第1話 逃避行の果ての世界
空間がグラスのように割れ、地が冥府に誘うかのように裂け、カチコチと時間が狂っていく。
人々が逃げ惑う中、力になる為、核を探すのに必死に目を凝らした。
視線の先にあるのは、悍ましい黒い靄のようなもの。
見ているだけで吐き気を催し、強烈な目眩と恐怖が襲いかかる。
──以前の自分ならば、ここで逃げ出していただろう。
「あそこに!」
そう叫ぶと同時に、一閃。
核は真っ二つに割れ、黒い靄も徐々に晴れていく。世界が少しずつ、もとに戻り始める。
これまでいじめられていただけの自分ならば、決して成し得なかったはずだ。
──これは、自分が世界の歪みを直す、少し前の話。
闇夜を駆ける。只管に、山の奥へ、奥へと。
木々の隙間から見える黄色い月はまぁるく、辺りを煌々と照らして道標となっていた。
転んでは立ち上がり、鼻血を拭ってまた駆け始める。
振り返ると、街灯が夜闇を照らす街が小さく見えた。
痛みも、苦味も、哀しみも、全部置き去りにするかのように、僕はまた走り出す。
辿り着いたのは、延々と続く赤い鳥居と苔むした石段。
滑りやすい足元に気を配りながら、いくつもの鳥居を潜り、息を切らせて石段を登っていく。
延々と並ぶ赤い鳥居の最後には、異様な「黒い鳥居」があった。
そこを潜ると、待っていたのは狭く、汚れ切り、見捨てられた社。
賽銭箱の後ろにある階段に腰掛け、ブレザーの裾をぎゅっと握りしめながら、ふうっと深い息を吐き出した。
*
紙や消しカス、雑巾や黒板消しを投げられる。黒板消しのクリーナーを頭からひっくり返される。
そんなことは、彼にとって日常茶飯事だった。
陰湿な嫌がらせを受けるたび、怒りと悲しみに体を震わせた。
ニヤニヤと顔を覗き込まれては笑い物にされ、罵詈雑言を浴びせられ、頬を叩かれたり水をかけられたりする日もあった。
子供の頃から、誰の言葉も、何を言っているのか分からなかった。
周囲の人間は、まるで鼻を吹き抜けるかのような奇妙な音で意思疎通をしていた。しかし自分にはそれが理解できず、喋れず、結果的に不気味な奴としてイジメに繋がってしまったのだ。
親すらも彼を不気味がり、ご飯は作るものの、決して一緒に食べようとはしない。一切の干渉を断絶された。
そんな限界の家庭環境があったからこそ、今回、衝動的に逃げ出すに至ってしまった。
*
激しく波打つ胸の鼓動。それは走ったことだけが原因ではない。
不安と焦燥が入り混じり、全てを投げ出して逃げ出してしまったことへの恐怖が、じわじわと体を支配していく。
走り疲れたのだろう。急激な微睡みが襲い始める。
俯くと、勢いのままに着てきてしまった制服の裾と、教科書が雑に詰まったスクールバッグ、そしてその隙間から覗く弁当箱が目に映った。
季節は冬。
幸いにも、今日は水をかけられずに済んだため、凍死の心配はない。
安心したせいか、疲れ果てた火照る体に、さらに深く微睡みが落ちてくる。
意識が完全に途切れそうになった──その瞬間だった。
目の前の鳥居が、かき消えるように消え去った。
腰掛けていたはずの社の階段は、いつの間にか、ただの冷たくゴツゴツとした岩肌へと成り代わっている。
「……っ!?」
ハッと空を見上げると、そこにあったはずの見慣れた黄色い月はない。
代わりに浮かんでいたのは、錆びた鉄のような、禍々しい赤褐色の月だった。
異変を感じて跳ね起きる。鞄を強く抱きしめながら、必死にあたりを見渡した。
周囲には先程の社も、赤い鳥居も何もない。ただ鬱蒼とした未知の森が広がり、冷たい夜風がひゅっと吹き抜けていく。
草木がざわざわと揺れ、地面の枯れ葉が舞い上がっては闇へと消えていく。
風が止み、しばしの静寂が流れる。
森は先程よりもどんよりと暗さを増し、頼りだった赤褐色の月も光が弱く、周囲を見通すことは難しかった。
──ガルルル……。
途端、周囲の闇から低く唸るような獣の声が聞こえ始める。
叢の向こうから現れたのは、銀の鬣に、大鎌のような鋭い歯。そして口元からボタリボタリと不浄な涎を垂らす狼。
一頭、また一頭と、闇から這い出てくる。
それらはあっという間に周囲を囲むと、姿勢を低くした。いつでも食い殺す準備はできていると言わんばかりに一層低く唸り、その牙を微かな月光に鈍く光らせる。
逃げ場のない恐怖に身を震わせ、祈るように胸元を握りしめた、その時。
──ひゅん、と風が鳴り、狼のうち一頭の首が唐突に刎ね飛ばされ、宙を舞った。
「森が騒がしいから来てみれば……誰だ、あんた」
剣呑とした冷たい声が、静まり返った森に響き渡る。
恐怖で声が出ない。ただ、狼の首を一瞬で刎ね飛ばしたその男を、僕は見つめることしかできなかった。
何より驚いたのは。
男のその声が、「鼻を吹き抜ける音」ではなく、はっきりと意味のわかる『言葉』として脳に届いたことだった。
「……何だ。魔力の様子がおかしいな。どこから来た?」
男の言葉に、声を発することすらままならない。ただ黙りこくりながら、ずるずると後ずさる。
すると、痺れを切らした男は刀の鯉口を切り、次から次へと襲いかかる狼を屠っていった。
辺りに生々しい血のにおいが充満する。刎ねられた首や胴体が、ボトリ、ボトリと音を立てて地面に落ちていく。
狼たちは断末魔を上げる暇さえなく、またたく間に命を散らせていった。
すべての狼を狩り尽くすのは、ほんの一瞬の出来事だった。
服や肌、外套には、一切の返り血すらついていない。
月明かりに照らされるその男は、この世の者とは思えないほど冷酷で、冷徹に映った。
男は刀についた血を鋭く払うと、静かに鞘へと納める。
そして、冷たい眼光をこちらに向け、再度問いかけた。
「あんた、誰だ」
その圧に押されながらも、今度はゆっくりと口を開き、掠れた声を絞り出す。
「なお……です」
男はその答えに一瞬目を見開くと、次いで眼光をさらに厳しく光らせた。
「それ、神名じゃないか。……俺にそんな趣味はない」
「……神名?」
不思議そうにオウム返しすると、男は驚いたように眉をひそめ、何かを考え込むかのように顎に手をやった。
やがて、一歩、二歩と近づいてくると、額に躊躇なく人差し指をあてる。
「なお」
「え……はい…………」
思わず返事をすると、男はすうっと底冷えするような視線を向けて、呟いた。
『眠れ』
途端、濃厚な桃の匂いが辺りに立ち込める。
先程までの緊張を吹き飛ばすような、強烈な眠気が一気に襲いかかった。赤子のようにグラグラと頭が揺れる。
「次、生きて会うかは運次第だな」
男のその言葉を最後に、男の姿は鬱蒼とした森の中へと消え、なおの意識は深い夢の中へと落ちていった。
*
『ねぇ、誰か……』
甘い香りと、深い暗闇の中。
どこからか、小さな少女のすすり泣く声が聞こえる。
ゆっくりと目を開け、周囲を見渡すと、そこは眩いほどのパステルカラーに彩られた世界だった。
声の主を探そうとあたりを見渡すが、そこに見えるのは、これまでの人生で受けてきた虐めの痕跡や、自分が生きてきた歪な足跡ばかり。
そこへ、一羽の黒い鳥が現れた。
鳥の脚につけられた鈴が、リン……と可憐に鳴る。思わずその音に誘われるように、足が動いた。
鳥が羽ばたくたびに鈴が鳴り響く。まるで、こちらを急かしているかのようだった。
『誰か……止めて。あの人を……』
少女の泣き声が、徐々に近づいてくる。
それにつられて、何故か自分の胸まで締め付けられ、泣きそうになってしまう。それほどまでに悲痛で、絶望的な泣き声だった。
『もう嫌なの。痛いの。辛いの……』
案内をしていた鳥が急に立ち止まると、再度リン……と音を鳴らし、煙のように掻き消えた。
その先に、膝を突き、泣き崩れる少女の姿があった。
ただ黙って少女の方に近づくと、気配に気づいた彼女が、大きく目を見開きながら振り返る。
その瞳は左右で色が異なる、神秘的なオッドアイ──金と赤の目を有していた。
何故かその瞳に、酷く焦がれ、敬い、崇拝するかのような奇妙な錯覚に陥る。
激しい動揺を覚えながらも、なんとか平静を保ち、声をかけた。
『君は……』
思わず声を上げると、少女はさらにボロボロと涙を溢れさせ、拒むように顔を両手で覆ってしまった。
悲痛なその泣き声に、「何かしてあげたい」と強く思う。しかし、無力な自分が手を差し伸べたところで何ができるというのだろう。ポケットには、涙を拭うハンカチすら入っていなかった。
『お願い、もう楔は嫌なの。誰か助けて……』
──パキンッ!!!
悲鳴のような音を立てて、パステルカラーの空間がガラスのように割れた。
足場を失い、真っ逆さまに落ちていく。
少女は驚いた顔をしながら必死にこちらに手を伸ばすが、その小さな体では自分を支えきれないと察したのか、途中で手を伸ばすのを諦めてしまう。
落ちていく闇の中で、少女の声だけが鼓膜に響いた。
『楔はあなたの力、魔力の源。お願い……あなたを知って』
正直、何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
現実世界で何一つ成し遂げられなかった無力な自分に、一体何ができるのかと、自嘲の笑みすら浮かんでくる。
──だが、あの少女を助けなければならない。
根拠のない、しかし炎のように熱く固い決意が、なおの胸の奥底で確かに宿った。
神名についてなどは今後、ストーリーで出てきます




