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伝承の怪物たち  作者: 右顧左眄
絶海の巨人
8/9

黒虫と巨人

薬湯の効果は、すぐさま表れた。


 先ほどまで微動だにせず眠っていたマリアだったが、突如として身体を大きくのけ反らせ、苦悶の声を上げ始めたのだ。

 小さな四肢が激しく痙攣を始める。

肌からは滝のような凄まじい汗が噴き出してきた。

別のなにかが、少女の体内で暴れ狂っているかのような、異様な光景だった。


 セルゲイ達は暴れるマリアの体を押さえつけるた。

こうなっては、幼いマリア自身の生命力が病魔に打ち勝つのを待つ以外に手はない。

(頑張れ……耐えるんだ……!)

セルゲイは心の中で祈る。

ヤニスと老人は、マリアの小さな手を握り締め、涙ながらに神への祈りを続けている。


──その時、マリアが激しく嘔吐した。

 幼い子供の胃から出るにはあまりに不自然な量だった。

ひとしきり全てを吐き出すと、マリアは急に毒気が抜けたように静かになり、ピクリとも動かなくなった。


 部屋の中にいた誰もが、言葉を失った。

セルゲイたちも最悪の結末を覚悟し、マリアの死を確認しようとそっと手を伸ばした、その瞬間だった。


 マリアの身体が大きく跳ね上がり、大量の血を吐き散らした。

そして、その赤黒い血溜まりと共に、「何か」を床へと吐き出したのだ。


 ベチャリと床に叩きつけられたそれは、悍ましい意志を持つかのようにのたうち回ると、またたく間に部屋から逃走を始めた。


「逃がすでない!」


とっさに教授が叫ぶ。


 セルゲイは兵士時代を彷彿させるような滑らかな動きで腰の裏に帯びていた短剣を抜き放ち、床を這いまわるそれを切断した。

それは切断された後も、狂ったように床を叩いていたが、やがて完全に動かなくなった。


「マリアは!?」

 セルゲイは剣を収める間も惜しみ、すぐにマリアへ視線を戻す。


「……ふぅ。わしらの勝利じゃな。命を一つ、儲けたぞ」

 マリアの胸元に耳を当てていた教授が、深く息を吐き出し、柔らかな笑みを浮かべて告げた。


 寝台に横たわるマリアは、まだ少し苦しそうではあるものの、先ほどまでが嘘のように穏やかな寝顔を覗かせている。

あの幼い身体は、薬湯の効果を正しく受け入れ、体内の病魔を完全に放逐して見せたのだ。


ヤニスと老人が、恐る恐る近寄ってくる。

「先生……本当に、本当にマリアは助かったんですかい? もう、もう大丈夫なんですかい?」


「おそらく峠は越えたじゃろう。熱も下がってきておるようじゃ。もう数日、このまま安静にしておれば、元気に快復するはずじゃて」


「油断は禁物ですがね」

セルゲイが冷静に言葉を添える。


「体力を酷使しすぎている。完全に快復するまでは、我々が責任を持って経過を観ましょう」


「先生方……ありがとうございます……! ありがとうございます……!」

 ヤニスと老人は、大粒の涙をボロボロと流しながら、何度も、何度もセルゲイたちに向かって深く頭を下げ続けた。


「さあ、今日はもう夜も遅い。マリアの傍にいてやるんじゃよ」

 教授は優しく諭すように二人の肩を叩き、夜間の看病の注意点を伝えた。

さらに万が一の急変に備え、必要な医薬品と共に弟子を隣の部屋へ待機させる手配を整える。


―――セルゲイは床に転がっていた「何か」を、誰にも気づかれぬよう素早く布に包んで回収していた。


 大学の研究室へと戻るなり、ニコラウス教授が重々しく呟いた。

「恐ろしい薬じゃて、セルゲイ君。やみくもに公表してみろ、医学界がひっくり返るぞ」


「私も同感です。発表については後程ご相談させていただければ」


「うむ、それが賢明じゃな」


 先ほどは「油断はできない」と告げたセルゲイだったが、実のところ、内心ではすでに確信を持っていた。

引き上げる直前の診断で、マリアの熱は完全に平熱まで下がり、皮膚の黄疸も目に見えて引き始めていたからだ。

弟子を監視につけたのは、今後の詳細な経過データを収集するためという、研究者としての冷徹な目的が主であった。

 それよりも、目下の最優先課題は別にある。


「先ほどの『あれ』は回収してあるかの?」

 教授の目が、鋭くセルゲイを射抜く。


「こちらに回収してあります」

セルゲイは懐から容器を取り出し、中身を教授に示した。

 細長い節足動物だった。

分類するならば「百足ムカデ」の類だろう。

だが、元からの奇形なのか、それとも切断された影響なのか、その頭部にあたる部分が綺麗に消失していた。


「……あの奇病の正体は、この虫だったということか?」


「状況証拠から言えば、そう結論づけるのが自然です。ですが、だとすればなぜ、これほど大規模な流行を引き起こしながら、今まで誰にも目撃されなかったのかという疑問が残ります」


「宿主が死ぬと同時に、この虫も体内で消滅するのか? であれば、自力で持ち直した者たちの体内はどうなっておる? まだこやつが潜んでおるというのか……?」


「分からないことだらけです。詳しい調査は後日ということで。あの親子にも話を聞いてみる必要がありそうですね」


「そうじゃの。巨人を探しに来たというのに、課題がどんどん増えていくわい」

教授は大きく背伸びをして、自身の凝り固まった身体をほぐした。


「まあ、本日の結果だけを見れば、若い命が一つ救われた。上々、上々。さて、そろそろ眠るとするかの」


「結局、私たちはなんの休息を取れませんでしたね」

セルゲイは首をひねるたびに、骨がミリミリと嫌な音を立てるのを感じていた。

元兵士とはいえ、研究者になってからの徹夜続きには、さすがに肉体の限界が近づいている。


「うむ、学問の道というのは長く、険しく、そしてどこまでも地道なものじゃよ。ではな、セルゲイ君。明日また会おう」


「ええ、教授。お疲れ様でした」

互いの労をねぎらい、セルゲイは研究室を後にした。


翌朝。

 セルゲイが大学の研究室に出向くと、すでにニコラウス教授は何事かぶつぶつと呟きながら、せわしなく書類の束をひっくり返していた。


「おはようございます、教授」

セルゲイが挨拶をする。


「おお、セルゲイ君、おはよう!」

 教授はセルゲイに目も合わせず、狂ったようにペンを走らせている。


「何か、火急の案件ですか?」


「ああ、昨晩、南部の一帯で比較的大きな地震があったそうじゃ。その対応として、議会からわしの案件の状況報告が求められておる」

 どうやら、火山の方も悠長に構えていられる状況ではなくなってきたらしい。


「分かりました。では、私はあの親子の容態確認と、例の虫についての聞き取りを進めておきます」


「すまんが、頼んだぞ」

 忙しい教授を残し、セルゲイは先日の宿に向かった。


「先生! 待ってたぜ!」

 宿に到着すると、通路で待っていたヤニスが満面の笑みでセルゲイを迎えた。


「マリアの様子はどうだ?」


「それが、朝方にはすっかり元気になっちまって。今じゃ部屋の中を跳びはねて走り回ってるよ!」

 ヤニスは本当に嬉しそうに語り、それから一転、その場に真っ直ぐに膝をついた。


「マリアを助けてくれてありがとう。この御恩は死ぬまで忘れねえ」

 心からの感謝を述べる男に、セルゲイは不器用に肩をすくめた。


「今後はあの子のために酒は控えろよ」


「うっ……分かってるよ」

 セルゲイは笑いながら、親子の部屋の扉を開けた。


部屋の中では、すっかり穏やかな顔になった老人と、小さなマリアが仲良く朝食を摂っていた。

(……もう固形物を胃が受け付けるほど快復しているのか。あの薬湯の効能には、改めて畏怖すら覚えるな)


「おお、先生! 来てくださったか! マリアを救っていただき、本当に、本当にありがとうございます」

 老人はヨルゴスというらしい。

ヨルゴスが先日と同様に床に平伏しようとしたため、セルゲイは「礼なら先ほどヤニスから十分に貰いました」と言って、慌ててその身体を抱き起こした。


「私は当たり前のことをしただけです。マリアちゃんの診察を終えたら、いくつかお二人に質問したいことがあります」

 セルゲイは本題に入ろうとすると。


「ねえ、おじさんはお医者さんなの? ヤニスおじちゃんから聞いたの、マリアを助けてくれたって。おじさん、ありがとう!」

 マリアが無邪気な瞳でセルゲイを見つめてくる。


「どういたしまして。よく頑張ったね、マリアちゃん」

 セルゲイは、生来の仏頂面を精一杯歪めて、精一杯にこやかな笑みを作った。

元兵士という経歴のせいか、彼は昔から子供に懐かれる性質ではなく、どちらかと言えば顔を見ただけで泣かれることの方が多かった。

 しかしマリアにはその威圧感が通じないらしく、その後も「おじさんの仕事は何なの?」「どこから来たの?」と、あれこれ質問攻めに遭う羽目になった。


 ひとまずマリアの診察を行う。

やはり皮膚の黄疸は完全に消失しており、医学的にも「完治」と言って差し支えない奇跡的な状態だった。

 一通りの問診を終えると、まだ体力が戻りきっていないのか、マリアは船を漕ぎ始めた。

ヤニスが優しく毛布をかけ、少女が静かな眠りに落ちるのを見届けてから、セルゲイは本題の質問を切り出した。


「こんな生物に見覚えはないか?」

 セルゲイは、懐から取り出したガラス容器を二人の前に置いた。

中には、昨日切断したあの不気味な虫の死骸が入っている。


「なんだこりゃ? ……なんかの虫か?」

 ヤニスは顔をしかめ、心当たりがないといった様子で首を横に振った。


「マリアちゃんの体内に潜んでいた代物だ。これが例の奇病を引き起こす原因である可能性が極めて高い」


「――こいつが……! こんなちんけな虫ケラが、姉貴を……村の仲間たちを殺したっていうのか……!」

 ヤニスの顔に怒りの感情が生まれる。


「まだ断定はできないがね。だからこそ情報が欲しい。村の周辺や、漁の最中、あるいは山の中で、これに類する生物を見たという噂はなかったか?」


「先生、わしはあの村に生まれて七十年になるがこんな生き物は見たことない」

 ヨルゴスが記憶を辿りながら重々しく告げた。


「マリアの母親──ワシの娘を埋葬した時も、このような生物が遺体から出てきたという話は皆無ですじゃ」

 セルゲイは淡々とその証言を羊皮紙に記録していく。


「では、もう一つ。村でかつてこの病を発症し、運よく生き残った者たちの『その後』について、何でもいいから教えてほしい」


「生き残った奴ら、か……」

 ヤニスは苦しげに視線を落とした。


「村で生き残った連中はな……まともに歩けなくなっちまったり、急に言葉が喋れなくなっちまった奴ばかりだ」

(後遺症があるということか、一度村で昨日の薬湯を試してみる価値はあるかもしれないな)

 セルゲイは思考を巡らせながら、その後もいくつか事務的な質問を重ねた。


全ての聞き取りを終えた頃には、陽はすでに中天に上り、昼時を迎えていた。

 セルゲイが回答の礼を述べて立ち上がろうとすると、ヨルゴスから「命の恩人に、ぜひともおもてなしをさせてくだされ」と誘われた。

セルゲイはそれを丁寧に、しかし頑なに断った。

その金はマリアちゃんの今後に使うべきだと言って引き下がらせた。

その代わり村に立ち寄った際は盛大にもてなさせてくれと言われた。


 別れ際、この二人が漁師であることを思い出したセルゲイは、あの火急の懸案について尋ねてみることにした。

「最後に個人的な興味で一つ教えてほしい。……私は現在、この地方特有の『巨人伝説』について調査している。二人の村にも、巨人の伝承は伝わっているだろうか?」


「巨人の話かい? もちろんあるさ。アテンの海で生きてる漁師なら、知らねえ奴はいねえよ」


「左様。ワシらアテンの漁民にとって、あれは先祖代々、親から子へと語り継がれる大事なお話ですじゃ」


「よければ、それはどんな物語か詳しく聞かせてもらえないだろうか?」


「俺はうろ覚えだからな。親父、頼むわ」


「お前という奴は、本当に……」

 ヨルゴスはヤニスを軽く睨みつけると、咳払いを一つして、その伝承を語り始めた。


「その昔、アテンからほど近い火山に、罪を犯した火の神が埋葬された。その火の神は死してなお、すさまじい怒りに苛まれており、その感情が高ぶるたびに火山が噴火して周辺に甚大な被害を与えたそうだ。困り果てた神々は──神の一柱である『巨人の神』に、火山の封印を命じた」


(……ん?)

 セルゲイの手が、ピタリと止まる。


「その巨人の神は、周辺の『巨人族』たちを力で屈服させ彼らに知識を伝えた。やがて巨人族は民とも交流するようになり、民草と協力して生活するようになったという。そして巨人の神は大きな地震が続くようになったとき、【角笛】で自分を呼ぶように巨人の一族に伝えた。と言う物語ですじゃ」


 ヨルゴスが語り終える。

しかし、セルゲイは動揺のあまり、完全に身体を硬直させていた。


「……お退屈な昔話で、恐縮ですじゃ。やはり学者の先生には退屈でしたかな?」

 セルゲイが無言で固まったのを見て、話がつまらなかったのだと勘違いしたヨルゴスが、申し訳なさそうに頭を下げる。

 その言葉で、ようやく我に返ったセルゲイは、思わず身を乗り出して叫んでいた。


「――待ってくれ! 神々は『巨人の一族』に火山を監視するよう命令したのではなかったのか!?」


「いえいえ、神々は『巨人の神』に火山を封印するように命じたのです。地上の巨人どもは、その神によって力で従えられただけの獣に過ぎませぬよ」

 ヨルゴスは不思議そうな顔で、淀みなくその差異を訂正した。


「では、巨人に知識を授けたのは……? 学問の神ではないのか?」


「初めからこの地に派遣され、知識を広めたのは『巨人の神』だけだと聞いておりますが……?」

 ヨルゴスが不思議そうに答える。


「それと、その【角笛】とはいったい!?」

 セルゲイの脳裏に、最大の疑問が突き刺さる。

大学のどの古文書にも、教授が集めたどの文献にも、「巨人を呼び寄せる角笛」などという単語は一言も記述されていなかったのだ。


「巨人の一族が代々受け継いできたという神具、と言われておりますな。まあ、あくまでおとぎ話の伝説ですがねえ」

 ヨルゴスは笑いながらそう答えた。


手元の羊皮紙を見つめるセルゲイの指先が、微かに震えていた。

 歴史の真実というものは、時として権威ある学者の机の上ではなく、文字も持たない民草の口伝の中にこそ、その生々しい姿を残している。

 運命という歯車が、人間の都合などお構いなしに、凄まじい速度で噛み合い、回り始めているのを、セルゲイは鳥肌が立つような戦慄と共に思い知らされていた。

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