というか、お前の髪の毛が一番暑苦しい」
三雲のほうをちらりとも見ず、咲哉はそう言った。
「えー、ロングはショートより人気があるんだよ?」
むすっとした顔で三雲はそういう。
「はあ? 人気?」
「うん。男の人はね、ロングのほうが好きなんだって」
「何の情報だそれは」
「インターネット」
「またお前は仕事場のパソコン勝手に使いやがって……」
ここにはパソコンが二台ある。どちらもノートパソコンで、事務所と住居の一台ずつ。パソコンを使うことについては小言を言っても、どうもしなかった。情報収集だけならば文句を言うつもりはないのだろう。これが有料サービスやネットショッピングをしようものなら、殴られる可能性しかない。
「咲哉はどっちがいい?」
「何が?」
「ロングヘアーの女の子と、ショートヘアーの女の子」
「お前以外」
即答だった。
「ミもフタもない……」
本当に容赦ない。三雲はため息をついた。そして人差し指をビシッと咲哉に突き出して、文句を言った。
「大体、咲哉のそのスーツだって十分暑苦しいって思うな!」
咲哉の服装は、上下黒のスーツ。当然長袖。ボタンも第一ボタンまで止まられ、ネクタイもきっちりと締めている。確かに暑苦しい。
「仕事服を着るのは当たり前だろうが。どっかの馬鹿と違って事務所で薄着にはならねえ。てか、人を指でさすな」
「むー……」
「それに、暑いと思うから暑いんだよ」
そう言う咲哉の顔には汗一つ流れていない。
「そりゃあ、咲哉は暑くないよ! ここの唯一の扇風機、咲哉が占領してるもん!」
咲哉の隣では扇風機が唸りをあげて風を作っていた。首振りではないので、部屋全体に送風してくれない。咲哉の場所だけ、涼しい空間ができていた。ずっと風を浴び続けるのは健康的にどうかと思うが。
「良い言葉を教えてやろう、三雲。誰もが知ってるマンガの有名な言葉だ」
「え、何?」
「俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの」
「良い言葉じゃないよ、ただのジャイアニズムだよ!」
確かに誰もが知ってるだろうけど。国民的マンガだけれども。
「うるせえ、居候のくせに出しゃばるなよガキが」
「むー、ひどいこと言われてるけど言い返せない……」
三雲は理由あって咲哉の事務所に居候している身だった。ここを追い出されれば、行くあてはない。帰る家もない。主がどんなにひどい人間であろうとも、ここを離れることはできないのだ。もとより離れるつもりはないが。
「言い返したければ、一人前になるんだな」
咲哉にそう言われ、三雲は何か反論できるものはないかと考え……思いついて呟く。
「三雲、胸は一人前だよ?」
同年代の中では結構大きいのではないか、という胸を自慢する。だが、咲哉は文字通り見向きもしなかった。しかもそれだけではなく。
「はっ」
「鼻で笑われた!?」
「いいか、三雲。この世にはお前よりもっと大きい胸があるし、胸の大きさで一人前かは決まらねえ。それに人の好みはそれぞれだ。巨乳だろうが貧乳だろうがな」
咲哉はカッコよくそういうが、言っている内容はあまりカッコよくない。
「じゃあ、咲哉はどっちがいい?」
「は?」
「胸の大きい子と、小さい子」
「お前以外」
「ですよねー……」
お約束だった。
「むー、咲哉はもっと三雲に優しくしてもいいと思うな!」
「優しくねえ……」
そこでようやく咲哉は三雲のほうを見た。
そして眉をひそめた後ため息をつき、立ち上がった。そのままツカツカと三雲のほうへ近づいてくる。
「え? え?」
驚いたのは三雲のほうだった。ほんの冗談で言ったつもりで、いつもならスルーされるところなのに。
「三雲……」
そう呟きながら三雲の前に立ち、座っている三雲と同じ高さになるように跪く咲哉。それはまるで騎士のようだ、と隠していた少女漫画の内容を思い出した三雲は、ぱあっと表情を明るくした。
「咲哉、やっと三雲の愛を受け入れてくれるんだね!」
「愛? そうだな……」
そっと手を伸ばす咲哉。頭をなでられると思った三雲は、嬉しそうに目を瞑った。しかし、その手は指をそろえ、三雲の頭と垂直に構えられた。
「これが愛の鞭だああああああああああ!」
「おふ!」
ゴスッという鈍い音とともに、空手チョップが三雲の頭部を襲った。
「わ、我々の業界ではご褒美です……」
頭を抱えてうずくまっている割には、元気なようだった。
「じゃあ、もう一発いっとくか?」
「いえお断りしておきます……」
三雲はぶんぶんと頭を横に振った。
「でも、なんでいきなり……」
「ふん、自分の姿を鏡で見てみることだな」
咲哉は三雲の目の前に手鏡を突きつけた。
そこで初めて気が付いた。
三雲の頭に耳が生えていたのだ。猫耳、というよりは犬耳。厳密に言えば狐耳である。左右に人間としての耳はちゃんと生えているので、この狐耳はただの飾りだ。
三雲は普通の人間ではない。所謂『狐憑き』と呼ばれるものである。
気を抜くと耳が出てしまい、時には狐のしっぽが出てしまうことがあった。
まだ中学生の三雲が咲哉のところに居候しているのは、そういう事情が関係したりする。
「夏の暑さかなーえへへ」
舌を出してとぼけてみせる。世間的にはかわいい仕草なのだろうが、咲哉の顔がわずかに歪み、イラッとしたのがよく分かった。
「なんならその耳、焼き払ってもいいんだぞ?」
物騒な言葉とともにスーツの胸ポケットから取り出したのは、ライターでも火炎放射器でもなく一枚の紙だった。五芒星が描かれていて、大きさは一般的なトランプぐらいだ。咲哉は札と呼んでいる。
その一枚の札を見て、三雲は顔を蒼白にさせた。
「ごめんなさい、それだけは勘弁してください!」
顔の前で手を合わせて懇願する。
咲哉は札を使いあらゆる術を使うことができる術師だ。
三雲を脅した術は『憑き払い』。文字通り、人に憑いた妖を払う技だ。しかし、三雲に憑いた狐を払うのは難しく、抑え込むのがやっと。出てきた耳を再び封じ込めるのは簡単だが、激しい痛みを伴う。それこそ耳を焼かれたような。
「戻れー戻れー……」
三雲は必死に念じた。時間はかかるが、自分で封じ込むことはできる。コントロールできるようになってきたということだろう。
耳はだんだん小さくなり、髪の中へ消えていった。それを確認すると、咲哉は札をしまう。
「十二秒か。前よりは早くなったが、十秒が切れないな」
ちなみに術を使えば四秒ぐらいだ。
「えー三雲頑張ったよ?」
「お前が頑張ったって言っても、信用できねえよ」
ため息交じりに咲哉はそう言った。
とそこで、着信音が鳴った。三雲には持たせていないので、咲哉の携帯電話だ。事務所にも古い固定電話があるが、鳴ることはほとんどない。
画面に表示された『比賀壮真』という名前を見て、咲哉は歯ぎしりした。




